Archive for 7月, 2011

今の農業はおかしい

金曜日, 7月 29th, 2011

 うちに半分の畑や家を売った人の姿とその農法をみると、私が目指している農業とまったく逆だった。

 私は草刈りを手で抜き取って、種を植えるのだが、売り主は除草剤をまいて、枯らしてしまう。除草剤はホームセンターで安く売られ、数百円もあれば、私が雑草を抜き取る手間の1週間を10紛でやり遂げてしまう。

 土地を耕す耕耘機もそうだが、1日かかる作業をやはり10分でやりとげてしまう。麦だって、刈り取り脱穀をコンバインダーで、1週間の仕事を10分でやってしまうことが可能である。

  だが、売り主の姿をみていると、毎日早朝から遅くまで、働きづめである。私に半分の土地を売ったのも借金が払えなくなったからだ。

 「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざり」という姿が売り主にある。何かがおかしいのだ。働けば働くほど楽になるはずなのが、今の自由競争時代の鉄則ではないか!

 まわりの畑をみると、無くても生きていける「桃とぶどう」ばかりである。生活に欠かせない「米」づくりしている農家はほとんどない。売り主だって、売れる野菜だけをハウスで、しかもプラタンで栽培している。

 まして、手作りで、麦や大豆をつくる人はまったく皆無だ。小麦と大豆は毎日の暮らしではかかせないほど消費しているのに、そのほとんと輸入に頼っている。

 国内で作るよりはるかに安く栽培できるからだ。その価格は大型機械と手作業の作業効率の差となって表れてくる。

 私はこうした今の日本の農業を見ていると、アフリカのカカオ栽培で働く少年を思い出す。少年は栽培するカカオがチョコレートになることも知らないし、ましてチョコレートなんか食べたこともない、貧困な家庭の子供だった。

 つまり、今の農業は世界的に「お金になる農業しかやっていない」のだ。そのために、「食べるための農業を本来の姿を忘れてしまっている」のだ。

 もし、アフリカでカカオ栽培をしないで、そこが、大豆やとうもろこし栽培だったら、その少年はきっと食べることに困ることはなかったと思うのだ。金がなくてももっと幸せな生活ができただろうと思えるのである。

 なんでも金がいる生活だから、生活するためには、金になる農業をしなければ、子供を学校に入れることも、病院に行くこともできなくなる。金がなければ、銀行で借金しても、その利息と元金をはらうために必死で金をもうけようとする。

 機械や農薬があれば、大変な労苦をしなくても、楽に栽培できる。そのため、金を計算して、どっちが儲かるかを計算して、決断する。その計算や予測を間違えると、借金まみれになってしまう。

 金のための機械や農薬や教育や医療そして政治もそうだが、なんかおかしい。機械のように働くために機械を作り、病気を増やすために農薬を作り、金を儲けるための勉強をし、患者を多くこさせるための病院を作り、金で政治を動かす。

 人が本来あるべき姿を忘れている。その本来の姿を見せなくしているのが「金の社会」である。楽して金を儲けようという社会は、原発が安上がりだという理由だけで、原発を推進する。でも、そこで起きた事故は、人が鳥や動物のように、本来生きていける暮らしを破壊さsていることを気づかせる。

 金の計算をやめて、人らしい本来の生き方を取り戻そうではないか。そうなれば、食べるための農業が復活するなら、海外から安い基礎食料を輸入しないで、自分の国で生産するだろうと思うのである。

 

震災復興通貨の発行を

水曜日, 7月 27th, 2011

 これは震災復興を目的にした資金を日本また世界が負担しようというものである。また、この震災復興通貨は今後中央銀行制度に代わる新しい通貨として主流になっていくと予想できる。

 これは単純な期限通貨の仕組みである。国でも日銀でもかまわないが、発行から10年間有効の期限通貨を発行し、すべての国民にベーシックインカムとして、大人月10万円、12歳以下の子供5万円を支給するものである。

 そして、発行から10年後に期限切れになった震災復興通貨は一般には使えないが、すべての公共の税金として、また利息と元金もともに返済金として無期限に使えるものとする。

 今の日銀券とを比較すれば、

 震災復興通貨は通用期間10年間だけであるが、期限切れの震災富国通貨は税金と返済金のための日銀券として無期限に使えるものである。

 この原理は、いわば「生きた金」と「死んだ金」との違いである。どんな生き物もその寿命があるので、期限通貨にあたり、死んだ生き物には期限がなく、無期限だからである。

 お金が死ぬというのは、食料に譬えれば、食べ物が腐って土に還った状態である。食べ物が土に還るということは、土からまた食べ物が作られ、再生するということである。

 これを社会生活に適応すれば、自分のお金が消えて、公共のお金に成るということである。生きたお金とは自分のお金であり、死んだお金とは公共のお金である。つまり、お金が死ぬというのは公共のお金になるということであり、公共のお金は地球の大地のように生きたお金を発行できるということでもある。

 無期限に使えるお金はいわば死んだお金なので、それは公共のお金として通用できるが、一般の生産消費は個人の権利や所有を表すため、寿命のように期限のあるお金であり、生きたお金になる。

 また、10年後の期限切れの震災復興通貨が元金と利息の返済のために無期限に使えるというのは、今の中央銀行システムが、日銀が発行したお金を借りて、それに利息を付けて返済するのがベースになっているからである。

 国は国債を発行したら、それを償還しなければならないが、その償還先は投資家や銀行である。しかし、原理的にみれば、その日銀券を発行し、最終的に個人のお金になったとしても、元は日銀が貸したお金であるから、利息をつけて日銀に返済しなければならないはずであるが、現実的にそうならないのはこのシステムが矛盾しているからである。  

 信用を元にした利息付きの貸し借りの日銀券に対して、震災復興通貨のような期限通貨というのは発行元に無利子で自動返済できる貸し借りするお金である。通用期限が過ぎればそれが税金としてしか使えないから、公共費としての税金として自動返済されるということである。

 今の中央銀行システムでは国は銀行から借金をしなければならないが、その償還金も期限切れ震災復興通貨にすれば、100%確実に償還できる。そのため、将来国が破綻することは原理的にありえないことになる。

 この震災復興通貨と日銀券で、土地の売買をするとしたら、どうなるだろうか? 毎月10万円の期限通貨のベイシックインカムをそのまま10年間貯めたら、1200万円になる。買う者にとってはいいが、期限が切れる1200万円で土地を売る人がいるだろうか?

 これが期限切れの通貨が税金や借金返済に使えるというのが味噌である。土地を売る場合、借金返済や固定資産税のためであることが多く、その金に使えるならば土地を売るだろうと予想できるので、安心して期限通貨は流通すると予想できる。

 将来、日銀券は期限切れ期限通貨(無期限通貨)として流通し、震災復興通貨は期限通貨である生きたお金として、協力しあえる社会のベースとなる世界的通貨になるだろうと予想できる。

欲望の最後は自滅

月曜日, 7月 25th, 2011

 毎日のようにハトが脱穀した麦つぶをねらって、網で覆ったビニールハウスに入ってきてにげられなくなっている。

 ハトは蒔いた大豆の種をすぐ食べ尽くすし、また大豆が生育した2枚葉は好物ですぐに食べられてしまう。大豆栽培にとって、ハトはもっとも困った害鳥である。

 麦のこぼれ種をねらって、たくさんのスズメやハトがやってくるが、それが脱穀した麦種を食べるとなると、殺して食べたくなる。アグネスチャンが日本にきて、驚いたのは、ハトを食べないで餌をあげる日本人だった。中国ではハトは食べられている。

 日本はほとんど鶏を飼育して食べているが、畑を荒らすハトを食べれば、飼育しなくても、自然にとり肉がたべれるではないかと思うのだが。

 ハトはどうして命の危険を冒してまでも、何度も何度も私の脱穀場にやってくるのだろうか?

 ハトは人間と同じで、自分の欲望を抑えることが難しいと思われる。人間の欲望も平和の象徴であるハトのように、核の平和利用の原発も、あくなき電気生産で、自滅する危険を犯している。

 地球のどこにも原発の放射能廃棄物を捨てる場所がないのに、それを作り続ける。その結果、人類全滅になるのは自明の理であるが、人類はけしてそれをすぐにやめようとはしない。事故が起きて放射能で住む土地を追われても、けしてすぐにやめようとはしない。

 原発がなければまるで生きていけないようなあわてぶりである。

娘の大学のオープンキャンパスに行ったとき、学生のゲームで、現在の世界人口は65億人か? 69億人か? という問題で、私は数年前に64億人だったことを記憶していたので、即65億人だと答えてしまったが、実際は69億人だったので、人口爆発は事実であることを思い知った。

 ハトを食べるのはカラスだが、どんな生物でも天敵がいて、一つの種が爆発的に増えることをおさえて、生物の調和が保たれている。

 人類だって、生物の一種だから、人口爆発をすると、天敵のような病気が細菌や精神で、自然は地球人口を減らそうとする。

 原発事故も、原発をやめようとしないのも、いわば終わりのない欲望という急行列車に乗ってしまったからだろう。欲望のブレーキがもうきかなくなってしまい、ひたすら人類全滅への道を走らざるをえないのは、絶滅した大型ハ虫類のようなものだ。

 人が長生きするためには、清貧に暮らすことがいいというのは本当だろう。欲望はアクセル、知性はブレーキだ。ブレーキとアクセルを間違えると、自爆テロのような事故や病気が日常茶飯に起きることになるのではなかろうか?

ギブアップ

月曜日, 7月 18th, 2011

 稲苗の植え替えのコシヒカリは終わったが、トヨハタモチがほとんど手つかずだった。大豆の種も今月中に蒔かねばならない。それに、太陽光発電を屋根に取り付けるのが8月17日だから、それまでに屋根の塗装をしなくてはならなくなった。

 トヨハタモチの苗の移植をギブアップ!

 時間切れだ!

 ネバーギブアップといっても、時間は待ってはくれない。

 ギブアップは時間とともにやってくる。

 それにしても、ギブアップしたのは、福岡式米麦自然農が大失敗したためだ・もし、まえもって、稲苗から移植する予定だったら、時間の余裕や他の方法ができたと思う。

 米作りは来年新たに挑戦したい。直播きが一番楽なので、それがうまくいく方法を実験したいと思っている。今年はそれが時間切れだ。米作りのチャンスは一年に一度しかないので、まさに、ブラジルのリオのカーニバルみたいだ。

 今年の大豆作りの挑戦のチャンスは今月しかないので、これを優先して、今雑草が生えているところをクローバーを残して、すべて大豆に変換してみたいと思っている。

 というには、麦の出来が畑の土地に左右されていること、また稲苗もま苗床に大きく左右されていた。苗床に雑草の種がたくさんあると、稲は負けるからだ。

 つまり、植物を育てることでもっとも重要なのが土づくりだというのが実感できた。本音をいうと、うちの畑の土を全部入れ替えたい、それができたら、どんな野菜でもうまくつくれそうに思うからだ。

 

田舎生活はスローライフじゃあない

月曜日, 7月 11th, 2011

 今日、高校時代の親友が大坂から私に会いたいという電話があった。なんと、高校以来なので42年ぶりになる。昨年、私のホームページを発見して、なつかしくなって電話をくれて、それから1年後である。彼は大坂の病院長である。かなりの出世をしていても、しがない私に会いたいというのが不思議に思えた。

 一生の友人というのが、小学生の時もそうだが、高校生の時の親友もそうなるようだ。どうしてそうなるか、考えてみた。

 高校生の時、私は精神病院は入院するほど、「なぜ生きるのか?」と追求していて、その答えに悩み抜いていた。そんなときの、相談相手が彼ともう1人のIさんだった。

 高校生の私は授業をさぼって、伊豆にキャンプの旅をしようとした。それにつきあったのが、彼とIさんである。二人とも深刻な私の悩みにつきあうことを授業よりも優先したことは、今思えば大層なことだったと思う。

 二人とも高校時代の短い期間だけの親友で、それ以降もほとんど会うこともなかったが、どんなに時間がたっても、距離が離れても、心の奥底に「親友」という姿はお互いに消えることはないことに驚く。

 つまり、親友とは苦しい時の分かち相手に作られるということだ。夫婦でも、ともに苦しいときをともに過ごすならば、生涯連れ添うだろうが、単に一緒にいるだけでは離婚になるのではないだろうか。

 電話で、私が田舎生活をしているので、地代の最先端の「スローライフ」をしているのに興味があったみたいだ。

 その彼のいうスローライフという言葉に内心苦笑してしまった。畑仕事はスローどころか、「待ったなしのまことに忙しい生活」だったからだ。畑仕事は生き物を扱う仕事で、一日でも水をあげなければ、この熱い夏に枯れてしまう苗もたくさんある。子育てや動物を扱う仕事とそうかわりがない。

 野菜が育つように、つねに注意して観察、世話しなければならないからだ。

 そんな中、太陽光発電の営業から、さらに屋根の塗装の営業までもやって姿をみると、人相手の仕事、とくに営業は神経がひどく使うようだ。こういう人相手の営業こそ、ぜひスローライフになってほしいと願う。というのは、とにかく、金を儲けようと必死だから、それが伝わってくるので、営業される方も疲れてくる。

 田舎生活をスローライフというのは、都会型の病院のような人間相手の仕事があこがれる生活なのだとつくづく感じるしだいである。

 人間相手の仕事は失敗が許されないことが多いので、かなり疲れるがl、植物相手の場合は失敗がいくらでも許されるので、同じ忙しさでも、疲れが少ないのだ。

 植物はほとんど1年ごとなので、失敗すると、来年こそと、やりなおす気運がでるが、人相手だと、来年はやりなおしがきかないので、大変だ。とくに、医者なんかは、失敗すれば患者の命を生涯うばうことにもなるので大変だと思う。来年こそというものがない。

 人の死は来年に生まれ変わることがないので、まさに一日一生である。でも、人の死も植物のように再生という形で、とらえれば、スローライフが実現できるのではないだろうか?

 再生といっても、魂の輪廻転生ではなく、命の輪廻転生である。自我からくる魂は肉体とともにある。それは心は形をもたないが、体は形をもつからだ。形があって始めて、自我、魂が成立する。その核心は名前付けである。

 植物の命の輪廻転生には自我の名前がない。それは私が死ねば、別な私つまり他人に生まれ変わるといういう意味なのである。いつまでも、自我に執着していると、それはいつか、骸骨を抱いて毎日眠るような姿になりはててしまう。

 人間社会の根本的な問題を引き起こすのは、「自我」「エゴ」である。もし、自分の名を捨てて、自我を消し去れば、まさに悟りのような三昧に到達するといわれるのはそのためである。

 仏陀を悩ました生老病死の奧にあるのが肉体からくる自我である。自我を無くすのが無我であり、無我の状態が空の状態になって、自我へのこだわり、執着心がなくなることである。

 仏や神というのは、本当の自我という意味で、真我とも言われる。この真我というのは、個人の我がない無我のことで、人だけに通じるから、人類我といえるものである。人類全体の種の保存に通じる道教の道みたいな姿でもある。

 でも、神とか仏とか道とか、やたら難しい言葉は必要もない。自分そして人間という意識を消して、生き物全体の一つくらいの意識でみるだけでことたりることだろう。

 ハトやスズメが脱穀した麦粒をねらって、網でかこったビニールハウスに毎日入り込む。それをつかまえることは容易だが、殺すのはなぜかしのびないので、脅かしている。そんな自分の姿をみて、映画のワンシーンを思い出して、1人笑いしてしまった。

 スイカ泥棒するガキを発見して、どなりつける農民の姿に自分が映ってくる。農民がガキをどやしつけるのは、おどかして、二度と悪さしないようにするためである。

 もう1人の私もいて、食物連鎖である。もしハトやスズメがにわとりやキジのように、食べることができたら、こぼれ落ちた麦で、ごちそうがやってくるようなものになる。

 畑を荒らすイノシシや鹿だって、それは容易につかまえて、食べることができる。無理して豚や牛を飼育しなくても、肉が手に入るように思えてならない。

 それができないのは、まだ自分の中に何かの思いこみや倫理観があるからだろう。人間とは実にやっかいな動物である。

すべて考え方次第でひっくりかえる

金曜日, 7月 8th, 2011

 最近は三毛作への挑戦で、麦刈り、田植え(畑植え)、大豆まきで、ブログを書く暇もないくらいだ。一日3回着替え、風呂に入る。飲料水は2リットルくらい飲む。体力を使う分、たくさん食べ、甘いものが欲しくなる。ダイエットは無理だが、食べても動くので、体重は変わらない。

 秋の福岡式米麦栽培の失敗が大きく、稲の栽培に時間がなくなってしまった。稲苗を作ってから、移植するのはかなりの時間と労苦を強いられる。とくにコシヒカリの稲苗は雑草が生い茂り、コシヒカリが雑草に負けて全滅しはじめた。それをとめるために、雑草とコシヒカリの分離と、さらに、移植しても育たないような弱小の稲苗とを分離する。

 これがやたらに時間がかかる。その合間合間に麦刈り、移植、大豆蒔きと移植などいっきにやってきた。

 夏の雑草はものすごく勢いがよく、野菜をうめつくしてしまう。大豆を雑草の代わりに育てることを決定したら、次の方針がはっきりしてきた。

 野菜も雑草の一部にすぎない。まわりの畑では機械で雑草を刈っているが、その理由がわからない。たんに見栄えがよくないか、歩きづらいかだけで、雑草を刈るか、除草剤をまく。

 人間勝手な所作であるが、同じ人間勝手なら、もっと前向きというか、建設的な雑草刈りもあるだろう。雑草を野菜に交代させるという考え方にすればいい。私の場合は、雑草をすべて大豆に交代させようとした。破壊と建設は一体だ。生と死はコインの裏表みたいなものである。

 人の善悪だって、考え方次第でひっくりかえすことができそうだ。

 例えば、死刑に決まった罪人の処置である。死刑者をたんに電気椅子や首つりをして殺すという処理はあまりにマイナス的発想である。

 死刑囚の善悪は意識から決定されるが、その肉体に善悪はない。しかも、健康な肉体は内臓などのどこをとっても、移植し、他人の命を救うことができるものだ。

 死刑イコール献体という考え方に変わった場合、自分の命を捨てて多くの人の命を救う善人の姿になるではないか。罪を悔い改めるというのは、悪を善に代えることで、悪を殺すことではないのだ。

 雑草を悪とすれば、雑草を野菜にするのが反省や悔い改めである。死をもってつくなうのは、死ぬことではない、自分の死をもって、他人の命を救うことがつぐないではないだろうか。

 人の死は死刑であれ、事故であれ、自殺であれ、自然にとって死は死であり、その区別はない。そして、死は再生というのが自然の掟である。

 人も自然にまねて、死を再生と考える意識をもてば、ずいぶん世界は代わるだろう。人の意識は根本的に生死からくる善悪・良悪である。不快なことは快適にするのは意識のしかただけで可能になる。

 自然において、「ピンチはチャンス」は常なのだ。

 我々の意識によって、世界はどんな姿にも変わる。意識はいわば色眼鏡みたいなものである。黄色い眼鏡(意識)をもてば、黄色い世界になる。赤い眼鏡(意識)をかければ、赤い世界に代わる。

 自分も世界も、どんな意識をもつかで、すべて代わってしまうのである。