Archive for 12月, 2010

税金と福祉はお金自身で行わせるのが自然である

金曜日, 12月 31st, 2010

 今年も今日で終わる。特に今年は人生最大の大勝負に出た年だったと同時に今までやってきたことの完結編でもあった。

 その今年を本日捨てて明日の新年を受け入れる!

 本当に強い者とはどんな人間か?というテレビドラマの台詞であったが、「強い者でもなく、頭のよい者でもなく、自分が変われる者だ!」と。その証拠は「なぜ恐竜は絶滅したのか? 氷河時代に生き残った生物はどうしたのか?」にあると語っていた。

 自分が変わる! これが生き残る最も強い戦略である。人類だって、いつまでも同じことを繰り返ししていたら、生き残れない。どんな植物でもさらに生き残るための新品種に変わろうとしている。

 自分が変わるとはどういうことか?

 実は私達の肉体を構成する細胞は毎日、毎秒新陳代謝をしている。それは無意識に自然にそうしている。生き残るということは生きるということなのだ。

 自分が変わるとは昨日の自分をすべて捨てて、明日の自分を受け入れるということである。

 今ここに水が一杯に入ったコップがあったとする。その水を新しい水に入れ替えるためには、その水をまず捨てなければならない。水が入れ替わっても、替わらないコップというのは肉体のことであり、替わる水とは心のことである。

 自分が変わるということは自分を変えるということではないよく、宗教やビジネス界で、「よりよい自分に変える」という修行や訓練があるが、それらはほとんど洗脳とマインドコントロールであり、他人(上の者)の言うとおりに動くということであって、自分を変えることではなく、自分が変えさせられることであり、服従することである。

 我々が意志することなしに、肉体の細胞は新陳代謝し、心は一瞬一瞬変わり止まることはないではないか。

 自分が変わるには、どんな意志も必要ないのである。「そのままの自分」を受け入れるだけでいいのだ。天地自然が勝手に自分を一瞬一瞬変えてくれる、風がそよぎ、日差しが変われば、それを受け入れればいいだけである。「そのままの自分」とはまた「 自然を受け入れる」ということでもある。

 さて、今日の本題はここからである。

税金の話である。

 国民であるかぎり、国に税金を納めなくてはならない。そうしないと、国が成り立たないからである。

 と、思いこんでいる。

 税金は自己申告が基本である。脱税は犯罪として国から罰せられる。でも、税金というお金はそもそも国民は印刷できない、お金を印刷できるのは日銀だけである。そのため、税金を国に払えるのは日銀だけであるから、国民の税金を課さずに日銀に「税金払え」と言え! と叫びたくなる。実際問題、今そうなっている。国民が税金1000兆円払えないから、日銀がそれを払いなさい。今年はその分の25兆円日銀が払ったではないか。

 第2の思いこみはこれだ。

 税金は真面目に働いて払いなさい! 一体お金をまもとに働いて得た人がどれほどいるだろうか? お金は働いて稼ぐよりも、お金でお金を稼がせる方が莫大な金を手にすることができるというのが現実である。それを教えてくれたのはライブドアのようなIT産業が、株によって企業買収することで、莫大な金をあっという間に儲けることができたという報道である。
 金持ちの多くが遺産相続や不動産などの不労所得からなったであろう。

 そのため、税金が払えるのは金持ちだけである。労働者である国民は税金が払えないから、国は金持ちから1000兆円借金せざるをえないのが現状なのである。つまり、「税金は金持ちだけが払えばいい!」と叫ぶことが正解なのである。

 国民すべてが税金を働いて国に払わなくてはならないというのは法の処罰による洗脳である。しかも、不労所得の金持ちが、労働する国民を支配するためのマインドコントロールであり、その手先が国家であるということだ。

 ここで、シャカとイエスの言葉を思い返してほしい。

「お金を引き継ぐ者にならずに、自然を引き継ぐ者になりなさい」
「お金は作ったものに返し、自然のものは自然に帰しなさい」

 お金はお金自身で勝手に税金を国に払うこと、それが自然であり、人の理と道にかなったシステムである。

 今のお金は「所有権」であり、その税金とは「個人の所有権」が「国の所有権」に移行することである。

 ここで、また自分が変わるということがどういうことか思い返してほしい。

 自分が変わるということは「古い自分を捨てて、新しい自分を受け入れる」ということである。

 それはお金自身にもいえることである。
つまり、
 「個人の所有権であるお金を捨てる」と、自動的にそれは「公共の所有権であるお金になる」ことである。そして、
 「新たな個人の所有権であるお金を受け取る」ということは、「公共の所有権であるお金から、新たに個人の所有権に分配される」ことである。

 このお金の顔である「自己所有権」が、常に入れ替わることがお金が生き残る自然な道である。

 そのシステムとは、お金そのものが食べ物のように一定の期間でその効力が消滅することが重要である。

 例えば、10人の国民がいたとして、10円のお金が毎年商品交換で必要だとする。

10人国家はまず10円のお金を発行し、平等に各人1円ずつ分配する。それはトランプでカードを配るようなものである。

 ゲームはその取り合いになり、1年後、例えば、トップの人が6円,次が2円 その次は1円1円になり、その他は0円になることは多いだろう。

 ゲーム終了になると、そのトランプはすべてもとの箱に収められる。これが、税金にあたる。個人の所有権が無くなり、すべて公共の所有権になることである。

 そして、翌年、国は再び集められた税金10円を、全国民10人に1円ずつ配り、ゲーム(経済生活)が開催され、競い合う楽しさが国民全員に与えられる。

 そのお金の流れにおいて、競争するゲームのときだけ、「働く・稼ぐ・頭を使う」という意志があるが、トランプをもどし、再配分することに対して、努力することはない。自動的に、無意識に、システムとしてお金自身が勝手に動くようなものである。それはあたらかも、天から雨が山に降り注ぎ、いろいろな川となって海に流れ込み、再び、水蒸気となって、天にあがり、冷やされて、再び山に雨が降るようなものである。

 かくて、税金も、福祉も、お金のシステムが自動的に自然に行うことで、私達は自然に自分をありのままに生きられ、人としてこの地球に生き残れることができるのである。

余ったものは捨てなさい

木曜日, 12月 30th, 2010

 学生時代に、読んだシャカの言葉で引っかかる言葉があった。それが、

「余ったものは捨てなさい」

 というものだったが、「もったいない」ということの意味とはまったく逆にとらえられそうなものだった。さっそくその仏典の箇所をネットで調べた。

汝らはわたしの法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならぬ

          ――― 南伝 中部経典 3 法嗣経

ある時、ブッダが祇園精舎にいらっしゃった時のこと、ブッダは比丘たちに説かれて、このように仰いました。
  「比丘たちよ、わたしは汝らを愛しみ愍(あわ)れむが故に、汝らはわたしの法の相続者となるがよい、財の相続者となってはならぬ、と願っている。
  比丘たちよ、もし汝らがわたしの財の相続者となって、法の相続者とならなかったならば、汝らはそれによって、他人より指さされて、――かの師の弟子たちは、財の相続者であって、法の相続者ではない。――と批評せられるであろう。わたしもまた、それによって、人々に指さされて――、かの師の弟子たちは、財の相続者であって、法の相続者ではない。――と評せられるであろう。
 比丘たちよ、もう一度言うが、汝らはわたしの法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならぬ。
汝らは、それによって、他人より指さされて、――かの弟子たちは財の相続者であって、法の相続者ではない、などと――評せられることは、よもやあるまい。わたしもまた、それによって、人々に指さされて、――かの師の弟子たちは、財の相縦者であって、法の相続者ではない――。などと批難せられることもあるまい。
 それ故に比丘たちよ、汝らはここに、わたしの法の相続者となるがよく、財の相続者となってはならぬ。

「比丘たちよ、わたしは今ここに、食物を得て、充分に飽食することを得、しかもなお食物の余分があって、捨てようと思っているとするがよい。その時、飢え渇き、疲れ衰えたる二人の比丘がやってきて、わたしは彼ら二人に対して、このように言ったとするがよい。――比丘たちよ、わたしは今ここに、食物を得て、充分、飽食することを得た。しかもなお、わたしは食物の余分があって、いま捨てようかと思っている。もし、汝らが欲するならば、これを食するがよい。もし、汝らが欲しなければ、私は今これを草なき土地に捨てよう。あるいは虫のいない水に投じよう。
 比丘たちよ、その時、その一人の比丘は、このように考えたとするがよい。――世尊は今、食を得られて、飽食なされた。しかもなお、世尊には、食の余分があって、世尊はそれを捨てようとしておられる。もし、私共がそれを頂かなかったならば、世尊は、これを草なき地に捨て、あるいは虫なき水に投じられるであろう。だが、世尊はかつて、『汝らよ、汝らはわたしの法の相続者たるがよい。財の相読者となってはならぬ』と教えたもうたことがあった。そしていま、かの食の余分は一つの財である。わたしはむしろ、この食を頂かないで、飢え渇き、疲れ衰えたる身をもって、一夜を過ごそう。――かくて彼はその飢渇・疲労の身をもって、その一夜を過ごしたとするがよい。
 比丘たちよ、その時、いま一人の比丘はまた、このように考えたとするがよい。――世尊はいま、食を得られ、充分に食をおとりになられた。しかもなお、世尊には余分の食があって、それを世尊は今捨てようとしておられる。もしそれを私共が頂かなかったならば、世尊はこれを草なき土地に捨て、あるいは、虫なき水中に投じられるであろう。今はむしろ、わたしはこの食を頂き食して、飢え渇き、疲れ衰えたる身を養い、この一夜を過ごすとしよう。――そして彼は、その食をとり、飢渇・疲労の身を癒して、その一夜を過ごしたとするがよい。
  比丘たちよ、彼はその食をとって、飢渇・疲労の身を癒すことを得て、その一夜を過ごすことを得たけれども、しかも、彼に比して、かの第一の比丘こそは、真に尊敬されるべき者、称讃されるべき者と言わねばならぬ。なぜならば、比丘たちよ、かの第一の比丘の選んだ道は、彼にとって長く、少欲・知足・削減・精進の徳を養うに役立つが故である。
  されば比丘たちよ、汝らはいまや、わたしの法の相読者となるがよく、財の相読者となってはならないのである。わたしは、汝らを愛しみ愍れんで、わたしの弟子たちは、わたしの法の相続者となるがよい、財の相続者となってはならない、と願っているのである。

 実際生活で、もし、師匠が腹を空かせた弟子にこうしたらかなり反感を持つだろう。そして、弟子の多くは師匠の余りの食べ物をまるで悟る(法)ことができるものとして、競って得ようとするだろう。ちょうど仏舎利(シャカの遺骨)をもったものが正当な宗派であるかのようになるようなものだ。

 このシャカの言葉は聖書のキリストの言葉を思い浮かべることができる。

ところで、イエス様どうお思いでしょうか、お教えください。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。

「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい。」

彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、

「これは、だれの肖像と銘か」 と言われた。

彼らは、「皇帝のものです」と言った。

すると、イエスは言われた。

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

   マタイによる福音書 22章 17~21

 この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉はシャカの言葉に言い換えると

 「財はそれを作った者に、仏のものは仏に返しなさい

 になるだろう。神や仏は無宗教的には「自然」に置き換えることができる。

そのため、

 「お金は作ったものに返し、自然のものは自然に帰しなさい」になる。

 シャカ流にこれをいうなら、

お金を引き継ぐ者にならずに、自然を引き継ぐ者になりなさい

 となるだろう。実はこの法則はお金のシステムを自然なシステムにする方法が隠されているのである。

地方自治通貨を発行しよう

水曜日, 12月 29th, 2010

 お金って何だ?!を考え始めてから、かれこれ2年くらいになるだろうか?

 当初の理解とは今はかなり違ったものになっている。そして、どうしてお金の流れがこうなるのか?ということがだんだん解りかけてきた。

 例えば、世界はデフレ不況で困り、金融緩和政策をしているが、中国だけはまったく逆のインフレ好景気で、金融引き締めをしている。

 この理由は為替の自由相場制を世界の多くはとっているが、中国は管理相場制で、自国で勝手に為替相場を決めているからだ。

 各国は輸出によって、景気をよくしようと、自国通貨の相場を安くすることで、他国の商品との競争に低価格で勝とうとしている。とくに、為替自由相場の元になる基軸通貨のドルを安くしようと、その金利を安くしたり、膨大なドル紙幣を印刷している。基軸通貨が下がれば、他国の通貨は逆に上がることになる。そうなると、輸出する産業は競争に勝てなくなり、倒産し、一気に不景気になってくる。

 そのため、基軸通貨の安さに合わせようと、各国は金融緩和政策をとらざるをえなくなる。ゼロ金利政策では追いつかなくなり、中央銀行が不良債権を買い取ることで、大量の通貨を発行する。これは不景気の連鎖である。この原因は基軸通貨がドルであり、しかも、自由相場であるためだ。

 しかし、中国は自国で勝手にその相場を決めているので、自国の輸出競争力はトップになる。そして、外貨がたくさん中国に流れ込んでくると、当然、インフレになる。景気が過熱するので、金利を大きくして引き締めにかかる。

 また、ギリシャの危機があったが、もし、ギリシャがユーロに加盟してなく、自国通貨だったら、その危機はその国だけで被害はおさまっただろうが、ユーロ圏に拡大したのは、共通通貨にしたためである。

 世界恐慌はアメリカの投資会社一社の倒産だけで起きた。それはいかに世界が基軸通貨であるドルを大きく左右する投資会社と為替相場に支配されているということである。各国は経済的に自由ではなく、アメリカの投資会社に支配されているという証拠でもある。

 自由な国とは他国から一切支配されないということである。その自由を守るために欠かせないのは自国の衣食住の基本産業の自給率が高いことである。自給率は人でいえば、自立した経済力生活力であり、それが自由に生きるための最低必要条件である。

 その基本衣食住の産業と流通と消費を安定化させるのが自国通貨である。それは他国の通貨との為替によって左右されることのない通貨でなくてはならない。それが自由生活を保障する経済システムになる。しかも、自国通貨は自国の産業に合わせた独自の貨幣システムが有効である。

 さらに、それを地方自治を推進するならば、地方独自通貨も必要になってくるだろう。但し、独自通貨の流通は基本的衣食住産業だけに絞ることが必要であり、それ以外は他の地域や他国との文化交流のために、より開かれた産業が必要であり、それに合わせた通貨が発行されることが必要である。

 今の通貨は残念ながら、どの国の通貨もアメリカの投資会社の支配通貨である。それをいち早く脱して、三種の通貨を発行し、流通させることが大事であるように思える、

1,地方自治通貨・・・その住民の基本的な衣食住産業+地方独自産業

2.国の通貨・・・・・・他国の通貨に左右されない基本衣食住の産業通貨+独自産業

3,国際通貨・・・・・・他国との文化教育経済協力通貨(基礎産業以外)

 お金が混乱するのは、そのお金がなんでもかんでも交換流通するためで、それは自由放任する戦国時代の鉄砲や刀に相当する。お金はそもそも物々交換から発展してきたものであるが、今では単に所有権のとりあいのようになっている。お金は人の命と交換できないのに、それがあたかもできるような錯覚をする時代である。

 何が交換でき、何が交換できないか、はっきりとした目的と精神で、新たな自由貨幣制度が築かれていくことが必要であろう。

命の種が向かうところ

月曜日, 12月 27th, 2010

 ニンジンが必要になって、何本か抜いた。まだ小さかった。中には根っ子同士がからみあっていたものがあった。種を密集してばらまいたためだろう。葉っぱがかなり大きくなっているのに根が小さいとは。

葉っぱは食べられないのかなあ? と思って食べてみたら、パセリのような味がする。薬味になるが、たくさんは無理って感じだ。

 見た感じも、レタスか白菜か迷う。食べてみても迷うものがある。

 結局、娘の意見でレタスだとして、サラダにして食べたら、葉がしわくちゃなのでオイルの絡み合ってうまかった。

 こうした野菜の種は本当に小さい、それが大きくなると、みな個性をもった生き物になる。人間だって、受精卵から大きく育って、みな違う姿になる。

 それは驚きの奇跡に思える。人は肉体と心を持っているが、卵だったころは、肉体と心が一緒になっている状態に思える。心は見えないけれど、肉体は見える。

  この卵は今の携帯のマイクロSDカードのように、そこに莫大な情報が隠されている。その情報の一つ一つがいわば心の一つ一つのように思えてくる。

 肉体の変化とは比べられないほどの心の情報は大きく変化し、他の肉体に影響をもたらす。この心の元になったのが卵や種であるが、その卵や種を作るのが、男女の心の種である。それが実るのが愛で、実らないのが怒りのように思える。

 ニンジンが密集した姿をみると、そこに愛と怒りがからみあって生長しているように思える。そこに平和をもたらすのが、自身による自然淘汰か、人の間引きである。

 人のニンジンがともに生存するためには、ニンジンを全部収穫しないことである。間引いたニンジンを食べることがもっとも平和的行為であるように思える。というのは、残ったニンジンは越冬し、春になるとさらに大きくなって、夏には花を咲かせ、秋には種を実らせる。

 その種はもっとも強く、人にはおいしい品種になることができる。冬に間引いて食べるのは、強いニンジンではなく、弱いニンジンにすることが大事であるように思える。

 森を守ることも同じではないだろうか? 間引いた木だけを木材にし、間引いたところに強い苗を植樹する。それが大きく育ったら、今度は逆に老齢になった木を間引くという繰り返しをすれば、森と人が平和的に共存するように思える。

 間引くという行為は人間社会でともに生きるための規則を作るようなものであろう。間引かないと森は自滅する。間引かれないと、自身で自然淘汰して、強く生き残ろうとする。

 自然淘汰が生き物の自然法であり、間引きが人の法律であろう。人類全体が自滅しないように、環境保全や平和維持のための国際法や経済システムが作られ、また作っていくように思えてくる。

  

石油も自給自足できる時代になる

日曜日, 12月 26th, 2010

もし、化石燃料が枯渇したら、どうなるか?

沖縄の藻が生活排水の栄養で、石油を作り出すことができる。

なんと、1mの深さのプールで1ヘクタール(3000坪)で藻(オーランチオキトリウム)で栽培すると、1万トンの重油ができる。それを2万ヘクタールで、現在の石油輸入量に匹敵する。

朝日新聞のニュースにもなった。

いかに、資源循環が奇跡の美しい自然を作り出すことができるかだ。

それにしても、

石油は古代の藻が作ったとは知らなかった。石油がどのように自然に作られたかを知ったら、もっと早くこのことに気が付いたかもしれない。

一意志を一金の単位に

金曜日, 12月 24th, 2010

 最近、もうないと思われた埋蔵金2.5兆円が独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の利益剰余金が出てきた。それが、基礎年金の国庫負担割合を50%で維持に使われ、平成12年以降は消費税増税になる。

 鉄道建設・運輸施設整備支援機構がそんなに利益が出ていたとはとても信じられない。マスコミのための、ただの数字の帳簿を合わせるだけの「言い訳」にすぎないように思える。

 お金を独断で発行できるのは日銀である。最近、25兆円分印刷した。

 日本の借金は国公債で約1000兆円あるが、税収よりも借金の方が多くなった現実ではその返済は不可能だろう。でも、借金が払えなかったら、個人だったら、破産宣告をすればいいように、国家も破産宣告すればいいのだが、そう言ったら、国民が仰天してしまう。

 そこで、別な言い方で国民を安心させることができる。1000兆円の国債の半分を日銀に買ってもらい、残りの半分を貸し手である銀行各社に債券放棄してもらうと言えばいいのである。

 各銀行は中央銀行である日銀と信用創造の関係にあるので、つじつまを合わせることができる。第一、銀行は国債の利子で食べているところがあるから、そうせざるをえなくなるだろう。

 こうした借金の数字とはいったい何だろうか? それはほとんどが言い訳や「払う・払わない」というような言い合いにすぎないと思える。

 例えば、AとBの文無しの二人の会話のようなものだ。

A:「Bさん、10000円貸してくれよ、利子つけて返すからさ」

B:「ああ、いいよ、10000円貸してあげるよ、来年までにちゃんと返してくれよ」

Bは日銀から、10000円、利子0.1%で借りて、Aに10000円利子10%で貸すことができる。

日銀は10000円の日銀券を印刷して、Bに渡し、それはAに渡す。

1年後、AがBに11000円返済すれば、Bは日銀に10010円返済することで、990円金儲けすることができる。

 これが現実であるが、しかし、日銀が発行した日銀券は10000円しかなく、Aが利息分の1000円はどこからもってきたのだろうか? それはAB以外の人物であり、それをCDとすれば、ABの会話と同じことをCDがしたことになる。もし、世界がABCDの4人しかいなかったら、AがBに返済できたら、CはDに確実に返済できないことになる。日銀の総発行額は20000円であり、ABCDが必要なお金の総額は22000円であるからだ。その差額である2000円は幻のお金であり、約束という信用から生まれた幻想のお金である。その2000円の幻想のお金をめぐって奪い合うのが、ギャンブル経済である。

 この2000円の幻のお金とは債券である。債券を売ったり買ったりするので、2000円の債券は株券にもなり、それは幻の商品となって、その人気と信用度でその値が上がり下がりする。そのため、その価値は最低0円最高は無制限の1億円以上になったりすることができる。

 しかし、こうした幻の債券や株の実体は0円である。

 これは、米や麦などの食料でも当てはまる。日銀が発行した20000円を20000粒の米として想像すればいい。今年の米の生産高が20000粒しかないのに、22000粒の米を取引することは不可能であるが、それができたとしたら、2000粒は来年生産されるだろう米粒のことであり、それは予測した数字であり、実体のない幻の米粒でしかない。

 お金とは商品の値札であるが、その値段を決めることができるのはその商品を売ろうとする人物は自由につけられる。ただ、その値段で買う人がいるかどうかである。もし、買う人がいなかったら、その値札は0円の価値しかない。そのため、売り値ー買値=幻の金 ということになる。

 お金とは数字である。そのため数学であることが必要だ。数字に実数と虚数があって始めて数学が発展することができるように、実体のあるお金と債券や株のような実体のないお金を分けて表示することが必要である。

 実体のあるお金とは先日書いたように、金の重さではなく、米や麦の食料の量である。そして、実体のないお金は将来生産されるであろう米麦の量である。これがいわば借金や債券や株に当たるもので、その数は占いや予測であって、不確定な数字でしかない。

 人は「パンのみで生きるにあらず」なので、幻想や空想や虚構や思いこみによっても、生きている。そのため、幻想であるお金も生きるには必要不可欠である。

 では、この幻想であるお金1円の単位を何に設定したらいいだろうか?

 キリストの「人はパンのみで生きるにあらず」といった裏には、パン以外に何で生きているかである。これは人間は肉体と精神(心)でできているので、肉体の象徴がパンであり、心の象徴が父なる神であるといいたかったのだろう。 

 つまり、「人は心でも生きている」ということなのだ。この心こそ、幻想や空想を楽しみ、人が夢を見る姿なのである。

 では心とは何か? それは欲望・願望・希望・理想であり、それらの元になっているのが「自分の意志」である。人に命があるかをみるのに、意識があるかどうかであるようなものだ。但し、自分の意志というのは洗脳される場合があるので、他に洗脳されていない自分の意志というのが本当の自分の意志ということができる。

 お金を発行する意志は、日銀であるが、その総裁は国会で決められ、国会の議員は国民の投票で行われる。つまり、20歳以上の国民の意志で作られるといっていい。20歳未満は洗脳されやすい意志と言えるかもしれない。

 そこで、未来の米麦の生産数を決定するのは、20歳以上の国民の具体的意志の1を虚数であるお金の単位にしたらいいように思える。いわば、議員を選ぶ一票ようなものである。しかし、お金の単位の場合は、人に信託するのではなく、未来の米麦の生産量に対する意志である。

 それは普天間基地をどうするかの一票に価するのが、虚数としてのお金の単位である。それは国民の声をお金の単位にすることである。

 そこで、お金の実体の単位を

  米麦1粒=1実円

  お金の虚体の単位を

  成人の具体的意志=1虚円

  (1実円:1虚円を +1 : ー1 のようにするには、具体的意志の内容も米麦1粒 : 未来の米麦1粒 にすることで、米麦の生産量と未来の生産量がお金の単位の象徴的単位にすることができる)

  米麦1粒=1実円

  来年の米麦生産への1成年の意志=1虚円(今年と来年の生産意志が同じ場合)

 とする。

 そうすることで、お金の発行額は2種になり、1つは国民が生産消費する商品の量であり、2つは国民が将来必要とする商品量になることができる。

なぜ共産主義と資本主義の行き着くところは同じなのか

水曜日, 12月 22nd, 2010

 共産主義はソ連から崩壊したがまだ北朝鮮を中心にその残骸がある。中国なんかは経済だけが資本主義で政治が共産主義になっている。資本主義の親分であるアメリカも基軸通貨としてのドルはどんどん安くなって、資本主義も崩壊へと向かっている。

 どちらも資本主義であり共産主義であり、自由主義でなく社会主義でもない、同じところに向かっている。それはなぜだろうか?

 それは労働とお金はまったく無関係だという歴史的証明であるように思う。

 大学中退する代わりに、自分なりの「労働論」という卒論を書いたことがある。その原稿は無くなってしまったが、労働「なぜ働くのか?」の三要素として、1,生活 2,社会的役割 3.人格形成 をあげて、分析した。当時、「働き過ぎの日本人」が社会問題になっており、「働く意味」が問われた世相であった。 そして、労働論のテーマは「就社ではなく就職」というものだった。

 その後、就職したが、事実上は就社になり、その会社改革に破れ、結局自分で小さな便利屋をすることになり、労働論というより、経営論の方が大事になったという経緯がある。

 それから数十年してまた「働くって何だ?」という疑問が出てきたのは、今のお金のシステムが幻想であることに気が付かされたからだ。長く便利屋を経営しても、どうしてもお金が儲からなかったし、どんなに人のために真面目に働いても金儲けはできなかった。一方、途方もない何億というような金をあっという間に金儲けしてしまう投資会社は単にマネーゲームして稼いだもので、まじめに働いて得たお金ではないと思えた。

 そして、信用創造の原理を知って仰天し、お金とはいったい何だ?ということを追求していくと、ベーシックインカム(最低生活保障)の思想に出会った。その根本にあるのは、労働と所得を切り離すことである

 日本の国や地方が1000兆円の借金をして、さらにまた金持ちに借金して福利厚生事業をし、未来の国民の税金で返却していく道しかない現状は、どんなに国民が働いて税金を払っても、その国の借金を貸し主の金持ち資本家には返すことは不可能である。それは世界一の経済大国であるアメリカでも同じことである。第一、今の金持ちは働いて得た金ではなく、不労所得であり、金で金を得たものである。

 労働とお金はまったく無関係であることを知るには・・・「もし突然今お金がすべて無くなったら、どうなるか?」という想像をすればいい。

  まず食べ物が必要になる。ちょうど、天災にあったような状態である。そのときに、まず考えるのは「食べ物の所有権」である。いつもはスーパーに行けばお金で食べ物が買えるが、お金がなかったら、食べ物が手に入らないで困ることになる。
 農園を持っているならば、自分の畑で食べ物をとれるが、持ってなかったら、その農園は誰のモノかとその所有権を考える。

 農園も食べ物もなかったら、何を考えるだろうか? 誰か、食べ物をくれないかどうかを考えるだろうし、誰もいなかったら、誰のモノでもないような山や川海で食べ物を探すだろう。

 つまり、お金がなくなったら、所有権が問題になり、そのお金がない状態が続くと、どんな所有権も無くなってくると想像できてくる。それは災害時における無償の食べ物を多くの人が援助するようになる状況だと思えばいいだろう。

 これは、お金=所有権 であることを暗に示していることになる。

 そこで、お金のない国とは所有権のない国ということになる。

 もし、所有権がなかったら、労働とは何を意味するのだろうか?

 その労働三要素である1,生活 2,社会的役割 3.人格形成 はいわば、1,生きること 2,助け合うこと 3.平和を楽しむ といいかえることもできる

 一言にまとめるならば、働くとは他人とともに楽しく暮らすことである

 所有権がなくなったため、一番になろうとか、頑張ろうとか、約束を守ろうとか、争おうとかいう気持ちが薄れてくることになる。

 所有権に替わるのが、協力権、楽しみ権、衣食住の分配権、そして自由権である。

 特に自由権が問題になり、自由のない社会共産主義のような国になってしまうだろう。

 資本主義が自由主義と結びつき、共産主義が社会主義に結びつくようなものになる。

 というのは、個人の所有権がないと、2つの道ができる。

 1つは戦国時代のように、自分の所有するモノを増やそうとする。特に武力で自分が支配する領土を作ろうとする。
 2つは、個人の所有が禁止され、すべてが国の所有になる。それが共産社会主義である。しかし、国とは個人の集まりであり、その肉体があるような実体はなく、国民に信託された個人か、個人所有を許さない思想の政党の独裁政権になる。
 この2つの方向は歴史が証明している。

 個人の所有権を認めた自由主義も、個人所有権を認めない社会主義も、発展すると、相矛盾する方向に進むということも歴史と現実が示している。

 共産社会主義において、労働とは国につくすこと、奉仕することになり、それは国の独裁者をたたえ、従うことになってくる。

 資本自由主義においては、金をより多く持つものが国を支配するため、労働は金持ちに従うことになってくる。国もまた、金で支配されるようになる。

 個人の所有権を認めても認めなくても、働くとは他人とともに楽しく暮らすことである

 そして、働くとは所有権やお金とはまったく関係ないと言えることになる。そのため、お金や所有権については労働とはまったく切り離して、そのシステムや法律を作ることが必要になってくる。

 お金のシステムは共産社会主義のような独裁政権になっても困るし、資本自由主義のような金持ち支配国になっても困る。

そこで、両者の道は「働くとは何か?」という原点に帰ることで、帰結するのである。つまり、

働くとは他人とともに楽しく暮らすことである

そして、

お金と所有権は「他人とともに楽しく暮らす」ための「道具・システム・法律」であるという意識によって、新たに築かれていく必要がある。

それをたとえれば、人がキャッチボールするときの、人とボールのような関係である。

 キャッチボールする人が働くことであり、ボールがお金である。そうした関係になることがこれからの時代であろう。

 

ゴミって何だ?!

月曜日, 12月 20th, 2010

 ゴミをゼロにするのは個人では難しく、95%が限界で、残りの5%は燃やすことが個人では難しいもので、汚れたプラスチック類や、金属やガラスやプラが組み合わさった粗大ゴミで破砕が難しいものである。

 自然界にはゴミがないというのは、自然の枯れ草木や動物の死骸はみな命を育む資源になるということだからである。

 昔、ゴミ焼却場から猛毒のダイオキシンなどが出ることが問題になり、そうした有害物質を出さない高熱な焼却炉が必要になった。そういう高熱の焼却炉を設置したところは、プラ類は燃やせるゴミに変更された。

 しかし、もっと問題なのは、ゴミを燃やすこと自体が大量の石油を使い、かつ大量のCO2を排出することである。特に、生ゴミのほとんどは水分なので、それを燃やすためには大量の化石燃料が必要になる。もし、生ゴミをそのまま土に埋まると、発酵して、野菜を育てる堆肥になる。

 自然の営みではほとんど火を使わないで命は循環している。人類の知恵は火を起こし、火を使える便利さで進歩してきた。その究極は原子力であろう。その破壊力は地球全体の生き物すべてを破壊することができるまでになった。しかも、燃え尽きた後に残る放射性物質は生き物を長年に渡って病気にし、死をもたらす有害なものになった。

 多くの商品が火を使って作られる。自然のものは火を使って作られない。こういうところから、火を使って作られたものはゴミになりやすく、火を使わないで作られたものは資源になりやすいと言えるのでないだろうか。

 つまり、火は人為的なもので、自然なものには使われない。人が起こす戦争や環境破壊は火を用いることが多く、自然とはかなり離れたものであるということだ。

 火とは主に炭素と酸素が化合する際に出るエネルギーのことである。エネルギーは原子と原子が融合したり、分裂するときに生まれる。いわば、原子の結びつきの形が変わるときである。

 生物では、その種が変化する場合は構成する遺伝子の配列が変わることと同じである。

 問題は1つの化合物や種が他に比べて異常に増えた場合である。また、まったく新しい物質や生物が生まれ、それが増えることで、既存の生物が絶滅することである。

 人類が絶滅するとしたら、世界の核戦争か、新種のウイルスの増殖である。それにさらに付け加えるならば、遺伝子操作されてできあがった次の種ができない食物である。その感染力は新種のウイルスと同じくらい強いからだ。

 世界の経済も同じで、一種の金持ち族が支配する経済社会になり、経済格差がとてつもなく大きくなったときに崩壊する。

 ゴミって何だろうか?

 こう言えないだろうか?

 今までにない、多種多様な生物が生存できないような物質や細菌ウイルス種のことである。経済でいえば、多様な人間が生きられないお金(法・システム)のことである。と!

 

 

 

基地移転先は尖閣諸島や竹島や北方4島にしたら

日曜日, 12月 19th, 2010

 普天間基地の移転が難航している。

たくさんの沖縄の米軍基地があるのに、普天間基地が本当に必要なのか? 

そもそも、国を守る上で、武力に対して武力で守る場合、より多くの武力を持つのは逆効果ではないのか? 核には核で対抗しようとするから、核が増えて、お互いに自滅する危険が増える。それは、怒りの連鎖、復讐の連鎖で危険が増大するようなものだ。

 インドのガンジーのように武力に対しては、無抵抗、無服従の姿勢の防衛手段を採用した方がより平和的解決につながるように思えるのだ。最小限の武力と最大限の知恵を使って防衛する技術を開発することが大切だと思える。

 今、国のあらゆる災害から守るに当たって、食料の自給率をあげる必要があるように、防衛だって、最大限の知恵を絞った他国の武力に全依存しないで、日本独自で防衛自給率を増やすことが必要だろう。

 ピンチはチャンスというような防衛を考えるなら、米軍基地は領土問題が起きているところにみな移転してもらえばいいだろう。

 対中国の尖閣諸島、対韓国北挑戦の竹島、対ロシアの北方4島に米軍基地を移転すれば、二国間の領土問題は第三国であり、しかも軍事大国であるアメリカの仲介が必要になるからだ。

 そうした方が沖縄の市内で武力防衛するより、より対共産主義の危険から守れるようになり、領土問題にも決着がつくように思うのだが、どんなもんだろうか!

自然農の全体と方向性

土曜日, 12月 18th, 2010

 自然農というと、どうも福岡さんが元祖だと思っていたが、岡田茂吉が最初の提唱者のようだ。そうした自然農の全体を語っている動画を見つけた。

 そして、その行き先が森のような気がした。ここに4つの動画を続けてリンクしてあるが、最後の「きらめ樹」という間伐する方法には感心させられた。

 本を読むと、みな言うことが違うし、実際にやってみないと、それらが正しいかどうかはわからないことが多い。この動画でも語られているが、

 人は間違いを起こすが、自然には間違いがない

 ということだ。

 この原理は人を裁き、お金を作る法律にもいえることであり、人が作る法律には間違いが必ずあるということである。でも、自然法には間違いがない。

 日本は法治国家であり、法の下に三権である司法立法行政がある。しかし、中国はたった8人の共産党員の下に法律も三権もある独裁政権であり、間違いがより多い政治社会である。

 自然法とは水は山の上から下の海に流れ、水平を保とうとし、その水は太陽に暖められ、蒸発して水蒸気になり、雨となってまた山に降り注ぐというような「自然の営みの力」のことである。

 どんな政治のもとであれ、人は自然法に従っていれば幸せに暮らすことができるということである。

 食の自給率ばかり目を向けていたが、木材の自給率もあげる必要性があるように思える。最近、大雨で地滑りする災害も多いが、森を管理して持続させていくことが、木材の自給率に結びつくことを知って、いかに人と自然の森が共存することの大切さを思い知らされた。

 4つめの動画は「森の蘇り」というNPO法人が運動している。 

 そして、1~3の動画で「舎爐夢ヒュッテの臼井さん」が、野菜の収穫は6割、4割はそのままにすることで持続可能な農業になると提唱しているように、森の間伐もその割合は変わるかもしれないが、4割ほど間伐した木材を人が使えば、森と共存できる人間社会ができるように思える。

 自然法はこうした人が収穫伐採する割合を決めていくようなものであろう。

 それにしても、間伐する樹の皮を簡単に剥がすだけで、その木は1年後には枯れてしまうとは驚きだ。