ボロ屋をモンドリアン風に塗ってみた

 東京のリノベーションを休み、山梨の畑の大豆の収穫と、来年の麦の種まきを始めた。新しく買った草刈り機で雑草と大豆を刈り取っていたら、なんと鉄製の水道管を切り取ってしまい、水が噴き出した。外の水道管なので、家の元栓を止めても止まらず、あせったが、ポンプの電気コードをはずして、やっと止まった。この修理は古い水道管なので、うまく交換できずに、二日間悪戦苦闘してやっと交換した。

 板橋でも、塩ビの水道管を壊してしまって、すぐに交換して、やれやれと昼飯にいったときに、その水道管がはずれ、水煙をあげてしまい、隣の人がなんとか元栓を探してくれてとめてくれた。

 どうも、私は水道管にはついてないようだ。

 板橋のリフォームからリノベーションに替えようとして、外装を単に塗り替えるのではなく、絵画的なモンドリアンの図案にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実は、この東側は新築の家でうちのアパートがあまりにもみすぼらしいので、見えるところの外壁のペンキを無料で塗らしてほしいと頼まれ、承諾していた。そこに、モンドリアンの図案を描いているときに、血相をかえて、母と娘が文句をいいにやってきた。

 「元に色にすぐにもどしなさい。さもないと、数十万円かかった塗装費を返してもらいますから」

 というのは、当初、板橋のアパートを廃墟にするかどうかを検討していた時なので、外壁の塗装などどうでもいいことだったときの、申し出だった。

 話をよく聞いていくうちに、どうも、塗装のテープがついて、その線が汚くみえていたようなので、すぐにテープをはずして、そのできばえを旦那さんとみてもらって、問題は解決した。

 時間は常に前に進む。けして後戻りはできない。だから、どんなことでも元に戻すことはできないということである。

 英語のリフォームreformとリノベーションrenovationとの区別はほとんどないが、どうやら、日本ではリフォームは元に戻すという意味合いが多く、リノベーションはよりデザイン性などの付加価値を付けて、新築よりもよいものにする意味合いがあるようだ。

 時間は常に前に進むように、人の命もまた後戻りはきかない。もし死んでしまえば、その命はけしてもどることはないが、新しい自分(つまり他人ではあるが)に再生するしか道がない。

 復興は無理だが、もっといい新興ができるということである。失敗は成功の元になり、ピンチはチャンスになるのが、命の伝達であり、コミュニケーションの核心ではないだろうか。

 我々の肉体の細胞だって、新陳代謝を繰り返しているように、我々の心だって、昔と今を繰り返して、未来を生きているのだろう。

 つまり、毎日寝たときは死に、起きたときは誕生する。それを繰り返して寿命を全うするが、その寿命だって、一日一生のように、一生一死を繰り返し、常に新しい再生を繰り返しているのは植物だって同じである。

 この再生は植物の一粒の種のように、自分の名前にこだわらす、人という名前だけがあれば可能だってことになるのだろう。

 

 

 

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