Archive for 12月, 2010

税金と福祉はお金自身で行わせるのが自然である

金曜日, 12月 31st, 2010

 今年も今日で終わる。特に今年は人生最大の大勝負に出た年だったと同時に今までやってきたことの完結編でもあった。

 その今年を本日捨てて明日の新年を受け入れる!

 本当に強い者とはどんな人間か?というテレビドラマの台詞であったが、「強い者でもなく、頭のよい者でもなく、自分が変われる者だ!」と。その証拠は「なぜ恐竜は絶滅したのか? 氷河時代に生き残った生物はどうしたのか?」にあると語っていた。

 自分が変わる! これが生き残る最も強い戦略である。人類だって、いつまでも同じことを繰り返ししていたら、生き残れない。どんな植物でもさらに生き残るための新品種に変わろうとしている。

 自分が変わるとはどういうことか?

 実は私達の肉体を構成する細胞は毎日、毎秒新陳代謝をしている。それは無意識に自然にそうしている。生き残るということは生きるということなのだ。

 自分が変わるとは昨日の自分をすべて捨てて、明日の自分を受け入れるということである。

 今ここに水が一杯に入ったコップがあったとする。その水を新しい水に入れ替えるためには、その水をまず捨てなければならない。水が入れ替わっても、替わらないコップというのは肉体のことであり、替わる水とは心のことである。

 自分が変わるということは自分を変えるということではないよく、宗教やビジネス界で、「よりよい自分に変える」という修行や訓練があるが、それらはほとんど洗脳とマインドコントロールであり、他人(上の者)の言うとおりに動くということであって、自分を変えることではなく、自分が変えさせられることであり、服従することである。

 我々が意志することなしに、肉体の細胞は新陳代謝し、心は一瞬一瞬変わり止まることはないではないか。

 自分が変わるには、どんな意志も必要ないのである。「そのままの自分」を受け入れるだけでいいのだ。天地自然が勝手に自分を一瞬一瞬変えてくれる、風がそよぎ、日差しが変われば、それを受け入れればいいだけである。「そのままの自分」とはまた「 自然を受け入れる」ということでもある。

 さて、今日の本題はここからである。

税金の話である。

 国民であるかぎり、国に税金を納めなくてはならない。そうしないと、国が成り立たないからである。

 と、思いこんでいる。

 税金は自己申告が基本である。脱税は犯罪として国から罰せられる。でも、税金というお金はそもそも国民は印刷できない、お金を印刷できるのは日銀だけである。そのため、税金を国に払えるのは日銀だけであるから、国民の税金を課さずに日銀に「税金払え」と言え! と叫びたくなる。実際問題、今そうなっている。国民が税金1000兆円払えないから、日銀がそれを払いなさい。今年はその分の25兆円日銀が払ったではないか。

 第2の思いこみはこれだ。

 税金は真面目に働いて払いなさい! 一体お金をまもとに働いて得た人がどれほどいるだろうか? お金は働いて稼ぐよりも、お金でお金を稼がせる方が莫大な金を手にすることができるというのが現実である。それを教えてくれたのはライブドアのようなIT産業が、株によって企業買収することで、莫大な金をあっという間に儲けることができたという報道である。
 金持ちの多くが遺産相続や不動産などの不労所得からなったであろう。

 そのため、税金が払えるのは金持ちだけである。労働者である国民は税金が払えないから、国は金持ちから1000兆円借金せざるをえないのが現状なのである。つまり、「税金は金持ちだけが払えばいい!」と叫ぶことが正解なのである。

 国民すべてが税金を働いて国に払わなくてはならないというのは法の処罰による洗脳である。しかも、不労所得の金持ちが、労働する国民を支配するためのマインドコントロールであり、その手先が国家であるということだ。

 ここで、シャカとイエスの言葉を思い返してほしい。

「お金を引き継ぐ者にならずに、自然を引き継ぐ者になりなさい」
「お金は作ったものに返し、自然のものは自然に帰しなさい」

 お金はお金自身で勝手に税金を国に払うこと、それが自然であり、人の理と道にかなったシステムである。

 今のお金は「所有権」であり、その税金とは「個人の所有権」が「国の所有権」に移行することである。

 ここで、また自分が変わるということがどういうことか思い返してほしい。

 自分が変わるということは「古い自分を捨てて、新しい自分を受け入れる」ということである。

 それはお金自身にもいえることである。
つまり、
 「個人の所有権であるお金を捨てる」と、自動的にそれは「公共の所有権であるお金になる」ことである。そして、
 「新たな個人の所有権であるお金を受け取る」ということは、「公共の所有権であるお金から、新たに個人の所有権に分配される」ことである。

 このお金の顔である「自己所有権」が、常に入れ替わることがお金が生き残る自然な道である。

 そのシステムとは、お金そのものが食べ物のように一定の期間でその効力が消滅することが重要である。

 例えば、10人の国民がいたとして、10円のお金が毎年商品交換で必要だとする。

10人国家はまず10円のお金を発行し、平等に各人1円ずつ分配する。それはトランプでカードを配るようなものである。

 ゲームはその取り合いになり、1年後、例えば、トップの人が6円,次が2円 その次は1円1円になり、その他は0円になることは多いだろう。

 ゲーム終了になると、そのトランプはすべてもとの箱に収められる。これが、税金にあたる。個人の所有権が無くなり、すべて公共の所有権になることである。

 そして、翌年、国は再び集められた税金10円を、全国民10人に1円ずつ配り、ゲーム(経済生活)が開催され、競い合う楽しさが国民全員に与えられる。

 そのお金の流れにおいて、競争するゲームのときだけ、「働く・稼ぐ・頭を使う」という意志があるが、トランプをもどし、再配分することに対して、努力することはない。自動的に、無意識に、システムとしてお金自身が勝手に動くようなものである。それはあたらかも、天から雨が山に降り注ぎ、いろいろな川となって海に流れ込み、再び、水蒸気となって、天にあがり、冷やされて、再び山に雨が降るようなものである。

 かくて、税金も、福祉も、お金のシステムが自動的に自然に行うことで、私達は自然に自分をありのままに生きられ、人としてこの地球に生き残れることができるのである。

余ったものは捨てなさい

木曜日, 12月 30th, 2010

 学生時代に、読んだシャカの言葉で引っかかる言葉があった。それが、

「余ったものは捨てなさい」

 というものだったが、「もったいない」ということの意味とはまったく逆にとらえられそうなものだった。さっそくその仏典の箇所をネットで調べた。

汝らはわたしの法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならぬ

          ――― 南伝 中部経典 3 法嗣経

ある時、ブッダが祇園精舎にいらっしゃった時のこと、ブッダは比丘たちに説かれて、このように仰いました。
  「比丘たちよ、わたしは汝らを愛しみ愍(あわ)れむが故に、汝らはわたしの法の相続者となるがよい、財の相続者となってはならぬ、と願っている。
  比丘たちよ、もし汝らがわたしの財の相続者となって、法の相続者とならなかったならば、汝らはそれによって、他人より指さされて、――かの師の弟子たちは、財の相続者であって、法の相続者ではない。――と批評せられるであろう。わたしもまた、それによって、人々に指さされて――、かの師の弟子たちは、財の相続者であって、法の相続者ではない。――と評せられるであろう。
 比丘たちよ、もう一度言うが、汝らはわたしの法の相続者となるがよい。財の相続者となってはならぬ。
汝らは、それによって、他人より指さされて、――かの弟子たちは財の相続者であって、法の相続者ではない、などと――評せられることは、よもやあるまい。わたしもまた、それによって、人々に指さされて、――かの師の弟子たちは、財の相縦者であって、法の相続者ではない――。などと批難せられることもあるまい。
 それ故に比丘たちよ、汝らはここに、わたしの法の相続者となるがよく、財の相続者となってはならぬ。

「比丘たちよ、わたしは今ここに、食物を得て、充分に飽食することを得、しかもなお食物の余分があって、捨てようと思っているとするがよい。その時、飢え渇き、疲れ衰えたる二人の比丘がやってきて、わたしは彼ら二人に対して、このように言ったとするがよい。――比丘たちよ、わたしは今ここに、食物を得て、充分、飽食することを得た。しかもなお、わたしは食物の余分があって、いま捨てようかと思っている。もし、汝らが欲するならば、これを食するがよい。もし、汝らが欲しなければ、私は今これを草なき土地に捨てよう。あるいは虫のいない水に投じよう。
 比丘たちよ、その時、その一人の比丘は、このように考えたとするがよい。――世尊は今、食を得られて、飽食なされた。しかもなお、世尊には、食の余分があって、世尊はそれを捨てようとしておられる。もし、私共がそれを頂かなかったならば、世尊は、これを草なき地に捨て、あるいは虫なき水に投じられるであろう。だが、世尊はかつて、『汝らよ、汝らはわたしの法の相続者たるがよい。財の相読者となってはならぬ』と教えたもうたことがあった。そしていま、かの食の余分は一つの財である。わたしはむしろ、この食を頂かないで、飢え渇き、疲れ衰えたる身をもって、一夜を過ごそう。――かくて彼はその飢渇・疲労の身をもって、その一夜を過ごしたとするがよい。
 比丘たちよ、その時、いま一人の比丘はまた、このように考えたとするがよい。――世尊はいま、食を得られ、充分に食をおとりになられた。しかもなお、世尊には余分の食があって、それを世尊は今捨てようとしておられる。もしそれを私共が頂かなかったならば、世尊はこれを草なき土地に捨て、あるいは、虫なき水中に投じられるであろう。今はむしろ、わたしはこの食を頂き食して、飢え渇き、疲れ衰えたる身を養い、この一夜を過ごすとしよう。――そして彼は、その食をとり、飢渇・疲労の身を癒して、その一夜を過ごしたとするがよい。
  比丘たちよ、彼はその食をとって、飢渇・疲労の身を癒すことを得て、その一夜を過ごすことを得たけれども、しかも、彼に比して、かの第一の比丘こそは、真に尊敬されるべき者、称讃されるべき者と言わねばならぬ。なぜならば、比丘たちよ、かの第一の比丘の選んだ道は、彼にとって長く、少欲・知足・削減・精進の徳を養うに役立つが故である。
  されば比丘たちよ、汝らはいまや、わたしの法の相読者となるがよく、財の相読者となってはならないのである。わたしは、汝らを愛しみ愍れんで、わたしの弟子たちは、わたしの法の相続者となるがよい、財の相続者となってはならない、と願っているのである。

 実際生活で、もし、師匠が腹を空かせた弟子にこうしたらかなり反感を持つだろう。そして、弟子の多くは師匠の余りの食べ物をまるで悟る(法)ことができるものとして、競って得ようとするだろう。ちょうど仏舎利(シャカの遺骨)をもったものが正当な宗派であるかのようになるようなものだ。

 このシャカの言葉は聖書のキリストの言葉を思い浮かべることができる。

ところで、イエス様どうお思いでしょうか、お教えください。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。

「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい。」

彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、

「これは、だれの肖像と銘か」 と言われた。

彼らは、「皇帝のものです」と言った。

すると、イエスは言われた。

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

   マタイによる福音書 22章 17~21

 この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉はシャカの言葉に言い換えると

 「財はそれを作った者に、仏のものは仏に返しなさい

 になるだろう。神や仏は無宗教的には「自然」に置き換えることができる。

そのため、

 「お金は作ったものに返し、自然のものは自然に帰しなさい」になる。

 シャカ流にこれをいうなら、

お金を引き継ぐ者にならずに、自然を引き継ぐ者になりなさい

 となるだろう。実はこの法則はお金のシステムを自然なシステムにする方法が隠されているのである。

地方自治通貨を発行しよう

水曜日, 12月 29th, 2010

 お金って何だ?!を考え始めてから、かれこれ2年くらいになるだろうか?

 当初の理解とは今はかなり違ったものになっている。そして、どうしてお金の流れがこうなるのか?ということがだんだん解りかけてきた。

 例えば、世界はデフレ不況で困り、金融緩和政策をしているが、中国だけはまったく逆のインフレ好景気で、金融引き締めをしている。

 この理由は為替の自由相場制を世界の多くはとっているが、中国は管理相場制で、自国で勝手に為替相場を決めているからだ。

 各国は輸出によって、景気をよくしようと、自国通貨の相場を安くすることで、他国の商品との競争に低価格で勝とうとしている。とくに、為替自由相場の元になる基軸通貨のドルを安くしようと、その金利を安くしたり、膨大なドル紙幣を印刷している。基軸通貨が下がれば、他国の通貨は逆に上がることになる。そうなると、輸出する産業は競争に勝てなくなり、倒産し、一気に不景気になってくる。

 そのため、基軸通貨の安さに合わせようと、各国は金融緩和政策をとらざるをえなくなる。ゼロ金利政策では追いつかなくなり、中央銀行が不良債権を買い取ることで、大量の通貨を発行する。これは不景気の連鎖である。この原因は基軸通貨がドルであり、しかも、自由相場であるためだ。

 しかし、中国は自国で勝手にその相場を決めているので、自国の輸出競争力はトップになる。そして、外貨がたくさん中国に流れ込んでくると、当然、インフレになる。景気が過熱するので、金利を大きくして引き締めにかかる。

 また、ギリシャの危機があったが、もし、ギリシャがユーロに加盟してなく、自国通貨だったら、その危機はその国だけで被害はおさまっただろうが、ユーロ圏に拡大したのは、共通通貨にしたためである。

 世界恐慌はアメリカの投資会社一社の倒産だけで起きた。それはいかに世界が基軸通貨であるドルを大きく左右する投資会社と為替相場に支配されているということである。各国は経済的に自由ではなく、アメリカの投資会社に支配されているという証拠でもある。

 自由な国とは他国から一切支配されないということである。その自由を守るために欠かせないのは自国の衣食住の基本産業の自給率が高いことである。自給率は人でいえば、自立した経済力生活力であり、それが自由に生きるための最低必要条件である。

 その基本衣食住の産業と流通と消費を安定化させるのが自国通貨である。それは他国の通貨との為替によって左右されることのない通貨でなくてはならない。それが自由生活を保障する経済システムになる。しかも、自国通貨は自国の産業に合わせた独自の貨幣システムが有効である。

 さらに、それを地方自治を推進するならば、地方独自通貨も必要になってくるだろう。但し、独自通貨の流通は基本的衣食住産業だけに絞ることが必要であり、それ以外は他の地域や他国との文化交流のために、より開かれた産業が必要であり、それに合わせた通貨が発行されることが必要である。

 今の通貨は残念ながら、どの国の通貨もアメリカの投資会社の支配通貨である。それをいち早く脱して、三種の通貨を発行し、流通させることが大事であるように思える、

1,地方自治通貨・・・その住民の基本的な衣食住産業+地方独自産業

2.国の通貨・・・・・・他国の通貨に左右されない基本衣食住の産業通貨+独自産業

3,国際通貨・・・・・・他国との文化教育経済協力通貨(基礎産業以外)

 お金が混乱するのは、そのお金がなんでもかんでも交換流通するためで、それは自由放任する戦国時代の鉄砲や刀に相当する。お金はそもそも物々交換から発展してきたものであるが、今では単に所有権のとりあいのようになっている。お金は人の命と交換できないのに、それがあたかもできるような錯覚をする時代である。

 何が交換でき、何が交換できないか、はっきりとした目的と精神で、新たな自由貨幣制度が築かれていくことが必要であろう。

命の種が向かうところ

月曜日, 12月 27th, 2010

 ニンジンが必要になって、何本か抜いた。まだ小さかった。中には根っ子同士がからみあっていたものがあった。種を密集してばらまいたためだろう。葉っぱがかなり大きくなっているのに根が小さいとは。

葉っぱは食べられないのかなあ? と思って食べてみたら、パセリのような味がする。薬味になるが、たくさんは無理って感じだ。

 見た感じも、レタスか白菜か迷う。食べてみても迷うものがある。

 結局、娘の意見でレタスだとして、サラダにして食べたら、葉がしわくちゃなのでオイルの絡み合ってうまかった。

 こうした野菜の種は本当に小さい、それが大きくなると、みな個性をもった生き物になる。人間だって、受精卵から大きく育って、みな違う姿になる。

 それは驚きの奇跡に思える。人は肉体と心を持っているが、卵だったころは、肉体と心が一緒になっている状態に思える。心は見えないけれど、肉体は見える。

  この卵は今の携帯のマイクロSDカードのように、そこに莫大な情報が隠されている。その情報の一つ一つがいわば心の一つ一つのように思えてくる。

 肉体の変化とは比べられないほどの心の情報は大きく変化し、他の肉体に影響をもたらす。この心の元になったのが卵や種であるが、その卵や種を作るのが、男女の心の種である。それが実るのが愛で、実らないのが怒りのように思える。

 ニンジンが密集した姿をみると、そこに愛と怒りがからみあって生長しているように思える。そこに平和をもたらすのが、自身による自然淘汰か、人の間引きである。

 人のニンジンがともに生存するためには、ニンジンを全部収穫しないことである。間引いたニンジンを食べることがもっとも平和的行為であるように思える。というのは、残ったニンジンは越冬し、春になるとさらに大きくなって、夏には花を咲かせ、秋には種を実らせる。

 その種はもっとも強く、人にはおいしい品種になることができる。冬に間引いて食べるのは、強いニンジンではなく、弱いニンジンにすることが大事であるように思える。

 森を守ることも同じではないだろうか? 間引いた木だけを木材にし、間引いたところに強い苗を植樹する。それが大きく育ったら、今度は逆に老齢になった木を間引くという繰り返しをすれば、森と人が平和的に共存するように思える。

 間引くという行為は人間社会でともに生きるための規則を作るようなものであろう。間引かないと森は自滅する。間引かれないと、自身で自然淘汰して、強く生き残ろうとする。

 自然淘汰が生き物の自然法であり、間引きが人の法律であろう。人類全体が自滅しないように、環境保全や平和維持のための国際法や経済システムが作られ、また作っていくように思えてくる。

  

石油も自給自足できる時代になる

日曜日, 12月 26th, 2010

もし、化石燃料が枯渇したら、どうなるか?

沖縄の藻が生活排水の栄養で、石油を作り出すことができる。

なんと、1mの深さのプールで1ヘクタール(3000坪)で藻(オーランチオキトリウム)で栽培すると、1万トンの重油ができる。それを2万ヘクタールで、現在の石油輸入量に匹敵する。

朝日新聞のニュースにもなった。

いかに、資源循環が奇跡の美しい自然を作り出すことができるかだ。

それにしても、

石油は古代の藻が作ったとは知らなかった。石油がどのように自然に作られたかを知ったら、もっと早くこのことに気が付いたかもしれない。