今日、高校時代の親友が大坂から私に会いたいという電話があった。なんと、高校以来なので42年ぶりになる。昨年、私のホームページを発見して、なつかしくなって電話をくれて、それから1年後である。彼は大坂の病院長である。かなりの出世をしていても、しがない私に会いたいというのが不思議に思えた。
一生の友人というのが、小学生の時もそうだが、高校生の時の親友もそうなるようだ。どうしてそうなるか、考えてみた。
高校生の時、私は精神病院は入院するほど、「なぜ生きるのか?」と追求していて、その答えに悩み抜いていた。そんなときの、相談相手が彼ともう1人のIさんだった。
高校生の私は授業をさぼって、伊豆にキャンプの旅をしようとした。それにつきあったのが、彼とIさんである。二人とも深刻な私の悩みにつきあうことを授業よりも優先したことは、今思えば大層なことだったと思う。
二人とも高校時代の短い期間だけの親友で、それ以降もほとんど会うこともなかったが、どんなに時間がたっても、距離が離れても、心の奥底に「親友」という姿はお互いに消えることはないことに驚く。
つまり、親友とは苦しい時の分かち相手に作られるということだ。夫婦でも、ともに苦しいときをともに過ごすならば、生涯連れ添うだろうが、単に一緒にいるだけでは離婚になるのではないだろうか。
電話で、私が田舎生活をしているので、地代の最先端の「スローライフ」をしているのに興味があったみたいだ。
その彼のいうスローライフという言葉に内心苦笑してしまった。畑仕事はスローどころか、「待ったなしのまことに忙しい生活」だったからだ。畑仕事は生き物を扱う仕事で、一日でも水をあげなければ、この熱い夏に枯れてしまう苗もたくさんある。子育てや動物を扱う仕事とそうかわりがない。
野菜が育つように、つねに注意して観察、世話しなければならないからだ。
そんな中、太陽光発電の営業から、さらに屋根の塗装の営業までもやって姿をみると、人相手の仕事、とくに営業は神経がひどく使うようだ。こういう人相手の営業こそ、ぜひスローライフになってほしいと願う。というのは、とにかく、金を儲けようと必死だから、それが伝わってくるので、営業される方も疲れてくる。
田舎生活をスローライフというのは、都会型の病院のような人間相手の仕事があこがれる生活なのだとつくづく感じるしだいである。
人間相手の仕事は失敗が許されないことが多いので、かなり疲れるがl、植物相手の場合は失敗がいくらでも許されるので、同じ忙しさでも、疲れが少ないのだ。
植物はほとんど1年ごとなので、失敗すると、来年こそと、やりなおす気運がでるが、人相手だと、来年はやりなおしがきかないので、大変だ。とくに、医者なんかは、失敗すれば患者の命を生涯うばうことにもなるので大変だと思う。来年こそというものがない。
人の死は来年に生まれ変わることがないので、まさに一日一生である。でも、人の死も植物のように再生という形で、とらえれば、スローライフが実現できるのではないだろうか?
再生といっても、魂の輪廻転生ではなく、命の輪廻転生である。自我からくる魂は肉体とともにある。それは心は形をもたないが、体は形をもつからだ。形があって始めて、自我、魂が成立する。その核心は名前付けである。
植物の命の輪廻転生には自我の名前がない。それは私が死ねば、別な私つまり他人に生まれ変わるといういう意味なのである。いつまでも、自我に執着していると、それはいつか、骸骨を抱いて毎日眠るような姿になりはててしまう。
人間社会の根本的な問題を引き起こすのは、「自我」「エゴ」である。もし、自分の名を捨てて、自我を消し去れば、まさに悟りのような三昧に到達するといわれるのはそのためである。
仏陀を悩ました生老病死の奧にあるのが肉体からくる自我である。自我を無くすのが無我であり、無我の状態が空の状態になって、自我へのこだわり、執着心がなくなることである。
仏や神というのは、本当の自我という意味で、真我とも言われる。この真我というのは、個人の我がない無我のことで、人だけに通じるから、人類我といえるものである。人類全体の種の保存に通じる道教の道みたいな姿でもある。
でも、神とか仏とか道とか、やたら難しい言葉は必要もない。自分そして人間という意識を消して、生き物全体の一つくらいの意識でみるだけでことたりることだろう。
ハトやスズメが脱穀した麦粒をねらって、網でかこったビニールハウスに毎日入り込む。それをつかまえることは容易だが、殺すのはなぜかしのびないので、脅かしている。そんな自分の姿をみて、映画のワンシーンを思い出して、1人笑いしてしまった。
スイカ泥棒するガキを発見して、どなりつける農民の姿に自分が映ってくる。農民がガキをどやしつけるのは、おどかして、二度と悪さしないようにするためである。
もう1人の私もいて、食物連鎖である。もしハトやスズメがにわとりやキジのように、食べることができたら、こぼれ落ちた麦で、ごちそうがやってくるようなものになる。
畑を荒らすイノシシや鹿だって、それは容易につかまえて、食べることができる。無理して豚や牛を飼育しなくても、肉が手に入るように思えてならない。
それができないのは、まだ自分の中に何かの思いこみや倫理観があるからだろう。人間とは実にやっかいな動物である。