自分と自然を信ずれば救われん

 「信ずれば救われん」という言葉は聖書からの直接の引用ではなく、きっと日本語的に定着したものだろう。これに近い言葉は「求めよ、さらば与えられん」であり、それは聖書から直接引用できる。

 マタイ 7.7「求めよ、さらば与えられん。捜せ、さらば見いださん。叩け、さらば開かれん」

 「信ずれば救われん」は、「求めよ、さらば与えられん」のように、「信ぜよ、さらば救われん」となるが、その出所を探すと、

 マルコ 16:16「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」

 マルコ5:34 「イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 
 に、みられ、日本の浄土宗のように、「南無阿弥陀仏と唱えれば救われる」に近くなり、「キリストを信ずれば救われる」と同様に、「阿弥陀仏を信ずれば救われる」となる。

 最近、「みな神様道」と称して、自分もみんな神様であったら、どんなこともできるという想像することで、自分の心が軽くなり、楽に生きられるというコツがつかめてきた。

 「信ずれば救われる」ということは「(神仏を)信ずれば救われる」という意味であるが、これがそう簡単に信じられることではないのだ。

 青年のころ、近くの教会でクリスチャンになろうとして、最初の試練が、「イエスキリストが蘇ったことを信じますか?」という質問にイエスと答えられなければ入信できないことを知り、その教会には二度と行けなくなってしまったことがある。

 今もそうだが、キリストも釈迦も人間だと思うし、それをあえて、宇宙の中心のような神仏であるとはとても信じることはできない。もし、それを信じたら、事実を積み重ねる科学をすべて否定することになるからだ。

 神仏を信じて救われた人はいるのだろうか? むしろ、オーム真理教のように、その神仏の姿によっては、地獄へ落とされることもあるし、古今東西、神仏を信じることで、この現実世界を戦争に導くようなこともあるようにも思える。

 つまり、信じる内容で救われることも、地獄に落とされることもあるってことだ。大事なのは「救われるような信じ方は何か?」ということだろう。

 神仏を信じるのは危なっかしいし、さりとて、詐欺が横行する世の中、人を信じるのはもっと危なっかしい。

 となると、最も安心して信じられるのはただ一つである。「自分」である

 信じた結果の責任をとるのはいつでも自分しかないからだ。それは逆にいえば、自分を信じられないから、他人や神仏に頼るような信心を持ってしまうのではないだろうか。

 ゆえに、もっとも安全な信心は「自分を信ずれば救われる」である。

 イエスが蘇ることは信じられなくとも、自分がもし死んでも蘇ることができると信じることはそう難しいことではない。

 というのは、次の事実をみているからである。「生き物はみな死んでは生まれ、生まれればまた死んでいく」からだ。

 つまり、「自分がもし死んでも、他人に蘇ることができる」という信心なら、自然現象をそのまま受け入れるようなものだからである。

 「信ずれば救われる」という別のとらえ方が聖書には書かれている。

 パウロ エペソ書2:8,9 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 「神の恵み」とは何だろうか? 神が天地創造主ならば、それは「自然現象」のことであるといえるだろう。

 そのため、さらに最も安全な信心は「自分と自然を信ずれば救われん」ということになるだろう。

 

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