Archive for 5月, 2012

管理紙幣から税金付き電子マネーの時代へ

木曜日, 5月 31st, 2012

 原発事故の賠償や震災復興の財源のために消費税増税をしようとしているが、そもそもそうしたお金をどうして国民すべてから徴集しようとしているのだろうか?
 一体誰がお金を発行するのか? しかも、発行するお金の財源は何であるのか? という事実を抜きして、政治論議されている。

 しかも、国に必要な金をどうして民間企業や資産家から借金し、それを利息を付けて返済しなくてはならないのか? 

 こうしたことに疑問をもたないで、やみくもに金を稼ごうとしているのはどうしてなのか?

 一体お金とは何なのか? それをはっきりと明確にしないで、お金の奪い合いをしているのはおかしいとは思わないのだろうか?

 通貨や株式を売買して、毎日数十兆円の損得が繰り返されていることに疑問をもたないのだろうか?

 一体、なぜ世界は永いこと金本位制をとり、今は管理紙幣制になったのか? その答えを探さないで、各国はお金を管理しようとしているが、その管理もできなくなっている現状をどう判断するのか?

 「もしあなたが世界中のお金を発行するとしたら、あなたはどのようにお金を発行し、どのように配布し、回収するだろうか?」

 これは地域通貨で、実際に試すことができる。その場合、地域通貨の財源は実際の通貨のように財源はいらないはずである。いくらでも通貨を印刷発行することができる。

 次に、もしあなたが、通貨を発行したら、どのように配布するだろうか?

 それも地域通貨と同じで、会員みんなに同額の地域通貨を無償であげるだろう。世界の通貨だって、世界中の人のみな同額で配布してから、お金の流通を始めることができるであろう。

 しかし、今世界は発行者ではない金持ちから国も企業も、国民もみな借金して利息を払いながら返済し、返済できないと、資産すべてを没収されてしまうようになっている。

 国も世界の金持ちに借金返済しないと倒産することに疑問をもたないのだろうか?

 こうした現状は会社が株主のモノであるように、国もまた債券主である金持ちのモノであり、その金持ちに支配されている。国家の首相はいわば会社の代表取締役であり、その社長を支配するのは株主である。

 今の野田首相が消費税増税して、国債の債権者に利息付きで返済を要求されるのはそのためである。

 もし、あならが地域通貨を発行して、会員の一部が大金持ちになり、他の会員がその大金持ちに利息付きで借金して生きているとしたら、あなたは、会員全員から、消費税を徴収するだろうか?

 しかも、あなたは会員の金持ちから借金をして、利息付きで返済をしようとするだろうか?

 そんな状況になったら、きっと、こう疑問に思うだろう?

「発行者である自分がどうして金持ちの借金をし、利息までつけて返済しなければならないのか? 金が必要なら自分はいくらでも発行できるというのに」

 続けてこう思うだろう。
「いったい、自分が金の発行者なのか、金持ちが金の発行者なのか、どっちだっていうのだ。この国の法律はどうみても狂っている」

 そして、狂っている法律を改正し、金持ちがお金を発行し、利息とることだけでなく、貸し出すことも禁止するだろう。そして、金の発行者だけが、金を貸し出し返済させることができる法律に改正するだろう。

 通貨の市場売買は禁止し、通貨の発行者同士が、協議の上で売買(交換)することができるようにするだろう。

 市場つまり金持ちがその通貨価格を決めることは禁止されるだろう。

 そうでないと、世界は金持ちにみな支配されてしまう結果になるからだ。また発行者も国民であることが必要であろう。

 しかし、なぜお金の発行者は国民ではなく、一企業や金持ちになってしまったのだろうか? それは政府が戦争資金などでいくらでも政府紙幣を発行して、その回収(税徴収)を怠ったためである。そのため、物価は跳ね上がり、ハイパーインフレを引き起こし、金融経済は破綻してしまったからである。

 そのため、発行回収をきっちりとする市場にその経営をまかしてしまった。しかし、まかされた中央銀行もまた回収することができなくなり、それが金持ちにとってかわった。金持ちは金を利息付きの金を貸し出すことで発行している。そして、世界中の金は金持ちに返済され、返済されない分は資産を得ている。

 たとえ、中央銀行が紙幣を大量に発行しても、最終的にはみな金持ちへの利息返済金になり、ますます金持ちは金持ちになっていくだけの構造になっている。

 つまり、中央銀行は発行した紙幣を管理できない状況になり、管理紙幣に時代は限界に達しているのである。

 そもそも金本位制から管理紙幣になったのは、その国の貨幣の発行額の規定をするためである、金の保有量でお金の発行額を決めたのは、金の生産が一定量であったためだ。しかし、金の保有量とお金の発行額が同じすることはまったく無意味であり、どんな関係もない。金が単位となったのは、単にお金の発行総額を規制するためだけに役立っただけである。発行額を規制することで、お金の管理は可能になる。

 しかし、お金を無制限に発行できるとしたら、その管理はできなくなる。そして、お金の発行総額を金保有量でなく、何にするかで、その管理ができるかどうかを決定することになる。

 今の世界では金持ちの投資額が発行総額になっている。つまり、金持ちの欲望のままに発行されるのがお金の発行総額である。

 金持ちがさらに金持ちになろうとする分が発行され、投資される。金儲けできないところには一切お金は廻ってこないような仕組みになるのである。

 人類がお金を発明した初心に帰ってみようではないか。お金がなかった時代は物々交換であっただろう。その時はお互いに持っているものを等価交換できるような便利や道具として発案しただろう。けして、お金を金儲けのための手段として発行しようとはしなかったはずである。

 人々はお金を通じて、助け合い、協力しあって生活していこうとしただろう。しかし、今ではお金は人の生活を支配す道具になっている。それは、まるで武器という道具で、その人の命を支配するようなものになっているのである。

 人はしばしば自分が作ったモノに支配される。金儲けのために、通貨も原発電気も支配される。自らの欲望のために、自らの命を縮めるのは人の運命かもしれない。

 しかし、人はそうバカではないはずだ。

 金儲けの欲望のために、国民の生活が支配されないようにできる智恵をもてるはずだ。

人間の食欲と健康生活をみれば、それをお金に適応させてみればどうだろう。お金の発行総額を金持ちの金儲けのためでなく、国民全体の健康で文化的な生活の必要総額にしたらどうだろうか。

 そのためには、お金が必要なところに常に配布され、国民全体にお金が行き渡るようにし、一部の国民にお金が貯まらないようにすればいい、ちょうど体の血液のような流れにするのである。

 こうするには、管理紙幣の発行ではお金が国民全体に廻らない。自動的にお金が必要分だけの一定量のお金が国民全体の廻るようにするには、お金自体に時計が組み込むことができる電子マネーにすることである。

 例えば、震災で傷ついた箇所から血が吹き出てしまい、そこに輸血しないと日本全体が死んでしまう。そこで、電子マネーという血液を作りだし、そこに投入する。そのお金で怪我がなおりはじめると、そのお金は自動的に心臓に送り込まれ、またそこにお金が送り込まれるようにするのである。

 その方法は電子マネー自体に時がたつほどに減価するようにし、減価した分また発行させることで、一定量のお金がそれを必要とする国民全体に廻るようになれる。

 つまり、復興資金を電子マネーで10兆円発行したら、その発行したお金を被災者の贈与すると、そのお金は業者に、業者に入った金額は最終的に金貸しの金持ちのところにいく。その10兆円は廻るために減価するため、結果的に、発行した復興資金は業者や金持ちが全額負担することになる。

 この減価する電子マネーは復興資金だけでなく、これからの管理紙幣にかわって、国全体の協力をすすめることができる。

 今生活保障の不正受給が問題になっているが、こうした社会保障に不正はつきものであり、また脱税も賄賂もつきものであるのはどうしてだろうか?

 それは不正しやすいシステムになっているからである。もし、国民すべてに最低生活補償費であるベーシックインカムが支給されたら、不正する必要もなくなるし、いちいち審査や調査する必要もなくなるのである。

 お金が減価する分は自動的に国に入る税収になり、国民すべてを平等にお金をゆきわたせるにはお金を発行したら、まずそれをベーシックインカムとして国民全員に配布することである。

 それは国民はその国に参加する権利と条件を与えることであり、そのベースがあってこそ、公正な国民同士の市場競争が可能になる。金持ちと貧乏人との間の格差があったら、それは公正な市場競争なんかできるものではない。

 こうしたベーシックインカムから始まる電子マネーの発行からの市場競争を不正ならしめるものがある。それはモノの資産である。例えば、広大の土地建物を親から引き継いだとしたら、それを引き継がない国民との差があれば、公正な市場競争はできない。そのため、電子マネーにより減価税収と同じように、モノの保有税を徴集するようにすればいいだろう。現在ある固定資産税のように、モノの保有税を自動計算して、口座振替するようにすれば、減価する電子マネーと同じようなモノの利用の循環が可能になる。そうした税収を国民のインフラ整備に投入したりすれば、さらにモノの利用が活発になってくるだろう。

 お金を金儲けの手段にすることなく、当初の国民の協力の手段にもどすには、管理紙幣から自動税収できる電子マネーに替えることである。

 

より大きな視野から問題解決をしよう

水曜日, 5月 30th, 2012

 数十年前に、川喜多二郎が問題解決学を発案したことがある。それは彼の頭文字をとってKJ法として知られた。それは個人が問題を解決する方法をそのままシステム化したものであり、1R:問題の核心は何か 2R現状はどうなっているのか 3Rどうしたらその問題を解決できるかアイデアを 4R計画と実行 5R検証 6R何が問題として残るのか? と、文章ではなく、一つ一つの案のラベルを組み合わせながら発想する方法である。
 現在、そのKJ法は技術的に無理があり、ほとんど使われることはなくなった。

 だが、こうした問題解決法をもっとシンプルにしたら、誰でもが使えるのではないだろうか?

 あらゆる問題の核心を突き止めていくと、それは人間の我欲である。それは個人であれ、集団であれ、その我欲が他に対して問題を起こすことがわかる。

 例えば、戦争はお互いの我欲のぶつかりあいで、殺し合う。原発依存の問題もやはり関係者の我欲でぶつかりあいで起こる。

 もし、その問題の我欲を無くしたら、必ずその問題を解決できることになる。いわば、シャカの悟りが無我の境地であったと言われるようなものである。

 しかし、個人で無我を実行したら、それは自己が生きることを否定することで、自殺行為になり、死を意味する。上記の戦争や原発問題を個人で解決するには自殺しか道がなくなる。自殺すれば、その個人にとってはそれらの問題は解決するが、その関係者である社会問題は解決されないので、個人の自殺する道は解決策にはなりえないし、またそれは逆に自己満足的な我欲行為にすぎないため、問題を大きくするだけである。

 では他に無我になる方法はないだろうか?

 任侠映画でヤクザとヤクザの抗争があったとき、その両者に信任の厚い人物が
「この場は俺にまかせて、ひとます、刀をおさめてくれないか」と両者にお願いして、解決する。

 一般的には裁判に持ち込み、信任された第三者の多数決の判断が解決策になる。これはいわばキリスト教における神託のようなものである。「神の御心のままに」と問題の解決を神にすべてゆだねることだ。

 相争う両者がキリストの信奉者であれば、キリストの判断に従おうとするからだ。

 このように、神託とか第三者まかせや法による裁判による方法が、無我への問題解決になる。

 この場合の無我とは双方で信任された第三者の判断のことである。そのため、その第三者が双方で信任されていない場合や、第三者でない場合は問題解決にはいたらない。

 各国の争いごとが、国際司法裁判所にゆだねられることがないし、国連の安保理の決議が通用しないのはのはそのためである。

 そのため、信任できる第三者がいない場合の無我による解決策を探すしか道がなくなる。

 また、社会という固定した存在もないため、基本は個人の発想から無我への道を自殺以外の生きられる道を開く必要がある。

 その方法はより広く、より深く、より永く世界全体をみることから始めることだ。主観的にみないで、客観的に、自国的でなく国際的に、人間的ではなくより生命全体的に、短期的ではなく、より長期的にみることである。

 そうして視点を大きくして、発想された解決法に対して、今自分ができることをすることが、具体的解決策である。それはもちろん個人の段階であるので、全面的解決は先になるが、個人的には問題解決されることになる。

 例えば、今の原発問題を長期的に国際的な大きな視野でみると、一つの解決策が浮かぶ。
原発のゴミを捨てるところがないことが問題の核心であるから、原発は即停止し、廃炉にし、ウランの輸入をやめる。
 ウランを輸入したところに返却し、また、ついでに、使用済み燃料も引き取られるように交渉する。もし、それができないならば、今の原発の場所に地中100m以上掘って、、そこに10万年以上にわたり、放射能性物質が他に流れ込まないように管理しつづける。

 廃炉にして残ったタービンなどを使って、ゴミ発電したり、自然エネルギーを使った、風力、太陽熱、潮力発電に切り替えていく。

 津波被害にあったところは、大地に瓦礫をしき、山を切り崩して、高台にした町に建設する。津波や原発事故の被災者の土地や家屋はすべて国が買い取る。その資金は復興電子マネーを発行して、自動的に数十年で回収できるようにすれば、ハイパーインフレはおきない。

 というアイデアが出たら、それを実行するにあたって自分がなにができるかを考える。すると、ツイッターやブログなんかで、その考えを述べることならできる。また、似たような運動をする人を応援することはできるので、それを実行する。

 こうしていくことで、少なくとも個人的にはその原発問題は解決するのである。

 つまり、あらゆる問題解決法というのは、より大きな視野でその問題をみて、解決策を発想し、その実現に自分ができることをしていくことであるといえるだろう。

 シンプルにいえば、こうなる。

 「より大きな視野から問題解決しよう!」

 個我とは小我ともいわれ、神仏や世界は大我とも言われる。つまり、無我とは大我の意識のことであり、物事を広く大きく観る視野のことである。

 

 

宗教について

火曜日, 5月 29th, 2012

 教祖であるサイババの死後、そこのアシュラムはどうなっているのかをネットで調べてみた。生前と変わらぬくらいの信者が集まり、その活動は衰えていないことを知った。

 あの殺人集団だったオーム真理教も、教祖が死刑宣告を受け監獄に入っていても、その信者は解散していないのも驚くべきことだ。

 サイババと麻原との差は、サイババはボランティアが中心で、社会的に有意義なことをするが、麻原は殺人テロをして社会を自分の思いどおりにしようとして、まったく逆の行為である。しかし、両者はともに新興宗教であることは変わりがない。

 世界の三大宗教として、キリスト教、イスラム教、仏教があり、それは数千年も信仰されており、それらを中心にしていろいろな新興宗教が生まれてきては廃れていく。サイババがヒンズー教から、オーム真理教はチベット仏教?を元にして派生したものだろう。

 こうした宗教には非科学的な奇跡的話が多く、その奇跡を信じることで、信者になっていく。人間であるイエスが再生することも、アラーの神がマホメットに記述させることも、釈迦がすべてを知ることができ、悟れたことも、みな人としてはありえないことであり、それを信じることはこの現実や起こる事実を信じないことである。

 信じるという言葉は人偏に言葉が合わさっており、人の言葉を信じることである。けして事実を信じるとはいわない、事実は人が信じようと信じまいと、そこに存在し、すべての人が了解できるものである。

 「信じれば救われる」ということから宗教は始まるが、実際、それは占いを信じるかどうかと同じで、信じて救われる人もいれば、信じて地獄に落とされる人もいる。占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦というように、当たる確率は五分五分である。それは言葉の返答にはYESとNOしかないからだ。それ以外はyesでもnoでもなく、疑問符である。それはその宗教や占いを信じた人にとっては天国と地獄に入る確率は五分五分ではあるが、それらを信じない人にとっては、どうてもいいことであり、疑問符であるだけだ。

 「触らぬ神に祟りなし」とは、宗教を信じなければ、天国にも地獄にも縁がないという意味である。

 サイババを信じることで天国になる場合と地獄になる場合の例をとってみよう。

サイババはこう言った。
「宗教は一つ、それは愛の宗教、人種は一つそれは人間という種」

 このサイババの言葉は宗教戦争や人種戦争をやめさせる力になるので、世界平和と愛の姿を想像させ、まさに天国への導きになる。

 しかし、世界の宗教はけして一つではないし、また一つにはなりえないことを過去の歴史も、今の現実も示している。人種だって、一つにはなりえないことだ。それをサイババの言葉通りに、信じて行えば、どうなるだろうか?

 宗教は一つ、それはサイババ宗教のみ、人種は一つ、それはサイババ信者のみになってしまい、社会から遊離した特殊信仰団体になり、他の宗教や他の信者をサイババ以下にしてしまう。信者はサイババの言葉と現実の違いで苦しみ、地獄へ突き落とされることになる。

 また、信じたサイババが物質化できるような神であると信じれば天国になるが、サイババがトリックして信者をダマしていると知ったら地獄に突き落とされる。

 こうした行為や言葉によって、人は天国にも地獄にもいかされる。しかし、物事の事実や現象は天国や地獄とは関係なしに、動いている。

 とはいえ、人はその行為もその言葉も、自然そのままではなくついてくるものである。そのため、何かを信じ、何かを疑い、何かを行うことで、天国と地獄を味わいながら生きている。

 そこで安全な生き方というのは、なるべく確率の高い自然な現象を信じ、確率の低い奇跡的なことを信じないのがいいだろう。

 もし、確率の低いことがやってきたら、大いに天国と地獄を味わってみたらいいのだ。そして、自然な日常にもどればいいように思う。

 宗教はものは考えようでどうにも受け取れるものである。いわば、空想をすることで楽しめばいい。インド人は宗教心が高く、それが日常化している。それは神を信じているというより、その信じた空想劇を楽しむことで、人々のコミュニケーションをもっているように思える。

 つまり、花より団子なのだ。神や仏がなんであれ、その儀式やイベントが楽しければいいし、そこに参加することで、おいしい団子が食べられればいいだけである。

 日本の仏教が葬式仏教になったのは、悟ることはどうでもいいことで、葬式をすることで、食べて行ければいいだけなのである。

 神道だって、正月の初詣を楽しめればいい。 キリスト教も、教会で結婚式があげられればその価値をもつのである。

 あえて、宗教的に生きるとするなら、自分の好きな言葉を信じて行動することがそれにあたることだろう。それは自分が信じる内容がその人の行動をうながし、その責任も他人のせいにはせず、自分でとることができるからである。

 

自然との会話

日曜日, 5月 27th, 2012

 最近、田舎に引っ越したせいか、人と会話する機会がほとんどなくなった。テレビやツイッターなどの人の情報を受けるだけである。
 そのためか、植物相手に会話することが多くなったようだ。会話といっても、言葉で話すのではなく、行為で表現しあうものだ。

 例えば、「今年の秋にはうちの畑にたくさん稲が実れるようにしたい」と、稲の種や雑草に話しをする。そして、稲の種を蒔くと、昨年は雑草から、「そうはさせないよ。ここは雑草の支配地だからね」と断られた。

 こうした自然の会話は科学における、推論・実験・検証のようなものである。

 植物とのこうした会話は相手が動物や人間のように感情を多く伴わないので、心の葛藤が少なくてすむ。動物の生死はとくに喜怒哀楽をともなうので葛藤が大きい。また、人の生死は一度しかないので、それを試すことはできないし、また試してもいけないものである。

 そのためか、人の会話は推論で止まってしまう。人が空想や幻想などのドラマや映画を楽しむことができるのは他の動物とは違う人間らしい生活なのであろう。

 私は還暦を過ぎて、生死の空想を楽しむことが多くなるので、植物に対して実験し、検証までしたくなるのだろう。

 雑草といっても、雑草という草の名はないように、人間の食べ物である作物にはならない草の種類の総称を雑草という。つまり、人間が食べる食べないという区別をとりのぞくと、作物と雑草の区別はなくなるのである。

 実際、うちの春の畑はほとんど麦になり、食べられない雑草はわずかになった。昨年の秋はほとんど雑草で、食べられる作物は少しの大豆だけだった。

 作物も雑草も植物種でいえばそう変わりがない。雑草がはえるのであれば、そこに作物はかならずはえることができるが、もちろん、その土地にあった雑草や作物種だけである。

 私の家のまわりは果樹園であるが、その下のたくさんはえる雑草を年がら年中、草刈りしたり、除草剤で枯らしている。そんな必要があるのだろうか? もし、果樹の下に多くの作物がなったら、まさに一石二鳥の栽培ではないか!

 そこで、人の果樹園では試すことができないので、自分の畑に果樹を植えて、その下で作物が育つかを実験したくなった。

 こうした果樹や作物や雑草の生死を思うように実験できるのが、自然との会話である。もし、それができたら、さらに多くの空想ができてもっと楽しくなるのである。

 

地産地消から依存ではなく協力へ

土曜日, 5月 26th, 2012

  地産地消という言葉は社会構築するいろいろな面で基本となる指針になると思われる。
地産地消とは地域生産地域消費の意味で、1981年農水産省の生活改善課などが造語として使われてきた。当時、農村では米みそ漬け物の食生活による塩分のとりすぎで、栄養が偏り高血圧などの病気が増えていた。そのため、不足の栄養素を補うため、高価な商品を遠地から輸入するより、地元で 生産しようとしてうまれた言葉である。
  しかし、現在2012年では遠地の農産物や商品が安く入ってくるので、遠産遠消があたりまえになっている。最近、TPP問題も、さらに遠産遠消を進めていくところに起きている。

 この地産地消と遠産遠消は、家族における子の自立の問題とリンクしている。地産地消は自由と自立促進であり、子どもの自立を助けることである。また、遠産遠消は国際協力促進であり、親子関係を上下のない友人関係促進であると思えるからだ。

 24時間テレビだったか、アフリカの貧しい少年がカカオ栽培に従事していて、そのカカオがチョコレートになることも、またそれを食べたこともないことを放送していた。

 これはまさしく遠産遠消の現実の姿である。

 もし、カカオ栽培で働く少年が我が子であったとしたら、親は遠産遠消ではなく、地産地消をすすめるだろう。少年に必要なのは毎日の食物であるから、外国に売るカカオではなく、とうもろこしやバナナを栽培させるようにするはずである。

 今日本の車の輸出が盛んであるが、数十年前では高価な車を輸入していた。しかし、一人のトヨタ青年が自国で車を生産しようとしたところから、それは始まったのである。それこそ、車の地産地消精神である。

 もし、アフリカの少年がトヨタの車を欲しがったら、親はきっと日本のトヨタ青年の話をするだろう。アフリカ諸国が欧米諸国の属国にならずに、真に自由と独立を確保するなら、地産地消精神を教育させるだろう。

 地産地消精神である「自由と独立」そして、遠産遠消精神である「国際友好と協力」を相反することなく、調和した自治と国際協力を構築するにはどうしたらいいだろうか?

 これはお金を水のような流れにとらえると、よい答えが見つかるように思えるのである。

今のお金はまさにスポーツゲームのような勝敗(損得)で動いている。お金のほとんどの流れである株や通貨の売買をみると、誰かがそれだけ得をすれば誰かがそれだけ損をする。誰かが、成功すれば、誰かが失敗する。すべての人が得としたり、成功することはけしてありえないのである。

 一体、人は何を一番楽しむのだろうか?

 最近の女子バレーボールの試合をみて、一番楽しかった試合は両者が接戦であるキューバとの試合である。圧倒的差があるような試合で買っても負けても、ちっともおもしろくないものである。

 人類が他の生物よりも抜き出たのは、「分かち合う」心の遺伝子がバトンされていたためである。

 市場競争をスポーツにように、真に楽しむためには、「分かち合う心」つまり、「同じレベルになろう」「同じレベルにひっぱりあげる」心が必要になる。

 それは親子の試合のようなものである。人はみな産まれながら平等ではない。だが、平等にあこがれるのは、人はみな平等を求めるからである。

 子は親の上にいくことも、下に甘んじることも求めてはいない。親と最低でも同じレベルまでいくことを求めているのではなかろうか。

 水は低きところに流れ、水平に保つ。お金もまた高きところから低きところに流れ、平等を保とうとする政策であれば、地産地消と遠産遠消はおのずと調和してくる。

 私はいま自然農法で、ほとんと輸入に頼る「麦と大豆」の生産を成功し、国内で余るほどの米の栽培を失敗している。

 それは麦や大豆はどんな土地でも種をばらまけば、なにもしなくても収穫できるからである。米は水田、苗を作って移植、雑草とり、肥料散布しないと、収穫できない品種ばかりであるからだ。

 麦や大豆は日本人の食生活では欠かせないものである。それを海外にほとんど依存することは地産地消精神とはかなり反することである。

 子どもの自立を応援するには、自分でできることはなるべく自分にさせることが必要であるように、日本の食事を自立させることは、海外依存をしないて、自由と独立を守ることにつながる。麦や大豆が国内で簡単にできるなら、海外に頼らず、自国で生産すべきだろう。たとえ、国内の生産された麦や大豆が海外よりも高価であっても、地産地消として、国内の麦と大豆を消費すべきである。

 もし、あなたの子どもが自分で麦と大豆を生産したら、親はそれを買わずに、安い海外の麦や大豆を買うだろうか? どんなに高価でも、どんな色や味であろうと、子どもの麦と大豆を涙して買うだろう。

 日本で生産しにくいバナナやアボガドは私は大好物である。それらをあえて自分で生産しようとは思わない。自国で生産できないようなものは、他国の生産に頼ってこそ、食生活はよりたのしくバラエティーに満ちたものになる。
 こうしたバナナやアボガドは日本人の主食ではなく、いわば嗜好品のような主食に彩りをもたせるものである。これこそ、遠産遠消にあったものであり、国際友好と協力になりえるものである。足りないものを両者で補い合うことができるからである。

 親子の関係も金銭のように依存しあう関係ではなく、お互いに足りないもの補いあえる夫婦関係や国際協力でありたいものである。そのモットーとは「依存ではなく協力」しようである。

 

愛の反対は無関心、個人の反対は隣人

木曜日, 5月 24th, 2012

 最近、私と同年代の知人が老老介護で疲労困憊している姿をよくみる。このような姿は何かおかしい。介護する親が亡くなっても、老人である子が「もっとやさしくすれば生きられた」と後悔して苦しむ姿をもみていると、いかに老老介護がおかしな社会現象であるかを痛感する。

 私の娘が就職し、嫁に行ける年頃になった。親の私ができる最良のことはその娘が自立して生活できるようにすることだと思っている。そのため、できるかぎり金銭的、また時間的にも援助しないようにするのが親の勤めだと思っている。

 私が成人になる頃から、就職したら親にお金を贈る慣習がすたれてきた。それは欧米の核家族主義が浸透してため、結婚後も親子で住むという風潮が消えていったからである。

 ただ、核家族が長く培った個人主義の欧米社会と、家を中心とした先祖代々の家系家族の長い日本社会においてでは、急には変われないものである。それは相手を名前で呼ぶか、姓字で呼ぶかの慣習の違いでもある。

 日本社会が欧米型核家族になっていくには、老老介護の問題を解決する政策が必要になってくる。それは孤独老人でも安心して暮らせる社会のことである。

 うちのアパートに独りで25年近く住み、先日亡くなった80歳代の老人の危機を救ったのは週二回の公的介護ヘルパーでも、緊急時に連絡できる科学的ブザーでもなかった。隣人が郵便ポストにたまった新聞から、おかしいと感じて、預かっていた部屋のキーで部屋を開けて助かったのである。

 こうした事実は、親子より公的援助、公的援助より隣人の方が大事であることを教えてくれる。

 私達が個人に対して社会というと、国や公共団体のことをいうが、愛の反対が憎しみではなく、無関心であるという方がしっくりとくるように、個人の反対は社会ではなく、隣人であろう。

 しばしば夫婦の愛がもっとも尊いように思われるが、それは結婚証明書の相手でも、親子のような血縁でもない。いつも一緒にいる隣人との繋がりのことではないだろうか。

 老人ホームではなく、老老介護を選択した子の意識は「子が親をみるのは当たり前のことである。ホームのような他人まかせにしたら、親がかわいそうで、寿命も短くなる」というもののようである。

 老老介護していた同級生の友人は介護に疲れ、親子心中寸前で、兄弟の説得に応じて、老人ホームのような一時的に老人介護してくれる施設に預けることを承諾して、肉体的精神的にも解放されて、すっかり元気になっている。

 これは「子が親の面倒をみるのは当たり前である」という日本の家社会が核家族社会に適応できない現象であろう。

 「孤独老人を救うのは隣人であった」事実から、公的援助するなら、老人介護施設にどんな老人でも無条件で入れるようにすることが、生活保護や年金制度よりも重要なことであると思われる。

 
 

お金を貯めずに回せ

火曜日, 5月 22nd, 2012

 4月に就職した娘は給料のほとんどを貯蓄しようとしているのに驚いた。その理由が将来の結婚費用だというのだ。確かに結婚式には数百万のお金が必要になるが、そのお金は祝い金をうまく集めれば回収できるものだ。

 私自身、結婚費用は会費制にして、キャンプ場を借り切って行った。その収支はいくらか赤字になったくらいだ。

 娘にお金を貯めるよりも、いい仕事をすることを勧めたら、「お金は貯めて悪いことはないでしょう」と言った。この意識は今世界の中心になっており、そこから、経済生活問題が噴出していくのである。

 「お金を稼ぐ」ということは「お金を貯める」「金持ちになる」という意味でもある。それがけして悪いことではなく、善いことだとされている。金持ちが成功者扱いにされるのもそのためである。

 お金を研究してみると、それは水のようなもので、水を溜めすぎれば洪水になる。水の流れをせき止めてしまうと、その水は細菌が繁殖して、汚れてしまい、飲み水には適さない。常に山から海に流れ、そして、蒸発して天に昇り、雨水となって山に降り注ぐという循環が生きとし生けるものにとって、快適で善いことなのである。

 お金は最初は無からいくらでも印刷発行され、貸し出される。貸し出された金であらゆるものが生産・流通・消費に使われ、そして、貸し出されたところに返済される。しかし、全額貸し出されたところに返済されないで、金持ちのところに貯蓄されると、お金が世間に不足して、不況になり、会社は倒産し、失業者やホームレスはは増えてしまう。

 金持ちはさらにお金を儲けようとして市場に投資する。石油などの商品を買い占め、基本産業の会社を買収する。すると、石油の値段は高騰し、基本産業会社を独占し、その物価をあげる。これが洪水のように、低所得者生活の危機をもたらすのである。

 つまり、お金を自然の水のように社会全体に常に回すことが善いことであり、長く貯めすぎることは悪いことである。

 水は低きところに自然に流れ、水平を保つように、お金も高額所得者から定額所得者に人為に回し、平等社会を目指す国政あってこそ、快適な社会が維持できる。

 また、海に溜まった水は天に蒸発して帰り、再びきれいな雨水になるように、国も溜まった金持ちから税金を徴収し、再び全国民にお金をばらまくことが、必要である。

 お金の流れが悪くなり、不況の時に、消費税を増税するのは本末転倒である。景気をよくするには、消費を増やすことであるから、消費税ではなく、貯蓄税が必要である。また、消費税は金持ちだけにかけるべきで、それは投資税である。投資税をかければ、石油の買い占めでガソリンが高騰することもないし、円買い占めで、円高が進むこともなくなるだろう。

 株や通貨や商品の投資にもし1%でも税金をかけたら、50%の消費税にも匹敵するのではなかろうか?

 国が完璧な社会保障しない限り、国民は将来の安心のための貯蓄は必要であるが、それも「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって、必要だけの貯蓄、必要だけの消費が、お金の流れを快適なものにするのである。

 つまり、金はあればあるだけ善いのではなく、必要なだけあれば善いのである。健康生活にとって、金貯蓄も、脂肪堆積も、同じことである。 

 

生きていくということ

日曜日, 5月 20th, 2012

 店の床改築が終わり、

 板橋のアパートの改築は亡くなったお婆さんの荷物を息子さんに引き取ってもらえるまで中止した。一人暮らしであっても、たくさんの荷物があったためだ。
 何かのドラマで、動物と人間の生き方の比較がされていた。

「動物にとって、命をどう繋ぐかどうかが生きることなんだ」

 この言葉は動物だけでなく、植物にも、生きとし生けるものに通用する。生死の循環を言い換えると、命の繋ぎとか、命のバトンにもなる。

 親から子へ 自分から他人へ 個人から社会へ そうしたバトンにも派生する。

 自殺する人たちにとって、「ただ生きているだけで幸せ」とは感じられない。このただ生きているだけという意味は「自分がただ生きているだけ」ということであって、そこに他人は存在しない。

 「人は夢や希望なくして生きられない」

 この夢や希望とははたして自分だけのものであろうか? この欲望には必ず他人の存在が隠されている。たくさん金儲けしたいという夢があったら、それは他人よりももっと多く金持ちになりたいという意味で、他人との比較からうまれた希望である。

 そもそも世界一を目指す夢とは世界中の他人より上を目指すことである。また、世界で唯一ということも、他人と全く同じではないということで、やはり他人の存在なくしてうまれない夢や希望なのである。

 つまり、人が生きていくということは、自分と他人の命の繋ぎをつけることである。この命の繋ぎとは何かといえば、「もし親子の繋ぎから愛を抜き取ってしまえば、あかの他人同士になる」ので、命の繋ぎとは愛という心になる。

 親子が血縁という命の繋ぎであるとするなら、血縁を両親から双方の両親というように、2の累乗数の血縁が数百年で数十億にもなって、人類すべてが血縁でつながっていることになるので、血縁は命の繋ぎというより、他の動物と区別できる人類種という一つの種である。

 そのため、命の繋ぎとは血縁というより愛情である。愛とは血縁のような人類一つになるラインとは反対に、全人類70億人の中から一人の人を選ぶことであるから、人類は70億それぞれの個性を認める人格のことである。

 いわば愛と自我は命の運ぶ車の両輪ということになる。愛とは他人なくして産まれない自分の心であるから、「選ばれた自他」ともいえる。

 家を建築することと、畑で穀物を育てることはそっくりである。また、お金を儲けることとも似ている。

 これらの類似性をもたせるのは生死の循環であり、命のバトンである。個人の寿命は約80年のように、家は木造で約30年、畑は約1年、お金の中央銀行システムは約100年であろう。

 こうしたモノの寿命は一度新築したら、自動的に活動し、ほとんど手をかけずに寿命期間存続できる。そして、寿命という命を繋いでいくと、永続できる。

 この命を繋ぐバトンはその家を愛するか、畑の作物を選択するか、お金の循環をどういう形にするかで、手渡され、永続が可能になる。

 日本国が永続になるかは、電気を原発依存するか、自然エネルギー依存するかで、決まってしまうように、いかに人は愛するかで、命のバトンがとぎれなく続くのである。

 板橋のアパートも、耐震できる基礎と排水と湿気対策した改築すれば、もう30年間は存続できる。畑も、毎年、雑草ではなく、穀物や野菜を選択し愛すればもう1年間は存続できる。中央銀行システムは、その基礎をプラスの金利だけでなく、マイナスの金利(減価)との併用をすれば、もう100年間は存続できる。

 親も子とその孫を愛すれば、もう80年間は人間存続できる。

 つまり、命のバトンをより確実にできるように、建築、畑、お金を作り、修繕し、生死として、創造と破壊を循環させることが生きていくということであろう。

 

私達の意志が社会である

金曜日, 5月 11th, 2012

 ここ5日間、東京の店の抜けた床の取り替えをした。その工事がかなりのハードだったため、山梨の自宅にもどり、二日たっても疲れがとれないでいる。

 田舎では麦の白い花が咲き、雑草のように家の周りを覆い尽くしている。そのまっすぐに立った麦穂の姿を観ているときが、一番うれしくなる。

 店を改装した際、軽トラ一杯の廃材がでたため、山梨の畑にもってきた。廃材は産業廃棄物なので、粗大ゴミとして捨てることはできない。そこで、この大量の廃材を処分する方法を考えた。

 今は全国的に野焼きは禁止されているので、別な処分方法を考えた。この廃材は土中の水分で腐ったものであるから、それと同じようにして、腐らせれば、肥料としてリサイクルできるのではないだろうか?

 板橋のアパートのコンクッリート基礎の上の10㎝角の柱が外から流れ込む雨水で腐って、消えてしまった事実を再現できれば、それが可能である。ちょうど、その腐らせた土を山梨に持ってきたので、その腐敗菌がある土を店の廃材に振りかければ実現できるかもしれない。

 そこで、こぼれ麦種で成長した麦を刈り取り、そこにスコップの一回分の穴を掘り、そこに廃材をばらまき、水をかけ、そこに腐敗菌の土を振りかける。ちょうど、キムチの漬け物を作るように、廃材・水・土を繰り返した。そして、最後に、乾燥しないように、床に敷いてあった汚れたクッションフロアシートをかけた。

 木が腐って消えるようにするには、肥料作りと同じみたいで、空気を適度に入れて、腐敗菌や虫が活動できるようにすることが必要だろう。

 一日たって、シートを開けたら、たくさんの団子虫がいた。できたら、シロアリがいたら、あっというまに、廃材を食べてくれるのになあ・・・と思ったが、団子虫も、木材を食べてくれればしてやったりではあるが・・・どうなんだろう?

 こうした廃材処理は砕いて、細かいチップにすれば、藁のようにいい肥料や保湿剤になる。また、砕かずに炭焼きをして、炭にすれば、燃料にも、また、保湿剤、水浄化剤としても利用できる。

 だが、廃材のような産業廃棄物を炭や肥料やまた古材として再利用するような社会構造にはなっていない。コンクリートの瓦礫だって、それを細かく砕けば、砂利として再利用できる。

 産業廃棄物は非常に高価の値段で引き取られる。1キロ当たり30円、または1立方メートル数千円から数万円もする。

 石膏ボードを一枚買うと約300円であるが、(運搬代を入れずに)それを捨てると1立方メートル1万円もする。  木材でも、10㎝角の4m買うと約2千円するが、それを捨てると、1立方メートル5千円もする。

 家を作る材料費と家を壊して捨てる処分量は、はたしてどっちが安くなるのだろうか?

 ひょっとしたら、今のお金の損得システムと同じく、生産費用と廃棄費用は同額ではないだろうか?

 つまり、株やFXで、誰かが1億円得をしたなら、誰かが1億円損をする。それはスポーツやゲームの勝敗と同じで、勝つ人の数だけ、負ける人の数がいるということである。日米の野球試合があって、日本が5点、米が0点だとすれば、日本が5点勝ったら、必ず相手の米は同額の5点負けるのである。

 こうした勝負の原理は、お金の損得と同じように、生産と廃棄にも通じることではないだろうか!

 今問題となっている。原発と火力発電を比べてみると。それは石膏ボードと木材のようなものである。

 原発で電気を作る費用は石膏ボードみたく安価だが、その原発を廃棄し、その放射性廃棄物処分費は高額になる。

 一方、火力発電で電気を作る費用は高額だが、その廃棄処分費は安価である。 

 そこで、生産する場合に必要な判断は生産費用だけでなく、その廃棄費用を組み込むことが必須条件になる。

 原発や放射性廃棄物の処分は高額だけでなく、今の技術では不可能であるから、電気を生産するためには、原発より火力発電の方がはるかに経済的である。火力発電だって、石油よりも、廃材や廃プラを使ったゴミ発電の方がはるかに経済的であるといえる。

 生産と破壊廃棄する費用だけでなく、その生産労働と破壊廃棄労働を比較してみる。店を改装するよりも、壊して処分する方が大変だったように思えるのだ。

 それはあたかも結婚するより、離婚する方がはるかに大変だというようなものだ。スポーツにおける買ったチームの運動量と、負けたチームの運動量はそう変わらないが、精神的に、買ったチームは楽で、負けたチームは苦しいというだけではないだろうか。そのスポーツの勝敗運動と精神のように、生産と破壊廃棄も同じように言えるのではないだろうか?

 生産と廃棄はいわば命の生死を表している。

 私が少年のころ、悩ませた倫理的問題があった。

「登山する友人と私は一本のロープで結ばれている。下にいる友人が足をすべらせた。私は友人を支えるロープを切れば助かるが、友人は死ぬという状態になった。私と友人はいったどういう判断をすれば正しいのだろうか?」

 私達が食べるという行為は、他の生命を奪って、自分の命を支えることである。魚や肉を食べる行為は魚や豚の命を奪い、人間である自分の命を繋ぐ行為である。穀物である米だって、それは新たな稲の命を産み出す種であり、それをたくさん奪って、人間や鳥の命をつないでいる。

 つまり、生死は勝負と同じであり、誰かが死ねば誰かが生きる。すべてが死ぬこともすべてが生きることもない。生命は生と死のコインの裏表があるようなもので、生だけ、死だけの片方だけがあるということはないのだ。

 これは生の代名詞である神様、死の代名詞である悪魔にもいえる。神様と悪魔は一体なのである。そう思えば、こんな疑問を持つことはないだろう。
「天地創造の神様、どうしてあなたはこの世に悪魔をも創造したのですか?」

 こうした生死の相対性は、人が使う相反する言葉の意味に多く通用している。

人生苦もあり、楽もある ♪ という歌のようなものである。

 最近、この相対性は「個人と社会」にも通用していることを発見した。政府が原発依存か、脱原発かで揺れている。それを決定するのは誰であろうか? 議会民主主義においては、多数決であるから、社会とは多数の個人の意見であるといえる。

 こうした多数決であっても、その基本は個人の決断と意見からなっているので、政府の判断は個人の判断であるといえる。それは北朝鮮のような独裁政権でも同じで、独裁者という個人の判断が社会の姿になる。

 社会は個人の集合体であるから、社会自体が存在するのではなく、個人だけが存在する。つまり、個人がなければ社会は存在しない。また、社会がなければ個人も存在しないので、個人と社会は生死のコインの裏表であるといえるだろう。

 よく社会を変えるというが、それは個人を変えないとできないという意味になり、つまり、それは自分を変えないとできないということである。

 そのため、いかに自分の意識が社会にとって最も価値にあることであると言えるのである。

 自分の意識は確かに70億分の1かもしれないが、その70億分の1がたくさん集まったのが社会であるから、自分の意識が社会を支えていることは確実なことなのだ。

 つまり、私のような脱原発の意見を持つ人が多くなれば、必ず社会は脱原発するようになるということである。議会民主主義でない独裁政権ならば、その独裁者が脱原発の意見を持ったら、そういう社会になるのである。

 私達の意志の一つ一つが社会を築いていることは確かな事実なのである。