間引くということ

 毎日、稲こそぎで雑草をとり、稲を間引きしていると、その行為が正常細胞を傷つけずに癌細胞だけを殺すような放射線照射のような作業とリンクしてくる。

 雑草採りと間引きは同じ行為のように思えてくる。雑草採りは同じ草の仲間による間引きであり間引きは同じ品種の草同士の間引きである。

 間引きという行為を人間に連想すると、とても残酷に思えてくる。みんな同じように生まれてきたのに、運がいい人間だけが育てられ、運の悪い人間だけが殺されるという行為だからだ。

 運不運に限らず、それが強い者だけが生かされ、弱い者は殺されるという意味でもある。これはヒューマニズムでは許されない行為である。

 だが、生物界においては、みんな全部を生かすヒューマニズムは存続できない。もし、それを実現しようとしたら、逆に、人類全体の死につながってしまうパラドックスに陥ってしまうのである。

 これはザイルで結ばれた登山家の一人が滑落し、残る一人が落ちた人を支えきれなくなった場合を想定するとわかりやすい。

 一人しか生き残れない現実のとき、二人一緒に助かろうとすると、二人とも死んでしまう。しかし、一人を犠牲にしたら、もう一人は生き残れるという場面はたまにある。

 それは自殺者を救おうとして、自殺者も救う人も一緒に死んでしまう事故がたまに報道されている。

 この教訓は二次三次災害を防ぐには、ヒューマニズムはダメで、残酷ではあるが間引きが必要なのである。

 この間引く行為は生物本来の生き抜く力であり、人間にとっても、オリンピークの楽しみのように、運の良い者、強い者だけが成功者となって、賞賛される・・・つまり生き残れるのである。それは勝ち抜くというのは、間引く行為と同じである。

▼ヒューマニズムにおける愛と間引く愛

 ここで、ヒューマニズムにおける愛と間引く愛とを比較してみよう。
 ヒューマニズムにおける愛とは、人類全体を愛することであり、特定の個人を選ぶことはない。
 しかし、間引く愛とは特定する集団や個人を選択し、全体を愛することはできない。

 そもそも「愛する」という行為は全人類の中から特定の一人を選ぶ心のことである。だから、人類全体を愛するとしたら、他の生物全体の中で人類だけを選択し、もっとも重要視することである。

 ただ、稲こそぎでもそうだが、完全に雑草だけを抜きのり、稲だけを残すことは不可能であるように、人類だけが地球に生き残ることはできないし、人類だけを愛し、人類だけを地球に生かそうとしたら、逆に人類全体を滅亡させるパラドックスに陥ることになる。

 つまり、日本が世界の縮図になるように、人類も生物全体の縮図であり、リンクしている。雑草を採ると同時に、稲の犠牲もやむをえないのである。

 純粋の愛というのは、無償の愛とか、犠牲心といわれる。これは間引かれる人間にとっては、生き残れる人間を愛するために、自分を犠牲にするということだ。

 また、老老介護で疲れ果て、自分が生き残るために、介護する老人を殺す行為も愛といえるだろう。これは法的には許されないことだが、もし、 老老介護で両者とも生き残れないような状況があった場合は、法的援助がなかった場合は、許される行為であり、愛する行為であると思える。

 つまり、間引くということは、間引かれる立場からすれば犠牲になるということである。犠牲になるというのはかなりオーバーだが、人は一人では生きていけないように、人は支え合って生きている。その場合、譲り合いの犠牲心も、遠慮しない自己表現も必要であろうということだ。

 間引くというのはオリンピーク競技のような楽しむと同時に悲しみでもある行為であり、犠牲と残酷を両方もった愛する行為であるともいえよう。

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