地産地消から依存ではなく協力へ

  地産地消という言葉は社会構築するいろいろな面で基本となる指針になると思われる。
地産地消とは地域生産地域消費の意味で、1981年農水産省の生活改善課などが造語として使われてきた。当時、農村では米みそ漬け物の食生活による塩分のとりすぎで、栄養が偏り高血圧などの病気が増えていた。そのため、不足の栄養素を補うため、高価な商品を遠地から輸入するより、地元で 生産しようとしてうまれた言葉である。
  しかし、現在2012年では遠地の農産物や商品が安く入ってくるので、遠産遠消があたりまえになっている。最近、TPP問題も、さらに遠産遠消を進めていくところに起きている。

 この地産地消と遠産遠消は、家族における子の自立の問題とリンクしている。地産地消は自由と自立促進であり、子どもの自立を助けることである。また、遠産遠消は国際協力促進であり、親子関係を上下のない友人関係促進であると思えるからだ。

 24時間テレビだったか、アフリカの貧しい少年がカカオ栽培に従事していて、そのカカオがチョコレートになることも、またそれを食べたこともないことを放送していた。

 これはまさしく遠産遠消の現実の姿である。

 もし、カカオ栽培で働く少年が我が子であったとしたら、親は遠産遠消ではなく、地産地消をすすめるだろう。少年に必要なのは毎日の食物であるから、外国に売るカカオではなく、とうもろこしやバナナを栽培させるようにするはずである。

 今日本の車の輸出が盛んであるが、数十年前では高価な車を輸入していた。しかし、一人のトヨタ青年が自国で車を生産しようとしたところから、それは始まったのである。それこそ、車の地産地消精神である。

 もし、アフリカの少年がトヨタの車を欲しがったら、親はきっと日本のトヨタ青年の話をするだろう。アフリカ諸国が欧米諸国の属国にならずに、真に自由と独立を確保するなら、地産地消精神を教育させるだろう。

 地産地消精神である「自由と独立」そして、遠産遠消精神である「国際友好と協力」を相反することなく、調和した自治と国際協力を構築するにはどうしたらいいだろうか?

 これはお金を水のような流れにとらえると、よい答えが見つかるように思えるのである。

今のお金はまさにスポーツゲームのような勝敗(損得)で動いている。お金のほとんどの流れである株や通貨の売買をみると、誰かがそれだけ得をすれば誰かがそれだけ損をする。誰かが、成功すれば、誰かが失敗する。すべての人が得としたり、成功することはけしてありえないのである。

 一体、人は何を一番楽しむのだろうか?

 最近の女子バレーボールの試合をみて、一番楽しかった試合は両者が接戦であるキューバとの試合である。圧倒的差があるような試合で買っても負けても、ちっともおもしろくないものである。

 人類が他の生物よりも抜き出たのは、「分かち合う」心の遺伝子がバトンされていたためである。

 市場競争をスポーツにように、真に楽しむためには、「分かち合う心」つまり、「同じレベルになろう」「同じレベルにひっぱりあげる」心が必要になる。

 それは親子の試合のようなものである。人はみな産まれながら平等ではない。だが、平等にあこがれるのは、人はみな平等を求めるからである。

 子は親の上にいくことも、下に甘んじることも求めてはいない。親と最低でも同じレベルまでいくことを求めているのではなかろうか。

 水は低きところに流れ、水平に保つ。お金もまた高きところから低きところに流れ、平等を保とうとする政策であれば、地産地消と遠産遠消はおのずと調和してくる。

 私はいま自然農法で、ほとんと輸入に頼る「麦と大豆」の生産を成功し、国内で余るほどの米の栽培を失敗している。

 それは麦や大豆はどんな土地でも種をばらまけば、なにもしなくても収穫できるからである。米は水田、苗を作って移植、雑草とり、肥料散布しないと、収穫できない品種ばかりであるからだ。

 麦や大豆は日本人の食生活では欠かせないものである。それを海外にほとんど依存することは地産地消精神とはかなり反することである。

 子どもの自立を応援するには、自分でできることはなるべく自分にさせることが必要であるように、日本の食事を自立させることは、海外依存をしないて、自由と独立を守ることにつながる。麦や大豆が国内で簡単にできるなら、海外に頼らず、自国で生産すべきだろう。たとえ、国内の生産された麦や大豆が海外よりも高価であっても、地産地消として、国内の麦と大豆を消費すべきである。

 もし、あなたの子どもが自分で麦と大豆を生産したら、親はそれを買わずに、安い海外の麦や大豆を買うだろうか? どんなに高価でも、どんな色や味であろうと、子どもの麦と大豆を涙して買うだろう。

 日本で生産しにくいバナナやアボガドは私は大好物である。それらをあえて自分で生産しようとは思わない。自国で生産できないようなものは、他国の生産に頼ってこそ、食生活はよりたのしくバラエティーに満ちたものになる。
 こうしたバナナやアボガドは日本人の主食ではなく、いわば嗜好品のような主食に彩りをもたせるものである。これこそ、遠産遠消にあったものであり、国際友好と協力になりえるものである。足りないものを両者で補い合うことができるからである。

 親子の関係も金銭のように依存しあう関係ではなく、お互いに足りないもの補いあえる夫婦関係や国際協力でありたいものである。そのモットーとは「依存ではなく協力」しようである。

 

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