Archive for 11月, 2012

アクセルの日銀券とブレーキの税付きマネー

火曜日, 11月 27th, 2012

 現在の日銀券ではその多くの所有者である資産家が投資(貸金)することで、儲けられるシステムであるから、必然的に自由市場においては格差はどんどん拡大することになり、金持ちが貧乏人を支配する社会を構築することになる。

 格差を是正できる新マネーが必要であり、それは税付き電子マネーである。日銀券は資本主義・自由主義で動くが、税付き電子マネーではそれを是正するための人道主義・社会主義で動くことになる。

 日銀券の投資先はすべて優良企業や人にされるが、税付き電子マネーでは優良には関係なく、すべての国民と企業に平等に配布される。

 社会主義というのは単に平等化するというだけである。自由主義は最終的に個人の所有は血族に遺産相続されるが、社会主義では最終的に個人の資産は公共団体に遺産相続されることになる。

 日銀券では銀行で、優良企業に投資され、政府で、生活困窮者に福祉投資されるが、税付き電子マネーの配布先は最低生活保障するために、国民すべてに毎月数万円が支給される。
 また、将来の生産の投資先は、株式会社ではなく、大小関係なく、すべてのNPO法人に毎年数十万円が支給される。NPO法人は個人の利益追求ではなく社会の利益追求であり、その資産は最終的に公共団体のものになるからである。

 人は一人自分で生きる力である自由が必要であり、どんな人もまわりの社会から生かされる自分が必要である。

 生きる力をつけるのは今の日銀券が必要であり、生かされる力をつけるには明日の税付きマネーが必要である。そうして、人は自由に格差拡大できるアクセルである日銀券と、協調し格差是正できるブレーキである税付きマネーの並立で、安全に経済活動をすることができるようになるだろう。

 

国民が政策を選べる選挙改革に

火曜日, 11月 27th, 2012

 今度の衆院選の投票で、私は山梨一区だが、その立候補者は4名である。自民党、民主党。日本維新の会、共産党である。

 残念ながら、この4名の立候補者には私自身の意向をすべて受け入れてくれそうな人がいないが、今一番の政策で必要なのは即原発停止であると思うので、それに近いのが共産党なので、その人に投票するつもりだ。

 比例代表では、党を選ぶのだが、大体私の意見である脱原発、反消費税、反TPP,そして護憲に近いのは社民党なので、それを選ぶことにする。

 そしてこれからの選挙制度に願うのは、人と政策を選べるようなものにすればいいように思える。人の場合、基本政策のアンケート用紙に記入してもらい、それで選べるようにする。しかし、立候補者の政策に反対の場合は裁判官を承認しないように、×を付けられるようにして、棄権をさけることができるようにする。

 比例代表で党を選ぶのではなく、基本政策においてのアンケートを書くようにすればいいだろう。
 例えば、脱原発・消費税・TPP・憲法改正の欄すべてに、賛成・反対・その他の意見を選べるようにする。

 先日書いたように、党に関係なく、一つ一つの政策において、自分の意見がいえる場に参加すればいいだけである。

 なぜなら、議員は国民の声を届ける代理人であるという意識が必要であるからだ。

 

 

自分の反対は自分

日曜日, 11月 25th, 2012

 第三極の政党同士が連合したくてもできない。例えば、社民党は脱原発・反消費税・反TPPであるが、新たに立ち上がった同じ政策である党とは組めないのは、3つ以外の政策である護憲か、憲法改正かで違ってくるからだ。

 どんな政治家でもまったく同じ意見の人はいないのだから、党だって、一個の人間と同じで、それを合わせて連合を組むのは無理があり、政権をとるために、あえて、その無理をおすと、お互いに妥協して、同じ政策にしてまとまるが、それは政権をとるまでの一時であり、政権をとれば必ず分裂することになるというのは今の与党である民主党がいい例である。

 その民主党は党の政策に従わなければ除名するという方針はまさに党の独裁政権と同じになり民主主義ではなくなる。

 つまり、党というのは権力闘争の手段であり、民主主義にとっては必要悪なのである。

 ともあれ、ここで、対立ということを考えてみたい。

▼自分の反対は何だろうか?

 他人と答えるのが正解となっているが、はたしてそれは真実なのだろうか?

 例えば、自分は「ごん」であるが、他人である「きよし」は「ごん」の反対であるといえるだろうか? 
 また、他人は自分以外の全世界の人間70億人の総称だとしたら、自分である「ごん」の反対は「全世界の人々」であるといえるだろうか?

 またまた、通常他人というのは自分の身の回りの人間のことをさすというのであるならば、自分「ごん」の反対である身の回りにいる人「きよし」「くみこ」「たろう」「まさえ」・・・・・??????になり、明確な自分個人とは逆に不明瞭で想像することもできなくなる。

 そこで、自分の反対は何か、明確にすると、それは「自分」である。

 「きよし」はきよし自身からみれば「自分」であり、「くみこ」もまたくみこ自身からみれば「自分」であるからだ。遠く海外に住む「ジュリー」であっても、
ジュリー自身からみれば自分であるからだ。

 では他人はどこにいるのだろうか? 他人はすべて自分の心の内に存在するのである。自分に対立する他人は自分が造りだした心の映像でしかないのだ。その境界線は目に見えない心の閉鎖する意識でしかないのである。

▼では個人の反対は何だろうか?

 個人の反対は社会であるというのが常識である。だが、社会というのは身の回りの住人のことだろうか? 地域・国? アジア? ・・実に不明瞭な存在であり、つかみどころがないものである。

 「自分の反対は自分である」というように、「個人の反対は個人」であるといえるだろう。

 社会とは個人の集合体であるが、その集合体というものが常に一定して存在するのでなく、常に変動し、その大きさも集まる個人も変わっている。しかも、個人の肉体のように、実際に存在しているものではない。

 では社会は明確にどこに存在しているのだろうか? それは個人の心の内に作り上げている想像体にすぎない。社会は個人の外に存在するのではなく、個人の心の内に存在しており、その社会の姿はみな個人個人で違った想像体なのである。

 

ボロ屋をモンドリアン風に塗ってみた

土曜日, 11月 24th, 2012

 東京のリノベーションを休み、山梨の畑の大豆の収穫と、来年の麦の種まきを始めた。新しく買った草刈り機で雑草と大豆を刈り取っていたら、なんと鉄製の水道管を切り取ってしまい、水が噴き出した。外の水道管なので、家の元栓を止めても止まらず、あせったが、ポンプの電気コードをはずして、やっと止まった。この修理は古い水道管なので、うまく交換できずに、二日間悪戦苦闘してやっと交換した。

 板橋でも、塩ビの水道管を壊してしまって、すぐに交換して、やれやれと昼飯にいったときに、その水道管がはずれ、水煙をあげてしまい、隣の人がなんとか元栓を探してくれてとめてくれた。

 どうも、私は水道管にはついてないようだ。

 板橋のリフォームからリノベーションに替えようとして、外装を単に塗り替えるのではなく、絵画的なモンドリアンの図案にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、この東側は新築の家でうちのアパートがあまりにもみすぼらしいので、見えるところの外壁のペンキを無料で塗らしてほしいと頼まれ、承諾していた。そこに、モンドリアンの図案を描いているときに、血相をかえて、母と娘が文句をいいにやってきた。

 「元に色にすぐにもどしなさい。さもないと、数十万円かかった塗装費を返してもらいますから」

 というのは、当初、板橋のアパートを廃墟にするかどうかを検討していた時なので、外壁の塗装などどうでもいいことだったときの、申し出だった。

 話をよく聞いていくうちに、どうも、塗装のテープがついて、その線が汚くみえていたようなので、すぐにテープをはずして、そのできばえを旦那さんとみてもらって、問題は解決した。

 時間は常に前に進む。けして後戻りはできない。だから、どんなことでも元に戻すことはできないということである。

 英語のリフォームreformとリノベーションrenovationとの区別はほとんどないが、どうやら、日本ではリフォームは元に戻すという意味合いが多く、リノベーションはよりデザイン性などの付加価値を付けて、新築よりもよいものにする意味合いがあるようだ。

 時間は常に前に進むように、人の命もまた後戻りはきかない。もし死んでしまえば、その命はけしてもどることはないが、新しい自分(つまり他人ではあるが)に再生するしか道がない。

 復興は無理だが、もっといい新興ができるということである。失敗は成功の元になり、ピンチはチャンスになるのが、命の伝達であり、コミュニケーションの核心ではないだろうか。

 我々の肉体の細胞だって、新陳代謝を繰り返しているように、我々の心だって、昔と今を繰り返して、未来を生きているのだろう。

 つまり、毎日寝たときは死に、起きたときは誕生する。それを繰り返して寿命を全うするが、その寿命だって、一日一生のように、一生一死を繰り返し、常に新しい再生を繰り返しているのは植物だって同じである。

 この再生は植物の一粒の種のように、自分の名前にこだわらす、人という名前だけがあれば可能だってことになるのだろう。

 

 

 

党が政策を決めるのは可笑しい

火曜日, 11月 13th, 2012

  今、民主党、自民党そして三極のなわばり争いが行われているが、そもそも国会とは何かだ。

 政策が大事か、党の権力が大事か?という構図になることさえ可笑しい。そもそも、国会とはある議題について、議論し、国会議員それぞれが自分の意見でその賛否をして、その多数決をして決定する。つまり、最初に議題があって、党とは関係なく議論があり、その議決は党に関係なく、自分の意見で賛否を決定することだ。

 ところが、最初に党があって、その議決である政策がある。これでは国会は議論の場でなく、精力争いのための政策である。

 いわば、権力争いをする党など必要悪なのである。もし、党を作るならば、議題ごとに、賛成党、反対党、その他党に分かれて議論しあえばよく、その議論の途中に意見をかえて、別な党にうつることもOKであることが必要だし、最終結論は自分自身で党とは関係なく議決すればよい。

 首相は多数決で決まったことが実現できるようにリーダーシップをとるだけでいいのではないだろうか。

 議員を選ぶ際に必要なのは、その人がどんな議題を提出するかであろう。それが実現できるかどうかは問題ではない。大事なのは地元住民がかかえている問題をどうくみとるかである。

 こうした議題ごとに分かれて議論する党という意味で、「議論党」の出現を期待する。