Archive for the ‘自然に生きる’ Category

「みんな違ってみんな良い」をどう実現するか

月曜日, 4月 17th, 2017

私も含めて、友人たちの家族の多くはバラバラになっていて、老人の孤独死が自然のような家族環境になってきている。

邪馬台国をなぜか求めてきて、そこがどこにあったかはどうでもいいことだが、なぜ、その歴史ロマンに引き込まれるか? 不思議であった。

吉野ケ里遺跡に二日間車中泊して、どうやら、「日本人の心のルーツが大和国という家にあり、そこに八百万の神々が集まり、和して団らんしている」そうした中心に天照大御神=日御子があり、現天皇に象徴的に一つにまとまっていて、安定している。

「みんな違ってみんな良い」を初めて日御子が大和国として、統一実現させた。それは武力ではなく、国民みんなを神々として尊重・尊敬する敬愛の心で統一実現したのだろう。

すぐ武力で制圧しようとする男の特質は破壊に通じ、命を生み出す女の特質は平和に通じるので、敬愛を持つ女王日御子が勇猛をほこる男どもから担がれたのだろう。

世界は今、東洋と西洋の中間にあるシリアにおいて、武力による殺戮と破壊がとどまることなく進んでいる。それを平和にする術がなく、困り果てている。こうした状況は弥生時代の後期に似ている。イスラム国のように首狩りが当たり前の状況であったことも、その甕(カメ)カンに埋葬された遺骨からも解る。

もし、日御子のような敬愛を持つようなリーダー(もしくな法や精神)が世界で選出されたならば、どんな宗教も、どんな人種も、72億の神々として敬愛し、平和に統一されていくだろう。

日本は日御子の時代から二千年にわたって、引き継がれた敬愛の心をもっているのだから、そうしたリーダー役にはもってこいであろう。それはなんの因果か解らないが、唯一の被爆国であり、非戦国としての平和憲法を持っている国として、それを果たすべき日が来たように思える。

 

身長は150センチ、獰猛な戦士をなだめ、敬愛をもって、大和国を平和に治めた

前に、真実は一つだが、真理は一つではない。

としたが、通常、コナンでもそうだが、人の心情や意志を真実の中に入れてしまうので、誤解されやすい。

それで、

事実は一つ、真理は人間の数だけある。

と言い換えることにした。

それは、「みんな違ってみんな良い」を実現するのは敬愛と思えたが、そうした心情は一つになりにくいので、「事実は一つ」を応用して、「事実を共に共有すれば和する」と言えるだろうし、正反合の弁証法の合も、事実の共有で、合するとも言えるだろう。

シリアの問題も、

「共に生きるか?共に死ぬか? どっちが事実であり、どちらの事実を受け入れれば和する?」

という事実の共有で和解できるだろう。

 

真実は一つだが真理は一つではない

木曜日, 4月 13th, 2017

真実はいつも一つ!

「真理はただひとつと考えるのか複数あると考えるのか?」ダライ・ラマ十四世法王

ダライラマは「真理は複数であり、また一つでもある」という自己矛盾に陥っている。

真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない」『スッタニパータ』『ブッダのことば』(岩波文庫)194頁

ブッダは「真理が一つであれば、他はみんな真理ではなくなるので、どれが真理か争うしか道がなくなる」ので、その悟りは空論にすぎない。

こうした矛盾や空論は言葉の定義を明確にすると理解しやすい。

上記で語られる5つの言葉が

真実=真理=神=仏=宗教 だとして、

それぞれの言葉の定義がされず、みな同じだとして説明するので自己矛盾と空論に陥ってしまうのである。

これを山登りに譬えてみると

真実は山登りする人々の全体を示すが、真実以外の真理・宗教・神・仏・生き方などは、それぞれの山頂(目的)を目指して上る山道であり、その山道は尾根ルート、沢ルートなどたくさんある。独りで山登りするだけなら問題は起きないが、二人以上で同じ山道を登ろうとするとイザコザが起きる。

どの山道を選ぶかだけでなく、どの山を登るかで、問題が起きるのである。また、登るスピードや、登り方でももめることになる。

今回の旅のテーマは

「みんな違って みんな良い」

という楽しみをどう実現していくか? そのバトル実験を試みている。

この山登りをみて、

それが個々人がみなバラバラに自由に自分の山道を選び、マイペースで登っていけば問題がまったく起こらないが、もし、二人で同じ山や山道を選択しようとしたり、同じペースで登ろうとしたら、問題が起きてしまうことが解る。

そうした場合の解決策は

地球上の72億人の一人一人の自由なな生き方を認めるように、72億人の真理と神と仏があることを認めることである。真理はけして一つではなく、また宗教も神も仏もけして一つではない、それは独り一人の生き方であって、それを誰しも強制することも、強制されることもない。

それを認め合うことで、時に、同じ山道であり、時に同じ山であり、そうした一人一人の生き方の違いを、自分にはできない生き方を知ることで、大いに楽しむことで、調和していくのであろう。

 

プラゴミこん炉で調理

火曜日, 4月 4th, 2017

薪コンロで毎朝調理していたら、ふと、半年分の分別した紙類、プラスチックごみ、汚れた燃えるコミ、燃えないゴミ、布類、ペットボトルなどはみな薪に入れたら、よく燃えるのではないか実験した。

すると、鉄やアルミ類やガラス陶器類は燃え残り、それはセメントで固めて、レンガにして利用できることを発見。唯一、電池などの危険そうな物質だけは粗大ごみで出すことにした。

生ごみは十数年前から電気生ごみ処理機で、いい香りのする肥料ができ、畑に播いているので、今回はほぼ99.9%は家庭でゴミ処理と湯を沸かしたり、料理したりするゴミこん炉として、一石三鳥の使い方ができた感じがする。

ただ、数十年目にできたダイオキシン(生理的には環境ホルモン)は突如毒があるとして法的禁止された。それまでは、どこの家庭でも、燃やしていたが、黒い煙がでて、匂いがするので、たぶん危険だろうと納得したのだろう。

今回、この黒い煙もほとんどでないし、匂いもほとんどしない燃やす方法を発見した。薪でも、不完全燃焼すると、白い煙がでるが、完全燃焼をすると、ほとんど煙がでない。

プラゴミでも、燃焼温度が高いので、こん炉はブロック6個半で組んで作った方が長持ちする。そして、プラゴミも完全燃焼させれば、黒い煙も、変な匂いもしなくなる。大きく硬いプラゴミはまず溶けるので、その下に薪を置くことで、溶けたプラを薪に絡みつかせ、燃やしやすくする。また、紙類はいちばん着火がよいので、そこに火をつけるとすぐつき、その上に柔らかいブラゴミを置くと、それはすぐ溶けて燃えて、高温になるので、紙だけよりも、プラゴミを混ぜた方がよく燃えるのである。

さらに、その上に、細かい薪、その上に太い薪をのせれば、ほぼ完全燃焼する。

これらすべて燃えた灰は白くなるが、途中水をかけるなどをして、プラゴミなどが不完全燃焼したものは黒い灰になり、匂いが残る。そのため、火は自然に消えるまで燃やし尽くすか、水をかけて消化した場合は、その灰や燃えカスは次回に完全燃焼させると、白い灰と匂いのしない灰になり、それで、焼き芋も作ったが、匂いもつかず美味しかった。

ちなみに、焼き芋は濡らした新聞紙にアルミホイルで包んで焼くと、新聞紙のインクが蒸発するので、匂いも味も悪く毒性になるのでやめて、アルミホイルも新聞紙など、なにもしないで、そのまま焼くと、皮もそのまま食べられて美味しい。

プラゴミは高温になるのでブロック6個半で組むのがいい

さらに、燃焼効率をよくするなら、二重コンロ、ロケットこん炉で高くすればよい

プラゴミが法的規制されたことは、

「科学が社会的デマに負けた」結果ともいえるだろう。きちんとして科学的データと、分別したリサイクル類が本当に再利用されているか、隠密裏に業者に委託されて燃やされているか、公に明示することが、大事であろう。そうすれば、科学がデマに負けて、無意味なまた悪循環するゴミシステムになることはなかろう。

参考に、9年前に、著名人が書いた本のダイオキシンと環境ホルモンの毒性の嘘が、その数十年前の農薬の残留物にあったとする記述を紹介する。

こうしたデータと、科学的検証と、分別ゴミの正確な行き先と、その量を明示されるよう、1日でも早く行われるよう切に祈りたい。

プラスチックゴミとダイオキシン
ほんとうの環境問題 池田清彦・養老猛司著 2008年発行より
p63-65
ゴミがないと困るハイテクのゴミ焼却炉

ゴミの処理をどうするかということで言えば、ゴミの焼却(とくに塩化ビニールのようなプラスチックゴミの焼却)による燃焼工程でダイオキシンが発生するということが問題になり、ダイオキシン類対策特別措置法(いわゆるダイオキシン法)が1999年に成立、2000年から発効となった。
2002年12月から本格的な適応が始まったそのダイオキシン法によって、家庭用焼却炉や学校の焼却炉では、紙ゴミや庭のゴミでさえも燃やすことができなくなった。
そのため、家庭用の焼却炉を製造販売していた会社は潰れてしまった。
代わりに、ゴミの焼却処分のために、住宅街から遠く離れた山の中などに、高熱でゴミを燃やせるようなハイテクの高級焼却炉が巨額を投じて建設された。
家庭用焼却炉ではなく、ハイテクの高級焼却炉をつくるメーカーはそれで相当儲かったわけだけれども、その高級焼却炉のある場所へゴミを車で運ぶためにだって相当のエネルギーがいるわけだから、そんなことをするくらいなら自分の家で燃やしたほうが本来は良いはずである。
そもそも、ダイオキシンの「環境ホルモン」作用で動物がメス化するだとか、家庭ゴミ焼却炉から出るダイオキシンで赤ん坊が死んでいる、などということが一時期よく騒がれていたけれども、それらはみんなウソであり、実はゴミを燃やして出るダイオキシンの量はそれ程多くはないことがわかっている。
ダイオキシンの量が増えた原因の大半は農薬であって(1960代後半から、1970年代末までに使われた水田の除草剤のペンタクロロフェノールやクロルニトロフェン中のダイオキシンが、分解速度が遅いためにその後も残存し続けているのである)、重大な健康被害を引き起こすような量のダイオキシンはゴミの焼却によっては生じないのである。
ハイテクの高級焼却炉というのはある意味で原子力発電所に 似ているようなところがある。
いったん稼動を止めてしまうと、再度、炉を高熱にするのにエネルギーがかかる。それでは効率が落ちてしまうから、そうならないためにずっと炉を稼動させてゴミを燃やし続ける必要があるのだ。
これは妙な話で、ゴミ処理を効率良くするために常にゴミがないと困ってしまうことになる。
ゴミを減らす 目的で作ったものなのにゴミがないとシステム上の効率が悪いからと、なんとしてもあちこちからゴミをかき集めてこなければならない、という変なことになってしまっているのである。
そんなにずっとエネルギーを大量に使って高熱を維持しているならば、場合によっては、その熱を別の 目的 に使うこともあっていいだろう。

ゴミ焼却炉と連動した温水プールがある例もあるようだけれども、私は、ハイテクの高級焼却炉でなら火力発電だってできるのではないかと思っている。
発電については後述するけれども、たとえばバイオ燃料 に比べても、ゴミからの発電の方が効率がいいはずである。なぜなら、それはただゴミを燃やすだけなのだから、生ゴミとペットボトルを混ぜて燃やせば充分発電ができると思う。
ハイテクの炉を稼動させるのにかなりのエネルギーと金がかかっているのなら、それを使って発電するぐらいのことは真面目に考えたほうが良い。

 

癌からの脱却が日本の最重要課題

金曜日, 3月 17th, 2017

社会の健全度の指標は犯罪率と自殺率というが、逆に社会の病気度で、死因率をみた方が確かに思える。

↑ 主要死因別にみた死亡率の年次推移(人口10万対)

平成27年には癌死亡者は38万人、死去した人の3人に一人である。

毎日1041人癌で亡くなっている。癌撲滅が政治にとっても、景気回復よりはるかに重要であり、癌撲滅が政治課題のトップにならないこと自体、社会は病気化している。金で命が買えるかのおような錯覚をし、命より金優先の病魔に侵されている。

癌は手術、放射線、化学療法とあるが、最新では免疫治療が最も注目されている。

癌の治療はその原因を追いかけることから始まる。

癌の原因は免疫力の低下

免疫力の低下は血流の悪さ

血流の悪さは交感神経と副交感神経のバランスが崩れ

交感神経が副交感神経より優位になりすぎが原因

 

つまり、癌の根本原因である交換神経と副交感神経バランスをよくすることで、癌は消えるか、また予防できることになる。

 

腱引きも、緩消法も、気血免疫療法も、みな副交感神経を上げて、交換神経のバランスをよくして、そこから自然治癒力(免疫力)を上げることであろう。そして、それらは癌予防にも、癌治療にも役立つともいえそうである

交換神経と副交感神経は

青色に見える神経が副交感神経。その奥に、ピンク色の交感神経の幹が見える。
その後ろに脊髄があり、交感神経幹と連絡している。

全身の神経図

全身の神経系

脊髄と神経図

自然治癒とNK細胞&免疫

金曜日, 3月 17th, 2017

免疫を高めるということ

NK細胞とは

ナチュラルキラー細胞のことで、自然な状態で体を守ってくれる細胞で、自然治癒させる細胞である。毎日一兆個の細胞ができるが、その内、できそこないの細胞が5000個もできる。そのできそこないの細胞を殺してしまうのがナチュラルキラー細胞で、外からのウイルスをやっつけることもする。

3つの影響を受ける

  1. 30代くらいから低下する
  2. 日内変動
    一日の生活リズムを崩すと低下する
  3. 精神の影響を受けやすく
    積極的な精神と、消極的な精神があるが、特に消極的な悲しいストレスにより下がる。

NK細胞の今後

  1. NKを元気にさせるには食べ物からの元気成分の抽出液で摂取
  2. 長生きするにはNK細胞の働きを高くする
  3. 病院の薬はNKが下がるのが多い
  4. NKは治療に使える

厚労省の年齢別死因トップをみると、

20~39歳 自殺がトップ

40~89歳 癌がトップ

若者が苦しみ、悲しみの心の影響が強くて、免疫が低下し、自殺に

熟年老人は生活のリズムが崩れ、生活習慣病から、免疫力が低下し、癌に

なりやすいともいえるかもしれない。

うつや自殺は副交感神経が優位すぎるために、

癌は交換神経が優位すぎるために、起きるともいえよう。

 

ツボの痛気持がなぜ効くのか?

金曜日, 3月 17th, 2017

忍者腱引きナイトの講演者の柳生流心眼流の伝承者島津氏が「痛い!と脳を刺激するのが良い」という言葉が印象的だが、どうして良いのか? そのメカニズムを調べてみた。

気血免疫療法

福田稔先生と新潟大学大学院の安保徹教授との共同研究によって、自律神経と免疫の関係を明らかにした「福田ー安保理論」に基づき、「人間の治癒力は気と血液に集約されている」原理から、福田稔医師が自律神経と血流のバランスを整え免疫を高める治療法として確立したのが『気血免疫療法』だ。

 

痛いというストレスを起こし、その反動を利用する

交感神経と副交感神経のバランスが良くなると

血流が良くなり、体温が上がり、免疫力UPし、病気などの症状改善する

副交感神経は手足指の爪の生えきわ2mmにあり、薬指だけは交換神経が通っている。

爪もみ効能

つむじ押し

大半の人が、頭部がうっ血しているのに対して、下半身には十分な血が通っていない。昔から「頭寒足熱」と言われるのは、まさに正鵠を射た表現で、頭部に滞留した血液と気を下に流してやることが、全身の血流を改善し、自律神経のバランスを整える最善の方法。

自分の指で頭のてっぺんから前後左右を探る。直径1センチほどのくぼみがあれば、そこがつむじ台風。
2つ以上のくぼみがある人もいるが、最も大きくて、押すと痛みを強く感じる場所を刺激する。
1.人差し指と中指(磁気針)をつむじ台風に当てて、心地よく感じるくらいの強さで、20回ほどリズミカルに押す。
2.図に示したように、つむじ台風を中心に広がる6本の線に沿って、指(磁気針)で刺激する。
つむじ台風から下バッド(下向き矢印)に向かって、少しずつずらしながら、刺激をしていく。
A1とA2、B1とB2、C1とC2というふうに、セットで行う。
途中で痛みを感じる場所があれば、そこは5回くらい、集中的に刺激するといい。

 

柔道の押さば引け

子供のころ、空手を習う兄の暴力に対してどう立ち向かうか?と問い続け、高校に入って柔道にその道を見出した。「柔よく剛を制す」として、相手の力を利用して投げる技の基本が「押さば引け、引かば押せ」である。三船十段がさらに発展させ、「押さば引き回せ、引かば押し回せ」として空気投げを見出した。

この指の圧迫による痛さ(交換神経)の反動・リバウンド(副交感神経)を利用して、副交感神経を優位をするのは、柔道の「押さば引け」によって痛みを転がせてしまう技のようだ。

ボクシングでも、軽いジョブを相手に打ち込んで刺激し怒らせ、相手が怒って、打ち込んでくるのを引き出し、待ってましたとばかりに、軽くかわしながら、クロスカウンターを打ち込むと、相手が殴る力とこちらが殴る力が合わさって、倍の威力で相手を打ち負かすことができる。

中国が尖閣諸島に軽いジョブを打って、日本が怒りだして、戦争を仕掛けてくるのを待ってましたというばかりに、一気に、尖閣諸島に乗り込み、奪い取ってしまう戦略でもある。

「痛み」を感じたところに手や指をあてると、

脳から、「痛み解消ホルモン」と「ハッピィホルモン」が出てきて、その部位に送られるので、その両ホルモンは緊張を解く副交感神経を活発にさせるともいえるだろう。

この副交感神経を活性化させる指刺激は強く過ぎも、弱すぎも効き目がなく、数秒間はちょっと痛いが、その後が気持ちいいくらいの痛みを与えるのが一番効き目がいい。

これは、小さな努力と軽い運動がストレス解消には最も効果があるようなものでもある。

 

愛と感謝って柔らかいボールに譬えられる

木曜日, 3月 16th, 2017

ボールの弾み方

硬さが違う三種のボールを硬いコンクリートと少し柔らかい土の地面に落とした時、

予想は地面が柔らくなれば、三種のボールはみな弾みが弱くなり、その弾み方はボールの硬さに正比例する。

だが、この予想はまったく外れ、正比例はしないし、反比例でもない。

唯一言えることは柔らかいボールほどよく弾むことだけである。地面の柔らかさに対してはボールは不可思議な弾み方をするので、捉えがたい。

 

「ボールの柔らかさ」は人の心の「愛の大きさ」に、弾んで返ってくるボールは「感謝の大きさ」に譬えることもできそうだ。

「愛を小さく」していくと、硬いボールは固い石になり、それは「憎しみや怒り」になる。石を地面に落とすと、ほとんど弾まず、割れたりする。地面も石も傷ついてしまう。憎しみや怒りから帰ってくるものは互いの痛みと傷である。

また、落とすボールまた投げるボールの相手が地面であれ、人間であれ、それを受け止める硬さはいろいろであるが、柔らかい愛のボールを投げるのであれば、どんな硬さの相手であっても、感謝がかえってくる。

硬い憎しみや怒りを投げつければ、相手が堅物であれば、互いに傷つき、相手が柔らかい愛情深ければ深いほど、憎しみや怒りが自分の方に何倍にも帰ってくる。

どのくらい返ってくるかは、お互いの愛情の大きさ加減で、不可思議な現象が起きるといえよう。

 

依存症からの脱却9/目的と手段をはき違える社会病

火曜日, 3月 14th, 2017

煙草やパチンコ、食べ過ぎ依存症の原因である「目的と手段のはき違え」は

社会の事業や政治にも応用できる

事業目的とその手段としての金儲けをはき違え、

政治目的とその手段としての権力をはき違え、

それらは金儲け依存症。権力依存症として、本来の事業目的・政治目的から退化していく社会病である。

大企業が本来の事業目的を放棄し、金儲けに依存し、お金の実体である「借金」に隷属して、他企業に事業の目的である魂も体も売り渡してしまう昨今も、

政府が本来の国民の命を守る目的を放棄し、財界権力に隷従して、経済目的を最優先する旗をあげて突き進んでいる現在の状況も、

政治も事業も その本来の目的は国民の命を守ることであるが、その手段である権力、その権力の手段である金儲けを、目的化させ、「国民の命」を手段化させた、権力と金儲け依存症による社会病である。

それは「国民の命を守る」目的から、どんどん退化して、「国民の命を破壊する」方向へと進んでいく。危険な原発ゴミを生産し続け、他国の戦争に加担する戦争と武器輸出を合法化し、「国民の命を守る」目的の憲法そのものを権力で改正して、「国民全体の命を守るために、一部の国民の命の犠牲もあり」という矛盾、「平和のための戦争あり」という矛盾は、「平和のための戦争は手段にはなり得ない」ことを「あり得る」という錯覚である

こういう錯覚は「多数意見は正しく、少数意見は間違い」というものである。それは「全国民の命は少数国民の命の犠牲で成り立っている」というのも同じ錯覚である。

生きるのに必要のない依存症に部類にそれらの社会病・錯覚が入る平和のための戦争は必要ないし、全国民の命を守るために少数の命を犠牲にする必要もない。多数意見を正しくするために少数意見を間違いとする必要もない。

生きるに必要のないものを目的化した依存症は麻薬中毒のように、そこからの脱却には大きな勇気と努力が必要になる。大きな勇気も大きな努力も、一人一人の小さな勇気と努力を合わせて、同じ目的の方向に力を合わせれば、できるものである。

政治本来の「国民の命を守る目的」を

金儲けとその手段の「景気回復」に目的化させてしまった

社会病・経済依存症の泥滑にはまり込んだ安倍自民党であ

依存症から脱却8/少しの努力

月曜日, 3月 13th, 2017

禁煙や禁パチンコが成功できた私だから、ダイエットも同じような努力をすればすぐ実現できると挑戦して、もう4年目だが、未だに成功するどころか、リバウンドでして退化しだしている。

それは食欲依存症は他の依存症とは根本的に違うから、同じ方法が通用しないどころか、同じ方法を試してしまうと、逆効果でリバウンドばかりではなく、より肥ってしまうのである。

食欲依存症と他の依存症の根本的違いは

煙草もギャンブルも、生きるのに必要のないものだが、食欲は生きるのに必要あるものである

煙草もギャンブルも、一本も吸わず、一度もしないという努力で、その依存症から脱出できるが、

肥満は一度も食べないでいれば、飢えて死んでしまう。断食を3日ばかりすればすぐ痩せるが、その努力の反動でより食べ過ぎてしまうため、逆により太ってしまうのである。ストレスはバネのようなもので、強いバネを圧するとより大きな反発力が生まれるからである。

肥満は食欲依存症というより、食べ過ぎ依存症と言い換えた方がより真実であろう。

食べ過ぎ依存症は相対的なバランスの問題であって、他の煙草やギャンブルは五次元の必要あるか、必要ないか、であり、それは0か1 であり、そして、1=All である。そのため、1本=数億本も同じであるから、それを認識してその依存症から脱出できる。

食べ過ぎ依存症は相反する力のバランスを 1 : 1にするのである。

食べたい欲求1:食べたくない欲求1 のバランスを調整する。いわば、筋肉の収縮1:弛緩1

自律神経の 交感神経1:副交感神経1 のバランスである。

これらの力のバランスは車のアクセルとブレーキに例えられる。

食べたい欲求はアクセル

食べたくない欲求はブレーキ

である。この両者の調整が食べ過ぎ依存症からの脱却である

 

今日も山登りをしてきた。

下山が苦手で、滑らないようにゆっくり下山するのだが、ブレーキをかけすぎて、軽快に降りられなく、また、急斜面は大きなブレーキをかけるので、足先と靴がぶつかりこすれて、指にすぐ靴擦れを起して痛くなり、その痛みを抑えるとさらにブレーキをかけるので、より苦痛が多くなる。

今日は靴擦れを起さないように地下足袋をし、下山をするときはなぜか軽快だった。いつもはブレーキを大きくかけて、できるだけゆっくり降りるのだが、今日は飛ぶように降りていくのはまるで鹿と同じような動きだった。

いつもと違うのは、重力だけに軽いブレーキをかけていたことだ。車でいえばエンジンブレーキであり、いつもはフットブレーキばかり使って下山していたことに気が付いた。

雪道でも、強いフットブレーキはよけい滑るので、エンジンブレーキの方が滑らない、また滑った場合、滑った方向にハンドルを向けるとブレーキがかかる。

これは下山する足のブレーキと同じで、エンジンブレーキのように、重力に対しての反発するだけの軽いブレーキ(体を支えるだけ)をかけ、しかも、足の回転を止めないで、滑りそうな方向にもう片方を足を運ばせてしまうと、もし、すべった場合、尻もちつかずに、前に進んだ足の方向に体重はいく、それも滑るとしても、もう片方の足は先に進んでいる。

まさに、雪道のエンジンブレーキと滑ったときのハンドル裁きと同じ下山方法なのである。

食べ過ぎにブレーキをかけるのも同じで、少しの努力(ストレス)のブレーキをかけて、けして大きな努力ストレスのブレーキをかけないことである。そして、食べる先の内容の方向に意識を飛ばしてしまい、目の前の食べ過ぎ内容にこだわらないことである。

 

エンジンブレーキに相対するのが、ゆっくり加速するアクセルである。急発進急ブレーキは事故の元といわれるように、ゆっくり加速すると、エンストのように失速しない。また、アクセルを踏まなくても、慣性また惰性で、動き続ける力に任せると、余分な筋力や心力を使わなくてすむ。

この動き続ける慣性力を使うのがエンジンブレーキの相対する。それを引き起こすのが少しの加速力(努力・ストレス)である。

慣性と惰性は物体の動き続ける、止まり続ける、同じ状態を保ちつづける力であるが、ほとんど差がないので、私は今後ややこしいので、次のように使うことにする。

慣性は動き続ける力

惰性は止まり続ける力

慣惰性は同じ状態を保ち続ける力

の三つの使用法とする。

エンジンブレーキは惰性力、エンジンアクセル(回転力)は慣性力となり、

自然力は慣惰性力と表現できる。

 

食べ過ぎ依存症からの脱出法

 

これは食べる時は少量をゆっくりと食べるのがエンジンアクセル

ダイエットは毎日少量だけ、長い日数をかけて減らすのがエンジンブレーキ

そのエンジンブレーキに切り替える少しの努力(ストレス)と

エンジンアクセルに切り替える少しの努力(健康意識力)で

食べ過ぎないように方向調整(ハンドル)していく。

これを少しの努力ダイエット法とでも名付けてみよう。

この「少しの努力法」は病気回復や予防法、体力作りにも応用できそうである。

肥満は病気の一種であるように、病気も必要以上また必要以下になってしまった慣惰性で凝り固まった血行不良の状態ともいえるので、その状態に少しの努力(ストレス)を繰り返すことで、血行回復、血行良好維持ができる。

もし、大きな努力したり、全く努力しない時は、その慣惰性で、凝り固まった状態を保とうとする力で依存症(わかっちゃいるけどやめられない/やればできると思うけどやらないでできない)となり、病気のまま脱却できなくなる。

少しの努力は少しの勇気を奮い起こして目覚める。

必要性のある依存症は少しの勇気と努力を

必要性のない依存症は大きな勇気と努力をすることで脱却できる。

 

依存症からの脱却4

水曜日, 3月 8th, 2017

昨日、峠道から胄山を登ってきた。山頂から岩場道へと、少し下山する時、行き止まりになり、道に迷ってしまった。

山道の案内のピンクリボンが周囲にあるのに、そこには道がない。なんとか道を探そうと急斜面を昇り降りするが、見つからない。

そこで、山頂に戻って、下山道があっているか確かめることにした。

そこに標識があったのだが・・

山頂の標識をずっと眺めていたら、道が二つしかないように見えたが、もう一つあることに気付いた。それば下山道で、行き止まりだったのは展望台への道だった。以前二度も登ったことがあるのに三度目に迷うとはいささか不思議だった。

山で迷ったら、尾根に登れとか、元の道を引き返せという鉄則は合っていたことになる。登山入口で地図があったが、山頂に三つの道があるとは気が付かなかった。それは登り道と下山道しかないという思い込みが迷わせた原因でもある。

迷い道からの脱出は依存症からの脱却に応用できる

登山の時、山頂は目的であり、そこに至る道は手段である。下山の時、我が家は目的であり、山頂からの下山道は手段である。

私は我が家への下山道を迷ったことになる。その迷いから抜け出すために、迷い道という手段をリセットして戻り、別な下山道という手段を選んでことで、無事我が家という目的に到着した。

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

目的を変えず、手段も変えないと絶滅(遭難)となり、

目的を変えず、手段を変えると進化(無事)となる。

そして、手段を変える場合は、迷った手段をリセットするために、その出発点まで戻らないと別な手段は見つからない。それが初心に帰って見つめ直すことで開路を見出すというのだろう。

私のダイエットはここ一年で徐々にリバウンドする迷い道にいる。このリバウンドはどうやらダイエット目的は変わらないが、ダイエット手段も変えないでいるために起きていると思える。リバウンドしない手段に切り替える必要がある。

そのためには、今までのダイエット法はリセットして、初心に帰り、新たなダイエット手段を見出してみることで、その開路を見出すことができそうである。