自分の命は自分と自然と愛が決めている

 今日は東京にリフォームする予定だったが、朝雨が降っているので、翌日に変更した。こんなことができるのは、リフォームも、その予定も、みな自分で決めたからだ。

 もし、自分が社員だったらそう簡単にはいかないが、会社に、嘘でもいいから、「今日は体調が悪いので休みます」といえば、可能である。

 ふと思ったのだが、「自分の人生は自分が決めている」ということだ。極端かもしれないが、「今日で自分の人生を終わりにします」という決定だってできることは確かである。

 自分の死を決めているのは確かに自然現象であるが、同時に、自分も自分の死を決められるということである。

 昨日、「自分と自然を信ずれば救われる」と言ったが、それは同じく、「自分の命は自分と自然が決めている」という事実である。

 「救われる」という意味は「生きられる」ということであり、「自分の命」である。「信じる」という意味は「頼る」「依託する」ということであり、「決断を任せる」「決める」ことである。

 つまり、「自分の命は自分と自然が決めている」のだから、「自分と自然を信ずれば救われる」と言い換えることができるということだ。

 よく、「自分の両親を自分が決めて生まれてきた」と言う言葉と、その反対に、「自分の両親を選ぶことはできない」とも言われる。

 さように、 「自分がこの世に生まれるという決断」はどうなっているのだろうか?

 これは自分を産むことができる両親の決断にかかっていることは確かであるから、「自分が産まれるのは両親が決める」ということだ。

 それを追加すると、「自分の命は自分と自然が決めている」は「自分の命は自分と自然と両親が決めている」となる。両親は誰が決めているかといえば、二人の出逢いは社会が決めているともいえるし、社会の最小単位は家族である夫婦であるから、「自分の命は自分と自然と社会が決めている」ということができる。

 それはまた、「自分と社会と自然を信ずれば救われる」ということにもつながってくる。

 社会とは夫婦が最小単位だから、愛が社会の絆ともいえるので、むしろ、「自分と自然と愛を信ずれば救われる」と表現した方がわかりやすくなる。

  それはまた、、「自分の命は自分と自然と社会が決めている」は、「自分の命は自分と自然と愛が決めている」と表現した方がよいだろう。

 そして、「自分の命」は「自分の意志」であるともいえるので、

「自分の意志」は「自分」「自然」「愛」の三本柱で成り立っている。

 

 

 

 

 

 

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