Archive for the ‘自然に生きる’ Category

夢か現実か?

水曜日, 8月 8th, 2018

こんな夢を見た。

^-^-^-^-^-^

買ったばかりの自転車であるところに行き、

つい鍵をかけずにそこから離れて用事をすました。

もどって、自転車に乗ったが・・

どうも自分の自転車と違う。

性能はそこそこいいのだが、ふと後輪をみると

鍵が壊されている。

そこで自分の新品の自転車を盗まれたことに気付いた。

腹が立つのは盗んだやつのことだけではなく、

どうして鍵を閉めなかったのかと、自分を責めたこともある。

あまりに自分の不用心にいらだちが隠せなかったが・・・

よくよく考えてみれば・・

自分が新しい自転車を買ったのか?

ひょっとして これは夢ではないのか?

現実的にはどうして古い自転車と入れ替わるのか?

新しい自転車なのにどうして鍵をかけずにその場を離れたのか?

もし、これが夢だったらつじつまがあう。

よし、夢ならリセットできるので、これはなかったことにしよう。

そうすれば腹がたたないだろう。

すると

目が覚め、そのいらだちが夢の中の事件だったことを知った。

^-^-^-^-^-^-^

夢とは仮定の話である

 

大橋教授が、医学はみな

「仮定の仮定を繰り返しているだけだ」

つまり、そこに真実はないという意味だが・・

私が自転車を買って、鍵をかけ忘れたという夢も仮定の話であり、

それが現実(本当)のことと思って、自分を責めていらだつのは実にストレスがたまる。

こういう悪夢のような夢は「もしも 自分がこうだったら」という仮定から空想されて、その喜怒哀楽で右往左往するようなものである。

大橋教授のいう仮定の仮定の繰り返しとは

夢のまた夢、そのまた夢を見ているようなことであろう。

ー^-^-^-^

「無いものを有る」また「在るものを無い」

   という信心もまた仮定である。

 

神という絶対的存在が無いものを有ると仮定するのが

まさに宗教である。その仮定(神が事実存在するならば)が信じるということである。

「信じよ、さらば救われん」

その仮定を信じれば救われるが、その仮定を信じなければ救われないという意味である。

それはその夢を本当と信ずれば救われるが、その夢が本当でなければ救われない。

宗教を信じるものにとって、その信心の中で、喜怒哀楽、奇跡や悪魔までみるのはまさに夢の中で右往左往するようなものである、

私はいくつかの宗教を信じてきたが・・結局、私が救われたと感じたのはその宗教から脱却したときである。

つまり、仮定の夢から本当の現実に目覚めたときである。

ー^-^-^-^-^

トラウマもまた仮定の夢からくる悩みである

 

ずいぶん昔経験したことを、今はそれを経験していないのに

同じ経験をしているような仮定としての夢をみる。

その昔の仮定で、夢をみて悩むのである。

ー^-^-^-^

宝くじも仮定の夢の話である

 

もしも、宝くじが当たったらという仮定を空想し楽しむ自分ドラマである。

ほとんどの映画やドラマはみな仮定の仮定を繰り返す空想を楽しむようなものである。

ー^-^-^-^

医学が仮定の仮定をしているだけならそれは宗教と同じである。

 

免疫学の専門家の大橋教授は医学は現代の新興宗教であるとも言い切っている。

特にそれは癌について如実に現れるようだ。

検査技師が癌細胞を顕微鏡でみて、それがヘンテコな姿をした細胞ならは悪性の癌細胞、ヘンテコでない細胞なら癌細胞ではないと仮定し、その癌細胞を実際に、増殖するか、転移するか 実験検証せずに医者につけ、医者はそれを癌細胞と仮定して、患者に、

「このまま放置すれば何か月の命です」

と占う。

つまり、検査技師も、「ヘンテコな細胞」を検証なしに「悪性癌」として、信じ、その意志の言葉を信じた患者がまさに仮定の癌で、占いの数か月の命を信じる、まさに宗教的占いと抗がん剤・放射線・手術の高額医療詐欺を行うようなものである。

今の科学技術では

「ヘンテコな細胞」が増殖するか転移するか、ネズミのモルモットで実験検証しないとできないが、人間とネズミとは違う細胞なので、その実験検証はできない。

また、シャーレで、「ヘンテコな細胞」を培養しても、それはみな増殖しないので、確かめようがない。体内では悪性細胞も、良性細胞も、増殖するので、増殖するだけでは悪性か良性かは判断できない。

問題はそれが転移するかどうかである。

どの転移が、その「ヘンテコな細胞」を切り取ったり、放射線を当てたり、抗がん剤を塗ったりしたら、転移しないか? というのではなく、むしろ、転移を増長させることにもなるかはまた不明である。

しかし、

アレルギーや虫刺さされで、発疹したところを掻けば掻くほど、それが化膿したり、広がったりすることはよく経験することでもある。

まして、

「ヘンテコな細胞」が良性だったら、そうした手術・放射線・抗がん剤によって、いじりすぎて、よけい化膿、転移、免疫力をなくしてしまうことだってありえる。

つまり、

今の癌治療は

「ヘンテコな細胞」を悪性癌として仮定夢で、なんとか治そうと必死になってあがいているようなものだともいえる。

だが、

その「ヘンテコな細胞」が悪性癌でなく、良性癌で、自然に消えるか転移しないものが現実である可能性はある。

だからこそ、

検査技師と医者の仮定を信じるか、信じないかで、そのドラマは大きく変わる。

だからこそ、

検査技師や医者のような他人のいうことをそのまま信じないで、

そのヘンテコな細胞が悪性か良性かの判断基準が検証できないことをまず知ることは夢から現実に目覚めることでもある。

そして、

自分が納得いくような道を自然の姿に照らし合わせて、他人の悪夢や占い医者に迷わされないで、自分の健康を守るようにしていきたいものである。

ー^-^-^-^

その仮定である夢に迷わされず、

しっかりと

この現実を味わいながら生きていきたいものである。

 

奇跡とは自分らしく生きること

日曜日, 8月 5th, 2018

奇跡を求めるということ

奇跡はそれを求めて得られるというものではない。

疑問に思うことがあると、

その答えを見出した時に、

それが奇跡だと気づく。

それは

この世の奇跡に気づくことが

求めるということである。

それが知るということである。

つまり

奇跡に気付くことが知るということだ。

0-^0-^0-^

奇跡詐欺商法

少年のころは

サンタクロースの話を本当だと信じてしまう。

そうした奇跡的な話を求めたり、信じてしまうのは少年少女の特徴だろう。

また、

祖父から地獄の話とその絵を見て、それが本当だとつい信じ込んでしまい、

怖くてたまらなかったこともそうだろう。

最近、オーム真理教の教祖とその信徒13名が死刑になったが、

この教祖の麻原は私よりも5歳下である。

私が中学高校時代には奇跡や悟りを求める風潮があった。

麻原が空中浮遊というジャンプした写真トリックを奇跡として

あたかも、麻原が神か仏のような力と悟りを得た者のように信じ込ませる

宗教詐欺に青年たちはコロッと騙されて入信し、金を分捕られてしまう。

超能力とか超常現象とかに興味津々で、それが起こせる人を神か仏として、

あがめ、その人のいいなりになってしまい、けして教祖を疑おうとはしない。

こうした詐欺は言葉をうまくあやつることで、

相手に信用させ、お金をまきあげる詐欺商法のオレオレ詐欺と同類でもある。

投資で、簡単に儲かる話にひっかかるのも、これまた人が奇跡的な物事を求める特徴があるからだろう。

こうした奇跡詐欺を信じ込みやすいのは少年少女だけでなく、

オレオレ詐欺のように愛情が強い年寄りにもいえそうで、年齢的なことより、むしろ奇跡的なことをどうとらえるか?で、騙されるか、騙されないか?の道が分かれそうである。

ー^-^-^-^^

 

奇跡も事実も確率的事象

奇跡とは確率的に非常に少ないことの総称であろう。

ギャンブルというのも確率でもっともシンプルななのは丁半の確率50%で。

科学的事実というのは100&ではない、95%あればほぼ確実として通るようなものである。

では地味な仕事はどうか?

それも100%の推測通りのお金が入るとは限らない。

この世あの世にも絶対的な100%の事象はありえないし、それは絶対的な神仏は存在しないともいえ、すべてを知る悟りなども到達できないことも、そういえる。

ー^-^-^-^-^

生まれた自我こそ奇跡

この世に生まれ(=あの世から生まれ)

この世の事象を見る自我は

この世の世界の窓ともいえるもので、

その自我こそ、確率的には奇跡以上の超奇跡みたいな存在である。

その超奇跡的な自我を持つ故に、

人は奇跡的なことを信じ、奇跡的なことを求めていくのだろう。

その特質は奇跡的な命をもらった自我にはけして変えられないだろう。

けれど 人は他人に

なんども騙され、なんども信じては裏切られていくと、

すぐ信じ込まないで、まず疑ってかかる用意周到な知恵を持つ。

そして

どんな物事も自分が納得いくまで確かめてから決断して行動するようになってくる。

その検証と決行を繰り返ししていくとあることに気付かされる。

それは

リセットのようなもので、

常に振り出しに戻されて、自分自身の姿をその奇跡的な存在を改めて気づかされる。

それは疑問に思っていたことが解るということは

追い求めていたものが自分自身の中、自分自身の姿に気付かされること。

奇跡も、悟りも、この自我の姿・自我の中にあることだ。

例えば

陸稲を8年も自然栽培しようとあれやこれや実験してきたが

陸稲栽培は自分の畑では不自然で不向きであるとして諦めた。

そして、

主食という稲という常識的観念から抜け出て、自分が本当に望んでいた畑の姿が、

自然栽培で、いろいろな野菜や穀物を作ることであったことを知る。

イネだけではなかったのだ。

それを知ったのは、稲というものを追いかけて、自分の本当の欲望に気付かされたからだ。

自我という命は生物多様性と人間多種性に支えられていることを気付かされる。

それまで求め続けていた自給自足、主食の自然農法という妄想から脱却できたということである。

ー^-^-^-^-^

つまり

 

奇跡とは自分らしく生きることである

 

 

 

ダイエットは終わりなき旅

土曜日, 8月 4th, 2018

ダイエットを志してもう4年になる。

なんどもリバウンドとリダイエットを繰り返す日々であるが・・

昨年、偶然にも楽にリダイエットできた。

一日だけ断食して、それでダイエットする意欲を強め、その流れで体重計を眺めながら

減ったら、そのままの運動と食事を続け、減らなかったら半分に食事を減らすというようなことをしたら、目標体重まであっさりと1か月で5キロ痩せられた。

だが、それもリバウンドまでは1か月後にもとの体重に戻る。

それから、同じような方法や、モノを買わない方法を試したが、体重はほとんど変化なし。

そこで、二か月前から、月初めには断食dayを設けて、二度ばかりリダイエットを挑戦したが、やはり体重は変化なし。

三度めの8月1日に、断食dayを設けたが、完璧にはできず、未だに体重も体脂肪も変化なし。

でも、

ダイエットの挑戦を一生涯かけてやっていくと決めていたので、

むしろ、ダイエットを挑戦するときに、いろいろな考えが生まれてくるのがけっこう楽しいものである。

今回はこんなダイエット考である。

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食事は薬、食べ過ぎると毒になる。

甘いもの、美味しいもの、刺激性のあるものは習慣性を持ち、

煙草や酒と同じ中毒にもなりやすく、刺激を受けないと我慢できなくなる。

いわば

刺激依存症になり、麻薬と同じで、肥満から多種な病気になり、寿命を縮める。

麻薬中毒を治すのと同じで、ある期間、その刺激を与えなければ、その中毒から解放される。

断食も同じで、最初はつらいけども、続けると食べなくても楽になってくる。

だが、

麻薬と食事の違いは

麻薬がなくても生きられるが、食事をしないと生きられない。

断食しても、そう永くは続けられない。

私はそのストレスが大きくなり、蕁麻疹やアレルギーがでてこまり中止することが二回ほどあった。

麻薬から解放されても、また麻薬に手を出したら、もっとひどい麻薬中毒患者になる。

それは飲まなくても生きられる煙草でも酒でも、ギャンブルでも同じである。

食事は食べなくては生きられない。

そのため、ダイエットに成功しても、以前と同じ好きな食べ物を一口でも食べてしまったら、リバウンドをしてしまう。

反動ストレスで、以前よりももっと肥満になってしまう。

この麻薬ジレンマから抜け出すにはどうしたらいいのだろうか?

それが刺激性依存症が麻薬でも食事でもいえることで、薬物依存症である。

肥満は刺激依存症

 

食事の中で、刺激性のあるもの、旨すぎて食べ過ぎてしまうもの、つい癖になりやすいもの

中毒性になりやすい食物と飲料を摂取しないで、ちょっと食べて満足できる食物だけを選んで食べ、

それを好きになればいい。

いわば、好きな食物を変えればいい。甘いものが好きだったら、甘くないものや甘すぎないものを好きになるようにすればいい。

どうしても毎日食べたくなる飲みたくなるものは控えて、それらがなくても食事が楽しめる食事に変更していけばいいのではないか。

刺激旨いもの依存症からの解放を目指して次のダイエットに挑戦してみたいと思う。

麻薬からの解放が大変のように、そうした大変さは覚悟してかからないと挫折してしまうだろう。

さてさて、

ダイエットは一生もの、挑戦も楽しみながらやっていこう。

失敗の原因をなんども追及していけばいつしか健康的な生活を楽しめるようになれそうだ。

人が考えられることはあり得るが・・

金曜日, 8月 3rd, 2018

4月初めに麦間に陸稲の蕎麦の種を播き、

7月に麦を収穫せずに、

陸稲と蕎麦が芽を出し、

雑草のように自然交代することを理想として試みた。

だが、麦間には雑草だけが生えたので、それを一度は抜き、

陸稲と蕎麦の芽が出ることを期待したが・・

3週間後は麦間の雑草は1mにもなっていた。

その雑草を抜き立った後に、200坪の麦畑に播いた20キロの陸稲のうち3粒の種が芽を出していた。

2018.8.3

2018.8.3

100万分の1の確率で理想論が実現していたことになる。

だが、その奇跡的な理想論も、1mの雑草を抜き取り、水揚げし、また生える雑草を抜きとらない限り、消えゆく運命である。

50坪の畑に4月初めに蕎麦と陸稲の種を播いたものは、

6月には陸稲は光が入る部分には10センチほど伸びたが、8月初めにはその陸稲の芽は蕎麦が実りきらずに、ほとんど消え去っていった。わずか一万分の1の確率で、陸稲の芽が生きているのを発見した。

蕎麦の下に残る陸稲の芽

万が一の確率で陸稲の芽が残るが生き残れるか??

その蕎麦下の陸稲の芽も消え去る日は近いだろう。

もし、生き残らせるには周りの蕎麦と雑草を刈り、毎日水やりをすればなんとか生き残れるだろうが・・それだけの手間と犠牲をするだけの価値がそこにあるだろうか?

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多くの理想論がそうだが・・・

あのマルクスの資本主義を修正しようとした共産思想にもいえるだろうが・・・

およそ人が論理的に考えられることはあり得るが、それが実現できる確率は奇跡的な一兆分の1にすぎないことが多いのではないだろうか。

その奇跡的な確率で、突然変異した理想論の稲をなんとか実現させようと必死になっているのが、品種改良であり、遺伝子組み換えであり、ゲノム編集であろう。

共産主義から生まれた国も資本主義の容認する品種改良しながら共産党理想を残しているのもそうだろう。

また、

そうした理想論を必死で追いかけることは

生まれる前にダウン症などの病気が解った時点で流産させるという行為にもつながってくる。

それは二年前に起きた障碍者殺傷事件は意志の疎通ができない障碍者は殺した方が良いという考え方にもつながってくる理想論である。

こうした理想論の根拠になっているのは

その人類の、その人間の、その社会の、その個人の・・エゴからくるものではないかを

問い直してみる必要がある。

その理想を実現するために、

理想的な稲の芽を伸ばすために、多くの蕎麦と雑草の命を、人の労力と金と情熱を犠牲にしていいのか?

また、多くの今の障害者の命を犠牲にしてまで、障害者のいない社会を築こうとしていいのか?

共産主義革命で、どれだけの多くの人が犠牲になったか? そんな犠牲にしてまで共産革命に意味があるのか?

あのオーム真理教もそうだが、理想の国家を築こうと、誰構わず大量に殺していいのか?

歴史的にみても

理想論は人類の、国も、社会の、個人のエゴから実現させようとしていることが多い、

0-^0-^0-^^

理想とか夢とか追い求める前に

その欲望らが、

生物多様性の自然において・・自然の倫理に合っているか?

 

 

自然と欲望を照らし合わせて・・

その理想という欲望をよくよく吟味して

それがエゴなら「諦めが肝心」であり、

けして、「ネバーギブアップ」するなである。

だが、その理想・欲望・夢が自然に合致するなら、

「Never give up」であろうし、「夢は必ず叶う」し、

それに対して努力しても、しなくても、

自然が味方するのだから、その理想は実現するといえるだろう。

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いろいろな考え方がある

それらは考えられる限りあり得るだろう。

「火がないところには煙が立たぬ」

という一面だってあることだから。

しかし、

我々の思考は宇宙の果てでも、何億年前でも後でも飛ばすことができるように

それが実現するということは一瞬で一部ありえるだろうか・・そう永く実現できるものでもない。

縄文時代のように、

その生活がより自然にあっていれば一万年も持続可能であろうし、

その生活が不自然であれば、現代生活は数百年で終わりを告げるだろうと思える。

 

余談・・

 

 

二日後

蕎麦を押しのけるように生えた引っ付き虫(コモセンダン草)が繁茂していたのを根っ子ごと引き抜いたら、そこに線播きした陸稲が7センチほど芽を出していた。

この場所は雑草地で、石ころだらけで、耕耘していない荒地である。

だが、畑よりはるかに雑草地の方が稲が芽を出したとはびっくりした。

しかも、蕎麦下よりも、引っ付き虫の下の方がよく芽を伸ばしていたのである。

それから推測すると

日当たりがよい場所なので、稲は水分よりも太陽の光を必要とする。

また、蕎麦よりも、引っ付き虫の種類の方が稲との相性がいいのだろう。

もちろん、

引っ付き虫を抜き取らねば、稲は消え去る運命ではあるが・・・

 

多数決という集団暴力

木曜日, 8月 2nd, 2018

多数決で決められないことがある。

それは命に関することである。

人の命を人が決めることはできない。

その人が自己であれ、他人であれ、

人が創った国であれ、国連であれ、

法であれ、神であれ、人の命を決められない。

命の問題を唯一決められるのは

自然だけである。

 

自然は神ではない。

人間の求める宗教の神や悟りではない。

人間の命は自然に創られた存在であるからだ。

創られた命が同じ創られた命を決定し、

その人の生死の判断を決定していいのだろうか?

それができるのは人の命が創りまた壊すことができる自然だけであろう。

それを創られた者同士がその命を創り壊そうとすることは

単なるエゴのオゴリによる妄想であり、不自然なことをしようとするから迷う

迷って、止む無く多数決で決めようとする。

それは単なる多数の暴力でしかない。

 

民主主義は国民が主人であるのに、国という多数決集団が主人である国民を支配し、その命を決定しようとするのは似非民主主義であろう。

一個の国民も、一個の国も同じ命の重さをもった存在であるというのが民主主義である。

それを多数の国民が、少数の国民の命を支配し、その生死を決定していいのだろうか?

それは集団暴力となんら変わりがない。

 

そうした自然から作られた人の命として判断すると

戦争による殺人、死刑も 人間のオゴリであり、

それは殺人、自殺、自爆テロと変わりない行為であろう。

自分が創造主のような神や悟った仏になったような教祖や信徒や政治家が

その人を救うという名目で、殺しを正当化する事件は後を絶たない。

 

もし、創られた人が多数決でも人の命を決定してはならないという自然法が

世界で承認され、一人1人の意識に働きかけたなら、世界はもっと平和になり、

自然にあった生活ができるように思える。

 

この地球自然を人類だけが支配し、他の生物の命を決定することさえも、

人類のオゴリであり、不自然である。

人類の命も生物の多様性の一歯車にすぎないことを自然は証明している。

 

弱肉強食という一様にみるのではなく生物共存と多様にみるのが自然

 

縄文の多様性が現代人をうならせる

火曜日, 7月 31st, 2018

松形恭知陶工から

日展トークインで話していた縄文早期の土器の写真を送ってきた。

宮崎市田野町で出土した縄文早期の貝文方形土器

彼曰く

「縄文土器というとすぐに火焔土器を思い浮かべますが、

実際には一口に縄文土器と言っても、本当に多様なものではないかと感じます。
縄文時代は約1万年続きますから、その時期によって、
そして、今にようなグローバルな時代ではありませんので、その地域によって、
縄文土器の様式は大きく異なります。
南九州の縄文土器は、縄目模様より、貝殻で文様をつけたものが多く、
貝文土器といった方がよいかもしれません。
そんな多様性が、縄文土器の特色でもあると同時に、
現代人をもうならせる普遍的な力を持つような気がします。」
この貝文方形縄文土器の存在は、上野の縄文展には一つも展示されていなかった。
主に、北方に出土したものが中心で、火焔土器が中心だった。
シベリアから樺太をとおって日本に来た縄文人と、台湾から沖縄から九州に来た南貝文人の二種あってそれらがその土地土地で、独自に発展し、多様な文化を形成したという発見は
どうして縄貝文人は一万年の文化文明を築いたのが?
その多様性を認めた文化だからこそだと、松形陶工の美の視点からの指摘で分かってきた。

遺跡で見る宮崎の歩み(旧石器~弥生)

でみると、火山の噴火と貝塚の生活が基本になっているように思える。

縄貝文土器はみな底が小さく安定性が悪いし、中には底が尖った土器さえある、

貝がらのふちを押)しつけて文様をつけた尖底深鉢形土器
/ 函館市中野A遺跡

こうした縄貝文人は、海水を煮だして塩をとるために、砂浜に土器を埋め、その周りで薪を燃やしたのだろうと思える。

いわば縄文製塩土器だ

宮城県里浜貝塚出土製塩土器2500年前

では、塩を煮だしたり、また貝を煮たりしたとき、

それを杓子で取り出しときは丸い形がいいが、

もし、貝のスープなどをたくさんの人の茶碗に配るなら、方形の取り出し口が急須型がいい、

前原遺跡出土土器~鹿児島県の国重要文化財~

貝殻文角筒土器

レモン型土器

上野原遺跡では

上野原遺跡9500年前

鹿児島県歴史資料センター黎明館

 

こうした貝文方形土器は縄文火焔土器より、より現代的なセンスがあるように思える。

縄文土器の方が多数派で、貝文土器は少数派だったのだろうが、

過去の少数派は現代の多数派になることが歴史上多くある。

縄文時代の少数派の文化をみないと、一万年も続いた文化を理解できなかった気がする。

多様性が文化を 文明を 永く繁栄させるというのは

現代の政治でも、なんでも多数決で決めてしまう。

それは多数の横暴であり、集団暴力であろう。

多数決で決まられないものがある。

それは命であり、美であり、幸せでもある。

それは新しいものがよいとか、進歩した方がいいとかは一概にいえないことが多様性として柔軟で平和的な生活があるように思える。

 

稲思考から自他共存生活に

月曜日, 7月 30th, 2018

陸稲栽培を8年模索してきたが、

蕎麦と陸稲による実験を契機に諦めた。

5年目には水稲と同じように苗を育て、マルチシートで雑草対策をして、植えるときには水をたっぷり与え、梅雨時に植え付けを完了させて成功した。

陸稲5年目にマルチと苗植えで成功した

だが、苗作り、苗植え、水揚げがかなりの手間が必要であり、マルチシートのコストも高く、毎年行うのは老人1人では無理である。また、自然に育てる農法とはいいがたい。

苗を作らず、直播で、しかも、マルチシートの代わりに蕎麦を播くという方法を試したが、今年失敗した。

稲は光と水がたくさん必要で、蕎麦の下では育ちにくいので、光が入る端でしか芽がでない。

また、稲は元来水辺に生えるもので、いくら品種改良して畑でも栽培できる陸稲の種を作っても、雨水だけでは生育できないことが、今回の実験でよくわかった。

それに、蕎麦の下に生えるのは、雑草も同じで、しかも雑草は雨水だけで十分大きく育つので、10センチくらい6月にのびた陸稲も、もっと大きく育つ7月の雑草に殺されてしまう。

蕎麦下の雑草と陸稲は半々で芽生えている

まして、

古代麦が枯れて、陸稲の芽が伸びるという理想で、麦と麦の間に、蕎麦をばらまき、陸稲を線播きしたが、蕎麦は5%くらいのびたが、陸稲は100% 7月には芽が出ない。

結局、麦と麦の間は雑草が大きく繁茂してしまったのである。

4月初めに播いた蕎麦10キロと稲20キロはほとんど無駄だったことになる。

麦間に雑草だけが大きくそだってきた7月

雑草抜きをすれば、陸稲が芽をでるかと思い、二度きれいに雑草を根っこから引き抜いたが、ほとんど陸稲は芽を出さなかった。蕎麦だけがいくらか芽をだしていた。

そこで、雑草を抜き取ると同時に、夏に種まく作物を手あたり次第播いて、雑草に負けない作物を探すことにした。

ともあれ、陸稲は8年で終止符を打った。

稲の原産地

イネは、中国南部の雲南(うんなん)~ラオス、タイ、ビルマ周辺に広がる山岳地帯で生まれた

暖かい地域の山岳地帯で、雪解け水が豊富で、昼と夜の寒暖の差が大きいことがよく実を結ぶようだ。

その理由

なぜ、「昼と夜の温度差が大きい地方では、良い作物が採れる」の?

昼と夜の温度差(寒暖差)が大きい地方では、果実にしろ穀物にしろ、美味しいものが採れる。
その理由は、光合成と呼吸の関係に由来している。

昼間、光合成によって炭水化物が作られる。
夜になると光合成はできない。
その夜でも、植物は炭水化物を分化して糖を作り、それを使って呼吸活動をしている。
夜に気温がぐっと下がると、呼吸活動が抑えられる。
つまり、炭水化物の消耗が抑えられるのだ。
すると、作物体内の炭水化物蓄積量が温存される。
要するに、「夜が寒いと、炭水化物の損失が少なくなるため、作物全体の成育および果実に回る栄養が損なわれない」ということだ。
昼間、どんなに好天でたくさん光合成をしたとしても、夜が暑ければ、そのほとんどを消耗してしまうのだ。

熱帯性の植物である米がなぜ日本の北で大量生産されているんでしょうか

イネの栽培種にはアフリカイネ とアジアイネ があり、アジアイネはさらに生態型によってインディカおよびジャポニカに分類される。ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ)に分けられる。

コメの世界の生産量消費量は?

日本はかなり少ない

日本の国内では?

熱帯のジャポニカの栽培で、最もすばらしいのは 生産量が中国インドにつぐ三番目のインドネシアの

稲の二毛作また三毛作できる棚田がバリの山岳地にある

 

うちは棚田ではなく、水がなく、水はけがいいので、棚畑である。

その土地と気候にあった作物を選ぶことが、まず自然農法の一番の基本であろう。

それはまた、持続可能な農業の基本でもあろう。

やたら、稲作りにこだわりすぎたのは自給自足ということを目標にし、

主食がコメであるというのがあったからだろう。

自給自足は人間の生活だけでなく、植物でもそういえるもので、その土地と気候にあった生き方をすることで、そこで生きられる力を得るということであろう。

そこの土地でしかない特産物があってこそ、他ではできないからこそ、価値がある生き方農業であり、それが他地域の特産と交易することができるというのが、自給自足というより、自他共存できる生活ということであろう。

それは自他が平等に交流しあう関係こそ、ともに生きられる環境づくりといえるのだろう。

 

縄文人が師匠

水曜日, 7月 25th, 2018

新宿高校のクラスの友人の松形恭知陶工の縄文の見識が私と同じであることをハガキで教えてもらった。

彼が1万年前の縄文土器を友人に見せたとき、

「随分作風がモダンになったな」と言われたそうで、そこから、縄文の工芸が少しも進化していないどころか、むしろ縄文の方が進化していたと感じて、縄文人が自分の師匠だと言う。

彼が住む宮崎県東諸県郡国富町は縄文土器が出土した

松元遺跡、井手口遺跡、塚原遺跡

であり、そうした1万年もの縁を感じている。

彼が国展のトークインで見せたものが宮崎で出土したものかな?

と思ったら

出土で近いものは

松元遺跡、井手口遺跡、塚原遺跡

彼が示した縄文前期の土器でネットで調べたが・・それに近いの

 

 

販売価格が18万円というのだから、ひょっとして彼はそれを自分で所蔵しているのかもしれない。

激しい火炎土器だと縄文とわかってしまうが、このくらい優しい火炎風土器だと確かにモダンである。

漆をぬれば、さらにモダンになる。

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縄文人のルーツを遺伝子から調べている人がいた。

日本人の遺伝子とイネの遺伝子を解析する(序論)

縄文人は陸続きだったシベリアから、また、台湾から沖縄から九州に船で渡ってきた様子がこの遺伝子解析や土器の分布からもわかる。

私が住む山梨でも多くの縄文土器が発見されているので、そういった関心が高いことも、縄文人のハートを受け継いでいるのかもしれない。

こうなると、超モダンな縄文土器になる。

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縄文の15000年前から現代まで進化したのではなく、退化しているのではないか??

科学技術の発展をもって進化しているか?といえるのだろうか。

人の心が平和的になってくるのを進化とすれば・・退化しているのもいえるのでないか?

縄文の後期に

祈る埴輪が登場する。たぶん、戦争が絶えなかったのだろう。平和を願う祈りがあったのだろう。

戦争が激しくなって縄文時代は終わったのではないかと想像できたりする。

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アーミッシュ(英語: Amish[2]、ドイツ語: Amische[3])は、

アメリカ合衆国のペンシルベニア州・中西部などやカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民(ペンシルベニア・ダッチも含まれる)の宗教集団である。

移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られる。原郷はスイス、アルザス、シュワーベンなど。人口は20万人以上いるとされている。

進化も進歩も

過ぎたるは及ばざるが如し

といえるのではないか?

ほどほどに

欲をかくことなく、明日を生きるのではなく、今を生きるということで、

1万円も続いた縄文前期の時代の生活にリセットして、

そこから、平和な心でこの現代を見つめなおすことの方がほんとうの意味での進歩っていえるのではないだろうか?

 

その事実より、どう捉え、どう生きるかが重要

月曜日, 7月 23rd, 2018

物事を判断する上で、

特に科学においては、事実を組み立てていく知識であるし、

裁判でも、証拠としての事実が最も大きな基本となる。

社会において、こうした事実は

物事の結果として捉えられる。

だが、その結果の原因を追究することも大事であるが、

その追及そのものがほとんど中途で終わって結果だけをみて判断されてしまう。

平成28年7月26日の障碍者施設でその看護人が入所者46人が刺され、障碍者19人が亡くなった事件で、

逮捕された元職員が語った。

「障碍者は不幸を作ることしかできません」

彼もまた「障碍者を事実としての結果」で判断している。

妹の障碍者亜由美の看護ドキュメンタリーを撮影するNHK青森でディレクターもまた

「障碍者を事実としての結果」として「障碍者は幸福を作ることができる」とそれを証明している。

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障碍者という事実に対して

それが最も大事であるとしたら・・

どうして人によって、その事実から「不幸」とか「幸福」という正反対な考え方が出てくるのだろう?

そこから見えてくるのは

事実としての結果ではなく

その事実をどうとらえるか?

ということの方がより重要ではないか?

ということである。

障碍者の亜由美と双子の学生もまた別なとらえ方をしている。

障碍者はその家族より社会が責任をもって看護すべきとして

障碍者は「幸でも不幸でもなく、社会的病人」としてみている。

18分のところで、女房が語る

「主人が何をしたのが大事ではなく、何のためにそうしたかが大事である。でくの坊には判らないと思いますが」

つまり、

その結果としての事実よりも、その原因となる事実の方がより重要だととらえる。

障碍者は一種の病気としてとらえることもできるが・・

病気も、健康も、一時の結果としての事実としてとらえることができる。

だが、その事実としての結果になる原因が何か探ることは難しい。

そうした結果よりも原因の方が大事としても、それを判明させるのが至難の技なのである。

となれば・・・

簡単にわかる結果としての事実、

その事実の原因がわかる難しさ・・

それからいえることは?

その結果としての病気や健康という事実を人それぞれがどうとらえるか?

それが最も大事ではないか!

ということになる。

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どんな結果も原因としての事実も、一瞬の出来事である。それが絶対的に持続することはありえない。

生々流転の事実と現実からすれば、

その事実としての結果も原因も重要ではなく、

その事実を人一人がどうとらえるか?!が重要であり、

それは「どんなことをしたか?」

というよりも、

「どう生きたか?」

という過程が重要であって、「結果や原因としての事実」ではない。

健康や病気や障害は一時の流れゆく事実であり、

大事なのはそれらの事実の前の生き方過程にある。

健康者でも、病人でも、健康であろうと努力していく生き方が重要である。

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ダイエットは目標体重がクリアしたら終了ではない。

ダイエットは一生涯 健康であろうとする意識と努力が重要であり、その結果が健康であろうと病気であろうと、障碍者であろうとそれは問題ではない。

 

その事実より

その事実をどう捉え

自分がどう生きるか?!

が重要である!

 

人間的な組織とはピラミッドではなく地球型

日曜日, 7月 22nd, 2018

組織の参照単位は家族で

その構成は平均的に祖父祖母・父母・兄弟姉妹で、6人

それが家長のような1人が絶対的権力を持っていると

家族の接待権力者がいる6人家族構造

人間の骨組みは固い骨と、柔らかい筋肉で、柔軟に動くようにできている。

固い骨に伸びる筋肉と縮み筋肉がついて自由に動ける

人間の眼は左右の2つ、耳、足も2つで、左右のバランスをとるように感じ動く。

人間関係も、そのコミュニケーションにおいては矛盾する正反の談話で進み決断されていく。

6人家族の団らんする平等な構造は

6人家族で平等な団らんは地球型構造

もし、6人家族が5組の30人社会組織を作ろうとした場合、

絶対的権力構造のピラミッド組織では6人×4組=24人になり、6人1組は外れてしまう。

6人家族4組の24人組織になり、もし12体12となった場合絶対権力者が決められる

1組の6人家族は省かれ、社会の一員とはなれなくなる。

それは4組だと組織絶対決定人が2対2になり、民主的決定はできないので、絶対的権力者1人に決定権があって初めて治められる。

しかし、

6人家族5組30人の柔軟な地球型組織の場合

6人家族5組30人の地球型受難組織はどのメンバーにも決定権がある

しかも、6人家族はそれぞれ別な家族とのつながりがあり、家族の内外において平等であり、それぞれが決定でき、その時々で自由に動け柔軟組織である。

どの家族も、どのメンバーも、その組織から省かれることもない。

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現代の世の中はお金が法的に絶対的権力を握っているが

そのお金の仕組みが中央銀行発行から市中銀行への貸金から始まり、ピラミッド構造になっている。

お金を多く持つ人が持たない人を支配している。

だが、

ビッドコインなどの仮想通貨は

ブロックチェーンで、中央銀行を必要としない、平等構造を持つ地球型である。

今の仮想通貨は投資して金儲けするためのお金であるが、

中央銀行がその支店のような市中銀行に貸し出すシステムではなく、

仮想通貨の発行者が全国民にまず貸し出すシステムにすれば、まちがいなく地球型で平等なお金の循環が血液のように行われるだろう。

その組織が人間味あふれるかどうかは、その構造が柔軟な地球型か、

また、生活の基盤となるお金が平等にまず配られるかどうかで判断できるものである。