愛の反対は無関心、個人の反対は隣人

 最近、私と同年代の知人が老老介護で疲労困憊している姿をよくみる。このような姿は何かおかしい。介護する親が亡くなっても、老人である子が「もっとやさしくすれば生きられた」と後悔して苦しむ姿をもみていると、いかに老老介護がおかしな社会現象であるかを痛感する。

 私の娘が就職し、嫁に行ける年頃になった。親の私ができる最良のことはその娘が自立して生活できるようにすることだと思っている。そのため、できるかぎり金銭的、また時間的にも援助しないようにするのが親の勤めだと思っている。

 私が成人になる頃から、就職したら親にお金を贈る慣習がすたれてきた。それは欧米の核家族主義が浸透してため、結婚後も親子で住むという風潮が消えていったからである。

 ただ、核家族が長く培った個人主義の欧米社会と、家を中心とした先祖代々の家系家族の長い日本社会においてでは、急には変われないものである。それは相手を名前で呼ぶか、姓字で呼ぶかの慣習の違いでもある。

 日本社会が欧米型核家族になっていくには、老老介護の問題を解決する政策が必要になってくる。それは孤独老人でも安心して暮らせる社会のことである。

 うちのアパートに独りで25年近く住み、先日亡くなった80歳代の老人の危機を救ったのは週二回の公的介護ヘルパーでも、緊急時に連絡できる科学的ブザーでもなかった。隣人が郵便ポストにたまった新聞から、おかしいと感じて、預かっていた部屋のキーで部屋を開けて助かったのである。

 こうした事実は、親子より公的援助、公的援助より隣人の方が大事であることを教えてくれる。

 私達が個人に対して社会というと、国や公共団体のことをいうが、愛の反対が憎しみではなく、無関心であるという方がしっくりとくるように、個人の反対は社会ではなく、隣人であろう。

 しばしば夫婦の愛がもっとも尊いように思われるが、それは結婚証明書の相手でも、親子のような血縁でもない。いつも一緒にいる隣人との繋がりのことではないだろうか。

 老人ホームではなく、老老介護を選択した子の意識は「子が親をみるのは当たり前のことである。ホームのような他人まかせにしたら、親がかわいそうで、寿命も短くなる」というもののようである。

 老老介護していた同級生の友人は介護に疲れ、親子心中寸前で、兄弟の説得に応じて、老人ホームのような一時的に老人介護してくれる施設に預けることを承諾して、肉体的精神的にも解放されて、すっかり元気になっている。

 これは「子が親の面倒をみるのは当たり前である」という日本の家社会が核家族社会に適応できない現象であろう。

 「孤独老人を救うのは隣人であった」事実から、公的援助するなら、老人介護施設にどんな老人でも無条件で入れるようにすることが、生活保護や年金制度よりも重要なことであると思われる。

 
 

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