Archive for 4月 3rd, 2013

魚より網、網よりビジネス

水曜日, 4月 3rd, 2013

 ガイヤの夜明けをみた。日本ポリグルの小田兼利会長が、納豆菌と石灰で水の浄化剤を作り、それをバングラディシュの汚れた水をきれいな飲み水にする支援をした。しかし、その3週間後にはその鉄製の蛇口が盗まれ、その浄化装置は使われないままに放置されていた。
 それで、小田さんはその浄化装置を守る人が必要であることを痛切に感じ、支援から現地の雇用を生み出すビジネスに変更し、10リットル3円できれいな水を売り出し、成功を収めた。

 海外支援においては、魚をあげたら、一回だけだが、魚を採る技術を教えたら、ずっと魚を食べられるというので、金より技術という方向に向かっている。

 その技術だけではまだ不十分で、働ける場が必要だといえる。

 それは障害者にとって、お金よりも雇用が大事であることと同じである。それは魚だけ得られるのは生活保護であり、魚を採る技術はベーシックインカムであり、さらに必要なのは働ける場であるということが示唆されている。

 今の日本の生活保護は単にお金を毎月あげるだけであり、もし、働くとその分の収入は減らされるため、「働かない方がよい暮らしができる」となり、根本的な解決策にはならない。

 ベーシックインカムでは働けばその分だけの収入も多くなるが、そこに労働の場を提供されてはいない。持続可能なベーシックインカムには雇用が必要だと思われる。

 最低限の収入だけでなく、最低限の雇用も保障されることが重要であろう。それによって、働けば働くほど生活が豊かになるような社会が築かれるようになるだろう。

 この最低限の雇用は各自治体の公務員なら、希望すれば誰でも働けるように法制化すればいいだろう。ベーシックインカムは生きる権利であるが、最低限の雇用は生きる誇りであろう。

 

 

自分の命は自分と自然と愛が決めている

水曜日, 4月 3rd, 2013

 今日は東京にリフォームする予定だったが、朝雨が降っているので、翌日に変更した。こんなことができるのは、リフォームも、その予定も、みな自分で決めたからだ。

 もし、自分が社員だったらそう簡単にはいかないが、会社に、嘘でもいいから、「今日は体調が悪いので休みます」といえば、可能である。

 ふと思ったのだが、「自分の人生は自分が決めている」ということだ。極端かもしれないが、「今日で自分の人生を終わりにします」という決定だってできることは確かである。

 自分の死を決めているのは確かに自然現象であるが、同時に、自分も自分の死を決められるということである。

 昨日、「自分と自然を信ずれば救われる」と言ったが、それは同じく、「自分の命は自分と自然が決めている」という事実である。

 「救われる」という意味は「生きられる」ということであり、「自分の命」である。「信じる」という意味は「頼る」「依託する」ということであり、「決断を任せる」「決める」ことである。

 つまり、「自分の命は自分と自然が決めている」のだから、「自分と自然を信ずれば救われる」と言い換えることができるということだ。

 よく、「自分の両親を自分が決めて生まれてきた」と言う言葉と、その反対に、「自分の両親を選ぶことはできない」とも言われる。

 さように、 「自分がこの世に生まれるという決断」はどうなっているのだろうか?

 これは自分を産むことができる両親の決断にかかっていることは確かであるから、「自分が産まれるのは両親が決める」ということだ。

 それを追加すると、「自分の命は自分と自然が決めている」は「自分の命は自分と自然と両親が決めている」となる。両親は誰が決めているかといえば、二人の出逢いは社会が決めているともいえるし、社会の最小単位は家族である夫婦であるから、「自分の命は自分と自然と社会が決めている」ということができる。

 それはまた、「自分と社会と自然を信ずれば救われる」ということにもつながってくる。

 社会とは夫婦が最小単位だから、愛が社会の絆ともいえるので、むしろ、「自分と自然と愛を信ずれば救われる」と表現した方がわかりやすくなる。

  それはまた、、「自分の命は自分と自然と社会が決めている」は、「自分の命は自分と自然と愛が決めている」と表現した方がよいだろう。

 そして、「自分の命」は「自分の意志」であるともいえるので、

「自分の意志」は「自分」「自然」「愛」の三本柱で成り立っている。

 

 

 

 

 

 

自分と自然を信ずれば救われん

水曜日, 4月 3rd, 2013

 「信ずれば救われん」という言葉は聖書からの直接の引用ではなく、きっと日本語的に定着したものだろう。これに近い言葉は「求めよ、さらば与えられん」であり、それは聖書から直接引用できる。

 マタイ 7.7「求めよ、さらば与えられん。捜せ、さらば見いださん。叩け、さらば開かれん」

 「信ずれば救われん」は、「求めよ、さらば与えられん」のように、「信ぜよ、さらば救われん」となるが、その出所を探すと、

 マルコ 16:16「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」

 マルコ5:34 「イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 
 に、みられ、日本の浄土宗のように、「南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」に近くなり、「キリストを信ずれば救われる」と同様に、「阿弥陀仏を信ずれば救われる」となる。

 最近、「みな神様道」と称して、自分もみんな神様であったら、どんなこともできるという想像することで、自分の心が軽くなり、楽に生きられるというコツがつかめてきた。

 「信ずれば救われる」ということは「(神仏を)信ずれば救われる」という意味であるが、これがそう簡単に信じられることではないのだ。

 青年のころ、近くの教会でクリスチャンになろうとして、最初の試練が、「イエスキリストが蘇ったことを信じますか?」という質問にイエスと答えられなければ入信できないことを知り、その教会には二度と行けなくなってしまったことがある。

 今もそうだが、キリストも釈迦も人間だと思うし、それをあえて、宇宙の中心のような神仏であるとはとても信じることはできない。もし、それを信じたら、事実を積み重ねる科学をすべて否定することになるからだ。

 神仏を信じて救われた人はいるのだろうか? むしろ、オーム真理教のように、その神仏の姿によっては、地獄へ落とされることもあるし、古今東西、神仏を信じることで、この現実世界を戦争に導くようなこともあるようにも思える。

 つまり、信じる内容で救われることも、地獄に落とされることもあるってことだ。大事なのは「救われるような信じ方は何か?」ということだろう。

 神仏を信じるのは危なっかしいし、さりとて、詐欺が横行する世の中、人を信じるのはもっと危なっかしい。

 となると、最も安心して信じられるのはただ一つである。「自分」である

 信じた結果の責任をとるのはいつでも自分しかないからだ。それは逆にいえば、自分を信じられないから、他人や神仏に頼るような信心を持ってしまうのではないだろうか。

 ゆえに、もっとも安全な信心は「自分を信ずれば救われる」である。

 イエスが蘇ることは信じられなくとも、自分がもし死んでも蘇ることができると信じることはそう難しいことではない。

 というのは、次の事実をみているからである。「生き物はみな死んでは生まれ、生まれればまた死んでいく」からだ。

 つまり、「自分がもし死んでも、他人に蘇ることができる」という信心なら、自然現象をそのまま受け入れるようなものだからである。

 「信ずれば救われる」という別のとらえ方が聖書には書かれている。

 パウロ エペソ書2:8,9 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 「神の恵み」とは何だろうか? 神が天地創造主ならば、それは「自然現象」のことであるといえるだろう。

 そのため、さらに最も安全な信心は「自分と自然を信ずれば救われん」ということになるだろう。