Archive for 4月, 2013

お金とは分配券なんだ

月曜日, 4月 29th, 2013

 お金の研究といっても、思索であるが、長年やっていると、お金というものが、シンプルに「分配券」だとすると、いろいろな難問が解けてきた。

 今でも、貨幣のない部族が食べ物を平等に分配して生きている。この食べ物の分配方法が貨幣だとすると、今の貨幣制度がおかしくみえてくる。

 今日採れた食料を村人全員で分けるときに、お金に当たる食券を与えて、それと食べ物と交換するという方法がいわば貨幣システムである。

 今日採れた食料分が食券の発行総数になるので、貨幣の発行金額は村人の生産量と一致しなければならない。それは国民総生産であるGDPと貨幣発行総額は同じでなければならないということである。

 もし、食券である貨幣発行額が生産量よりも多かった場合、インフレ(物価高)になり、生産量よりも少なかった場合、デフレ(物価安)になる。

 そのため、生産量と貨幣発行総額が同額の時、物価は安定する。

 食券はその時に採取された食料分であるから、それは一回分しか使えないはずである。そのため、食券の貸し借りはできないし、未来に発行される食券は採取された量になるので、確定はできない。

 食べ物は一回食べたらそれで終わりのように、食券も一度使ったら、それで終わるようにしなければその意味はない。

 しかし、現在の貨幣は貸し借りができるだけでなく、何度でも使える。この不条理から、あらゆる不道徳な問題が起きてくると考えられる。

 例えば、みんなに分配した食券を貸し借りしたら、どうなるだろうか? 誰かがたくさん食べ、誰かが食べられず死んでいく。まさに、今の世界が金のために、格差拡大し、富めるものはますます富めるが、貧しき者はどんどん飢えて死んでいくという姿を反映することになる。

 未来に生産する食料を確実に決めることはできないように、借りた金を確実に返すことなどできない。しかも、未来の生産量は現在の生産量よりも多いというような利息付き債券を信用することはできないはずである。

 貨幣の貸し借りはまるで未来の占い師の言葉を信用するようなものであり、それを元にした現在の貨幣システムは不安定にならざるえないし、非科学的な占いごとである。

 その占いが当たれば大儲けし、はずれれば大負けするようなギャンブルになってしまうのである。

 今のような貨幣では運の良い人間だけが生きられ、運の悪い人間は死なざるをえないようになってしまうだろう。貨幣の変革は今なされるべきであろう。

ギャンブル通貨と家計通貨を分けよう

火曜日, 4月 23rd, 2013

 会津磐梯山の民謡の歌詞に、「小原庄助さん 何で身上潰した  朝寝朝酒朝湯が大好きで  それで身上潰した」がある。

 

 現代では、身上つぶすには、「朝寝朝酒朝湯」ではなく、男の道楽である「飲み打つ買うの三拍子」である。特に、金額が馬鹿でかいのが「打つ」であるギャンブルである。

 差詰め、歌は「小原庄助さん 何で身上潰した  飲み打つ買うの打つが大好きで  それで身上潰した」になるだろう。

 毎日毎分、株価や為替や石油穀物商品価格は数兆円規模で「マネーギャンブル」(金融経済)が行われていて、国や会社が  身上潰されてしまうほどの勢いである。

 そこで、女房は夫のギャンブルから家計(実質経済)を守るために、工夫する必要が出てきた。

 そのアイデアがギャンブル通貨と家計通貨とを分けるように、中央銀行にお願いすることである。

 つまり、家計用の貨幣で、ギャンブルはできないようにすることだ。それはちょうど子供たちがいくゲームセンターで遊ぶコインと、どこでも通用する実際のコインとを分けるようなものである。

 現在世界で通用する通貨は金で金を稼ぐような「ギャンブル用の通貨」であるから、新たに必要な通貨は生存に必要な商品の売買をする「実質経済用通貨(家計通貨)」である。

 家計通貨ではギャンブルができないし、ギャンブル通貨では家計用の商品の売り買いができないようにすれば家計はギャンブルで潰されることはなくなる。

 この分類はヨーロッパなどでは、贅沢品には25%といった消費税が掛かるが、主食や飲料水などの生活必需品はほとんどの国で0%になるようなものにすればよい。

 消費税における贅沢品は金銀ダイヤのようなものだが、不思議なことに、贅沢品以上の贅沢であるような「金融商品」には消費税がかけられていない。株や外貨を買ったときに、日本の現在の消費税5%でもかかったら、すぐに日本の1000兆円の借金は返済できるだろうし、そんな消費税を払ってまでリスクをおかすようなギャンブルはしなくなるだろう。

 金融商品の一部である外国為替の取引(売買)に税金(消費税)をかける通貨取引税(トービン税)を0.1%かけるだけでも、まとまらないのが現状である。

 その理由が世界で通用している通貨は債権を売買するギャンブル通貨であるからだ。それは金を貸すときに、5%の取引税、借りたときにも 5%の取引税がかかれば、その利子はそれ以上でないと成立できなくなるようなものだからだ。

 そのため、ギャンブル通貨とは別に生活必需品の売買ができる家計通貨の発行が必要なのである。その家計通貨では、食べ物が貸し借りができないように、家計通貨の貸し借りはできないようにすることで、ギャンブルができないようにするのである。

 実際に、ギャンブル通貨と家計通貨の併用がされた場合、どちらに規制がかけられた方がいいかという場合、欧米式消費税のように、贅沢品に25%かけ、生活必需品には0%のようにした方がより快適になる。

 つまり、ギャンブル通貨では金融商品や贅沢品の売買はできるが、その他の生活必需品は売買できないようにする。たとえば、石油や穀物のような生活必需品にはギャンブル通貨である現通貨は使えないように規制する。

 しかし、家計通貨では貸し借りができないため、貸し借りの基本である金融商品以外の商品、どんな贅沢品であっても、その売買ができるようにすることである。

 こうすることで、夫のギャンブルに左右されることなく、安心して女房は家計を守ることができるだろう。

 

税金を宝くじに

月曜日, 4月 22nd, 2013

 小さな地元の組や町内会のイベント的集まりは小さな政府である。うちの組は年間で12000円払っており、今回の罰金併せて15000円支払った。

 組で集めた金はつねに余ってしまい、ほとんどの金は新年会に集まった飲み食いで使われてしまう。参加しない場合は損をし、参加した人が得をするようなものである。

 こうした住民から税収したものを役人の飲み食いで使われるような感がある。文句があったら、お前も役人になれといわれそうな感じがする。

 BI(ベイシックインカム)は税徴収の逆である。みんなから税金をとるのではなく、マイナスの税金のように、みんなに思いやり金を与えるものである。

 もし、税金が宝くじであったならば、とても夢があることになる。それは汚れがアートになるような意識の切り替えになる。

 宝くじの原理は All for 1 ,みんなの金を集めて一人の幸運者へであり、保険もまた、All for 1であり、みんなの金を集めて、一人の不幸者にである。

 BIは 1 for All で、一人の金をみんなの者に等しく分けることである。これらのみんなは一人のために、一人はみんなのためにという精神は、住民の心を一つにして、もっとよい暮らしを実現するには欠かせないことだ。

 そこで、組合費を宝くじやBIにしたら、もっと住民が明るいコミュニケーションがとれることになる。

 たとえば、うちの組は10人、年間費12000円である。その組合費を宝くじにしたら、1年後、組合の一人が抽選で、その合計額である12万円が当選するという仕掛けをするのである。

 この宝くじの抽選を道の花植えの後のイベントにすれば、参加したくもなるだろう。
 それをオリンピックのように4年に1度にすれば、当選金は4倍の48万円になるから、これはさらにフィーバーするだろう。

 この住民の当選者は資産家であったら、きっとこういうだろう。

「この当選金の48万円はとてもうれしいが、私には必要のないものだから、みなさんで等しく分けてください。そのほうがもっとうれしい」というだろう。

 これがBIであり、  1 for All になり、その資産家当選者は町のヒーローになるだろう。

 道に花を植える苗は資産家(スポンサー)が払えばそれがいわばBI精神になる。

 

河川清掃より道に花を植えよう

月曜日, 4月 22nd, 2013

昨日、地元の河川清掃をうっかり忘れたため、罰金のように3000円とられた。そこで、「すまない」という気持ちが、「組脱退」に変化してきた。

 河川清掃は田舎ではどこでもやっている。東京では落ち葉清掃だった。私は便利屋だったので、その落ち葉清掃を代わりに仕事でやったことが何度かある。

 東京の落ち葉清掃もそうだが、河川清掃もあまり地元の住民にとって、ほとんど意味のない清掃だと思えるのである。本当に汚いところの清掃なら、それは住民がやるのではなく、役所に依頼された業者がやっている。

 つまり、地元の清掃そのものの意味はやってもやらなくてもどうでもいいものなのである。本当の意味は住民同士の交流であり、顔合わせであろう。

 それに、田舎の河川清掃をする人はみな老人ばかりで、けっこう重労働なので、こうした顔合わせも、労働の分配みたいになるので、罰金として税金をとられたのだろう。

 ほとんど意味のない重労働の河川清掃よりも、もっと意味ある簡単な夢のある道ばたに花や植木を植えるような歩いて楽しくなるようなイベントに変えたらもっといいと思えるのだ。

 田舎の河川清掃っといっても、ほとんど草刈りである。草をとったところに花を植えてこそ、草は花にとってかわるからだ。落ち葉が落ちたところに花をうえると、その落ち葉は花の肥料になる。

 ピンチをチャンスのように、汚れをアートに、雑草を花に、もっとも私のもっとうは雑草を穀物に・・である

 

死んでいる年月は寿命の半分だ

月曜日, 4月 15th, 2013

 かって、李御寧(イー・オリョン)が、「縮み」志向の日本人という本を書き話題となり、私は韓国人二世の芸人であったマルセ太郎から紹介された。

 マルセさんはその影響だろうか、自分の芸風に「能面型の縮み志向」である「動きを止める美」をよく表現した。彼の写真集はみなストップモーションの一こまである。

 彼は私に、「いいか、芸で大切なのは動きを止めた時の形が美しいかどうかだ」といって、さらに縮み志向を発展させていたのを覚えている。

 こうした日本人が得意な縮み志向を、私は物事を考える際に、世界を縮めて描いたものを、さらに元の世界に拡大して、想像する思考をする。

 それが可能なのは、マクロの宇宙と、ミクロの原子の姿が似ているからである。

 最近、「一日一生」という諺のような縮み志向で生まれた人生観がある。これは時を切るハサミ文化として紹介された「一期一会」にも通じるものだ。

 この「一日一生」をさらに、切ってみると、「一日」は「寝ている8時間」とすると、「起きている時間は2倍の16時間」である。

 一日が一生ならば、毎日は生まれ変わる自分の姿になる。その生まれ変わる年月もまた計算できることになる。

 起きている時間は生きている16時間、寝ている時間は死んでいる8時間であるから、
その一日を一生の生まれ変わりの年月に拡大すると、一生の寿命が100年生きた人は、その半分の50年死んでいる年月になるので、死んでから50年後には生まれ変わることになる。

 もし、若くして、その寿命が10歳だったら、その半分の5年後には生まれ変わると想像できる。

 毎日細胞は生まれ変わり、似たような姿になっているのだから、人間もまた似たような姿になって生まれ変わるのだろう。

 それに、自分とは何かというならば、永遠に固定化しかものではなく、顔や手相の違い、DNAの組み合わせの違いが微妙にあるだけで、それらはやはり、時を切り取った一瞬の姿であり、その姿は、人間が一匹のテントウ虫の姿と他テントウ虫の姿が見分けにくいほどである。

 「ほんの微妙の差、されどその差がすべて」それが「自分」であり、「日本人が最も好む繊細さであり、美である。

 「縮み志向の日本人」の感想文を書いた松岡正剛さんは、日本のグローバリズムの危険性を指摘する。今でいえば、TPP参加である。大国のものをそのまま鵜呑みにするようなグローバリズムや経済大国を目指すことは、その国をダメにしてしまう。大事なのは編集して、受け入れる事であると警告をならしている。

 日本人はGDPよりも幸福度を、大きな援助よりも小さな親切を尊ぶ国民性を大切にしたいものである。