Archive for 12月, 2009

時は存在なり

木曜日, 12月 31st, 2009

今日は12月31日年末だ。この年末の日があるから、2009年も2010年も把握=存在できる。

「時間と存在」との関係はどうなっているのだろうか?

「ジン」というTBSのドラマで、過去にもどって活躍する医者の物語であるが、そのテーマは過去を消すと今も未来も消えるかどうか?ということである。

しかし、このドラマの設定そのものが、人は実際に過去にもどることはできないという事実を否定してしまっているので、答えは過去を想像し、今の姿を見直すという空想になってしまう。

もし、突然記憶喪失になったら、自分が誰かどうかも不明になる。これは過去が消えると自分という存在も消えることになるということだ。

では、未来が消えたらどうなるだろうか?

この場合、鬱病や自身喪失・自暴自棄・生きる気力喪失に陥ってしまい、自殺他殺志願者になってしまう。つまり、自分の存在を消える、また消すのである。

「今に生きる」という言葉があるが、これはそれ文字通りの意味では無理な生き方である。この今に生きるという意味は、過去と未来を両方しっかりと把握して、今をしっかりとつかみ取って生きるという意味である。

つまり、過去現在未来の時間を把握して生きることは自分自身の存在をしっかりと認識することである。

時間は存在なり

存在もまた時間なり

今日は年末である。時間の節目である今である。今までの自分、これからの自分の姿をしっかりと把握し、今日の日を迎える日である。

私は明日は還暦を迎える老人の域に入る。気分はまったく二十歳ではあるが、その事実とその精神の差が大きいものである。この事実と精神もまた、時間と存在のような関係に思えるのだ。

今まで何をしてきたか、これから何をするのか?

そこから今の自分の存在をつかみとるのだろう。

よいお年をお迎えください!

 

必要以上のお金を稼がない

土曜日, 12月 12th, 2009

 河川敷の草刈りをすると、意外なものが出現した。

 なんと、

1,物置 2,排水孔 3.ゴミ袋 4.河川敷の立て看板

排水孔から水は流れてなく、ときどき川に流れ込むくらいのようだ。

つまり、ここは、台風などで増水すると、作った畑はすぐに流されてしまう運命である。

でも、長年台風などで増水してなく、生き残った感がある。誰かの畑であったことは確実だったが、それがその人の所有の土地ではないことも確かなことだった。

私自身、ここに長く住む予定はないので、いっときの散歩のように小さな畑を作るには好都合な場所である。畑をするには、今の12月は植える苗がタマネギや枝豆くらいしかないようだ。1つの苗が100円くらいするので、たくさん植えたらお金がかかる。それに、まだ土壌づくりに時間がかかりそうで、来年の春までに、土壌を作っておくことに専念した方がよさそうである。

 河川敷の畑づくりで考えたことだが、命の循環とお金の循環は基本的に同じであるということだ。

北海道のアイヌ民族では、「今必要以上の動物の狩りをしない」ことが、動物と人間が共存し、永続できる原理である。

環境を維持するもっとも大事なことは、必要以上のものを生産しないことである。それはお金にもいえることではないだろうか!

「必要以上のお金を稼がない」ということが、お金と命の循環には最も大事な基本ではないだろうか。

 そうしないと、地球と人間は共存できなくなってしまう。また、必要以上のお金を稼ごうとしたら、その分だけ誰かがお金に困窮することになり、最後は自分も他人もみなお金に困窮してしまうからである。

 お金はあればあるほどいいのではない、必要以上のお金を持たないことが、お金と命の循環にはもっとも大切なことではないだろうか!

公共ボランティアスポーツ

木曜日, 12月 10th, 2009

 河川敷で、三日ばかりどんどん草刈りしていったら、もっときれいにしたくなって、欲がでてきた。今日は堤防の路傍の草刈りまでした。

 汗はびっしょりかいて、まるでスポーツをしているみたいだった。その時間はいつもは散歩をしていたが、いまでは草刈りの時間になった。

 そこで、ふと今までの散歩が自分の健康のためだったが、こうして、公共の場の草刈りをしていると、その方が自分にも、他人にももっと有効な健康スポーツに思えてきた。

 海岸に流れ着くゴミを一人黙々と掃除を続けていた人がいたが、その人の気持ちがやっとわかってきた。この一人黙々とする散歩や体操やスポーツを、このような公共の場をもっと美しく、また有効利用できるようにボランティアするスポーツにしてもいいのではないか。

 というのは、草刈りはかなりの肉体作業で、その運動量は半端ではない。おかげでかなりのダイエットができた。それで、公共の場をみなが使える農地や花園や公園に作り替えるスポーツがあったらいいのではないか。

 これを公共ボランティアスポーツと名付けて、全国で、どんな公園や路傍ができたかその採点を争うスポーツがあっていいのではないだろうか。

 お金を研究すると、お金は本来は公共通貨ともいうべきもので、みんなで必要なものを使えるようにする道具だということがわかってくる。それはまさに、公共の場をいかにみんなでもっとうまく使えるようにするシステムに思える。

 公務員は国民から選任され、公共の場の管理をまかされるわけだが、それがもし国民自ら公共の場の管理をすることの方がもっとよい国づくりができそうに思える。

 確かに、それは難しいかもしれないが、そういう意識が多くなれば、公共団体にまかすのではなく、住民自ら動き出して、その地域をボランティア運動するようになっていくように思える。

 税金のように払いたくないものを払うというのではなく、自分の収入や持っている財産の何割を公共のために使おうとする意識が慣習になってくるのではないだろうか。

 国や公共団体が強制的な税金で運営されるのではなく、寄付やボランティアで運営されたら、もっと社会はよくなると思える。それをうながすことができるのが、自然循環する新通貨システムであろう。

畑見~つけた

月曜日, 12月 7th, 2009

 最近、お金の研究を休んで、実際に食べものを作ってみたくなった。

 自分ができる範囲では、お金の理論を推し進めることだけで、それを実際に実践することはできない。実践できるのは政治家や地域通貨のボランティアたちだからだ。

 理論というのは実践との相互作用でないとうまく発展させにくい。そのため、自分ができることの実践は小さな家庭菜園のような命の生産活動ではないかと思えた。

 ここ半年近く生ゴミを土で堆肥にしてきたが、気温が低くなると生ゴミの分解が遅くなってきた。もっと早く生ゴミを堆肥にできないか調べたら、ミミズをそこに入れればいいとわかった。

 ミミズを探しに川辺であちらこちら掘り返してみたら、草の根あたりにいた。下記のこんなところにいた。

 ここは河川敷内なので、勝手に畑を作ろうと 茅やゴミやつるを取り払ってきれいにしていたら、近くの畑の住人が、もっといい場所があると教えてくれた。

 そこは河川敷でも、先ほどのミミズがいる場所よりも、砂な土が高く、川が増水しても水浸しにならないところだ。しかも、以前、近くの住人が畑と作っていたというので石やゴミが少なく好都合である。

 その両サイドにはやはり近くの住人が畑を耕していた。

実にきれいに畑を作っている。

そこを教えてくれたのはこの真向かいの土地で大きく畑や果樹園をしている人だった。

もし、河川敷で畑が成功したら、どこか畑を借りてやってみたいといったら、その人がいくらでも空いている畑を貸してくれるといった。

それにはうれしいやら、こんなに近くで畑ができるとは思ってもなかったからだ。でも、私はお金の研究でもそうだが、すべて最初から、自分の何もない知識や経験からスタートしたいと思ったので、やはり誰でもが無料でできる河川敷の畑をやることにした。

 荒地を畑にすること自体がかなり楽しみになるからだ。

 それにしても、かなりの大きさの畑を開墾できそうだ。うちで作った半年がかりの生ゴミの堆肥だけではとても足りない。

 まったくの畑の知識がないところからスタートすることになった。農林大学でも通学しようとも考えてはいたが、それはあまりに固定観念が最初にあるので、おもしろみが少ない。

 私の勉強方法はいつも最初に自分でやってみる、考えてみるからスタートする。そうすることで独自の楽しみ方ができるからだ。

どう生きたか!これが最も価値が高い

火曜日, 12月 1st, 2009

生きているということ

それは
 死んでいくということ
 また生きるということ

一粒の種がたくさんの出会いを経て多くの種を作り出して消えていく。
鮭は生まれた故郷にもどり、卵を産むとその一生を終える

 人もまた子を一生育み、死んでいく

 自己の命は遺伝子にバトンされて、永遠につながっていく。

 人はその肉体だけでなく、人が行った成果である知恵や培った信念である心もまた一粒の種のように、たくさんの種を生み出し、未来の人々に伝えられていく。

 何が人にとって最も大事なのかというと、これらの遺伝子・知恵・心のバトンだと言えよう。

 そこで、私はすでに人生のUターンに入っているので、自分がやってきたことを未来の子供たちに伝えることがもっとも優先されるように思える。

 遺言書は遺産を家族に残すことだが、それよりももっと大事なのは自分たちがそれまでにやってきたことの成果である知恵や心を、どんな形にしろ未来の子供たちへ伝えることであろう。

 つまり、

 この世でもっとも価値があるのは与えられた人生をどう生きたか!ということである。