Archive for 5月, 2013

間引くということ

木曜日, 5月 30th, 2013

 毎日、稲こそぎで雑草をとり、稲を間引きしていると、その行為が正常細胞を傷つけずに癌細胞だけを殺すような放射線照射のような作業とリンクしてくる。

 雑草採りと間引きは同じ行為のように思えてくる。雑草採りは同じ草の仲間による間引きであり間引きは同じ品種の草同士の間引きである。

 間引きという行為を人間に連想すると、とても残酷に思えてくる。みんな同じように生まれてきたのに、運がいい人間だけが育てられ、運の悪い人間だけが殺されるという行為だからだ。

 運不運に限らず、それが強い者だけが生かされ、弱い者は殺されるという意味でもある。これはヒューマニズムでは許されない行為である。

 だが、生物界においては、みんな全部を生かすヒューマニズムは存続できない。もし、それを実現しようとしたら、逆に、人類全体の死につながってしまうパラドックスに陥ってしまうのである。

 これはザイルで結ばれた登山家の一人が滑落し、残る一人が落ちた人を支えきれなくなった場合を想定するとわかりやすい。

 一人しか生き残れない現実のとき、二人一緒に助かろうとすると、二人とも死んでしまう。しかし、一人を犠牲にしたら、もう一人は生き残れるという場面はたまにある。

 それは自殺者を救おうとして、自殺者も救う人も一緒に死んでしまう事故がたまに報道されている。

 この教訓は二次三次災害を防ぐには、ヒューマニズムはダメで、残酷ではあるが間引きが必要なのである。

 この間引く行為は生物本来の生き抜く力であり、人間にとっても、オリンピークの楽しみのように、運の良い者、強い者だけが成功者となって、賞賛される・・・つまり生き残れるのである。それは勝ち抜くというのは、間引く行為と同じである。

▼ヒューマニズムにおける愛と間引く愛

 ここで、ヒューマニズムにおける愛と間引く愛とを比較してみよう。
 ヒューマニズムにおける愛とは、人類全体を愛することであり、特定の個人を選ぶことはない。
 しかし、間引く愛とは特定する集団や個人を選択し、全体を愛することはできない。

 そもそも「愛する」という行為は全人類の中から特定の一人を選ぶ心のことである。だから、人類全体を愛するとしたら、他の生物全体の中で人類だけを選択し、もっとも重要視することである。

 ただ、稲こそぎでもそうだが、完全に雑草だけを抜きのり、稲だけを残すことは不可能であるように、人類だけが地球に生き残ることはできないし、人類だけを愛し、人類だけを地球に生かそうとしたら、逆に人類全体を滅亡させるパラドックスに陥ることになる。

 つまり、日本が世界の縮図になるように、人類も生物全体の縮図であり、リンクしている。雑草を採ると同時に、稲の犠牲もやむをえないのである。

 純粋の愛というのは、無償の愛とか、犠牲心といわれる。これは間引かれる人間にとっては、生き残れる人間を愛するために、自分を犠牲にするということだ。

 また、老老介護で疲れ果て、自分が生き残るために、介護する老人を殺す行為も愛といえるだろう。これは法的には許されないことだが、もし、 老老介護で両者とも生き残れないような状況があった場合は、法的援助がなかった場合は、許される行為であり、愛する行為であると思える。

 つまり、間引くということは、間引かれる立場からすれば犠牲になるということである。犠牲になるというのはかなりオーバーだが、人は一人では生きていけないように、人は支え合って生きている。その場合、譲り合いの犠牲心も、遠慮しない自己表現も必要であろうということだ。

 間引くというのはオリンピーク競技のような楽しむと同時に悲しみでもある行為であり、犠牲と残酷を両方もった愛する行為であるともいえよう。

稲こそぎの機械あったらなあ

木曜日, 5月 30th, 2013

 最初は鎌で、腰がいたくなるので、足で、毎日3時間するが追いつかない。そこで、奇跡のりんごの木村さんが提唱するチェーンをひきづってみたが、5ミリ程度の雑草もとれない。雑草はえる前にやるしか手がない。そこで、電動耕耘機の一番パワフルの耕作君でトライした。土は耕耘もできず、稲と雑草の半分くらい刈ってしまい、稲こそぎはできない。ああ、雑草とりの機械あったらなあ。

野生化ということ

木曜日, 5月 30th, 2013
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 上の6枚の写真は家の周りに麦を雑草化させたものである。土は粘土のようで、しかも小石も多い。肥料はまかずに、昨年の麦わらをまいただけであり、種まきは鳥に食べられないように、土をかぶせ、不織布で覆ったがいっさい水をあげることはなく、自然の天候にまかせただけである。この品種はパンやラーメン・スパゲティにする強力粉用のニシノカオリであり、実った麦穂の鮮やかな黄色が特徴である。

 一番下にある写真は納豆用の大豆で、納豆小粒という品種を昨年麦収穫のあとに、まいて、昨年収穫した。でも、これを脱穀し、食べられるようにするには、足で踏みつけ、手揉みして、さらに風選しなくてならない。それが面倒なので、何度か足踏みで種をブルーシートの上に落としただけで、食べるようにはしなかった。

 そこで、この収穫しなかった納豆小粒をそのまま麦の後に蒔けば、今年もきっと実るだろうと思える。

 隣の休果樹園では、毎年、雑草が6月くらいから、交代して、二種の雑草が毎年すきまないように繁茂している。その交代時期が、麦と大豆に適応しているので、もしも、麦と大豆をまったく収穫しなく、そのまま放置したら、二種の雑草のように、毎年、自然に実ることができるかどうかを実験したくなった。

 今年からは、農協から買った種でなく、自分の畑で実った種を使って実らせることができるかを実験し、来年、二種の雑草のように自生化できるかを実験し、一歩一歩野生化させていくようにしたい。

 稲もまた収穫しなければ、毎年実らせることができるかを試したい。だが、稲は夏草のせいか、雑草に負けやすく、しかも、水をかなり必要としているので、この山の段々畑での自生化は難しいと思われるが、とにかく、できるだけやってみて、どこが限界なのかを探っていきたいものである。

 まずは、稲を実らせることから始まるが、毎日のように、雑草は稲を覆って殺そうとするので、それを阻止するため、足で、稲こそぎしている。水だって、けして欠かせないので、やたらと手間がかかる。陸稲の方が水稲よりも成長がよく、雑草には勝てそうだが、水稲は人間の助けなしには、雑草にまけてしまうだろう。それにしても、陸稲はみな餅米品種で、水稲はみなうるち米だ。毎日食べる米はうるち米なので、陸稲用のうるち米の品種を育てることが必要になる。

 この品種改良だって、けして放射線を使って遺伝子組み替えをしたくはない。年月がかかるかもしれないが、自然交配により品種改良によって、陸稲用のうるち米を実らせることができたら、日本人の食の基本である稲の野生化の一歩になるだろう。

▼野生化ということ

 人間が育てたライオンを野生にもどす大変さと同じように、人が育てた稲を野生にもどすのは大変だろう。この野生化するということは人間の手を借りずに、ライオンも稲も自生できることをいうのだろう。

 雑草と野菜の違いといえば、人間に食べられない草と、人間に食べられる草の違いであろう。またの違いは、雑草は人間の手を借りずに生きられるが、野菜は人間の手を借りずには生きられないということであろう。

自然に神様も総理もいらない

水曜日, 5月 29th, 2013

 自然はそれぞれが自由に動いていて成り立っている。そうした自然を支配する神様なんかいない。そして、すべてを悟っている仏なんかもしない。

 生きとし生けるものすべてが自由に活動している。それが自然なんだ。

 国家も自然に習えば、国民を支配する政府も、法律さえもいらなくなる。

 計画停電で信号が消えたとき、車の事故はほとんどなかったし、通行する際は相手の動きをみて、お互いに譲り合いしていた。そこには優先を決める交通ルールもなく、それぞれの車の動きで衝突しないようにするだけで動いていた。

 私の家の近くにも信号がない三叉路があり、常に多くの車が通っているが、譲り合いのルールもないのに、まったく事故が起きていない。

 人が造った法律は常に改正される運命があり、けして更新されない絶対的な法律なんかは作れないし、あったら、その国は独裁国家のように硬直化してしまう。

 自然に習えば、国家なんか必要ないし、それを治める神様のような首相もいらない。人が自由に生きていれば、国同士の争いもなく、お互いに助け合うだろう。

 国は予算を組むのが一番の仕事だが、その予算だって、議員なんか必要なく、国民それぞれが自由に決められるようにできれば、それが自然を模した方法なのである。

 ベーシックインカムのための電子マネーを使えば、その時の生産物をそれぞれ公平に分配するだろう。これは銀行のコンピュータで自動にできる。その自然な自動システムはいわばトップダウンであるが、その逆のボトムアップが、国家の予算を組む方法になる。

 公平に分配されたベーシックマネーは、自由競争によって、その収入に格差がつく。その格差を利用して、未来の国家事業の予算を組むのである。例えば、ABCの国家事業があるとすると、ベーシック国民は自分のベーシックマネーで、そこに投資することができる。

 多く持った成功者は自分が望むA国家事業に多くを投資できるが、まったく持たない失敗社はどの国家事業にも投資することはできない。

 つまり、ベーシックマネーを未来の国家予算に自由に投資できるようにすれば、国の予算は自然に決まることになり、議員が決めるのではなく、ベーシック証券会社のコンピュータが決めることができるだろう。

「原発さえなければ」を忘れない

土曜日, 5月 25th, 2013

原発さえなければ

ベニア板の壁にチョークで「原発さえなければ」と無念の涙をながして亡くなった菅野重清さんの遺書をけして日本人は忘れないように、広島原爆の灯と併せて、未来に残していくことが必要な気がする。

 2年たって、この原発を海外に自ら売り込む安部総理には特に忘れてほしくはない。

原発なければ 復興できたのに
原発なければ 生きられたのに

これは日本だけでなく、世界にも、
そして未来の人類に伝えられる言葉だろう。