Archive for 6月, 2013

生きる目的を持つと苦も楽も両方持つ

土曜日, 6月 29th, 2013

生きる目的を持つことは、その目的成就の結果には成功と失敗の両方を持つことだ。成功すれば楽しく、失敗すれば苦しい。生きる目的には喜怒哀楽もまた引き連れてくるのである。

 数十年前、生きがいという言葉がはやった。同時に、やる気のない世代の若者も生まれてきた。今の十代では「自分が何をしたいのかが解らない」という青年も多い。

 「生き甲斐」とか「やる気」とか「自分が何をしたいのか」という自分自身を問う言葉を分析してみると、それは「生きる目的があるか」ということである。

 生きがいがなくなると、死にたくなる人が多くなり、自殺願望になる。やる気がなくなると、絶望感、悲壮感、空虚感にさいなむ。自分が何をしたいかが解らないと、いらだち、選択できない悩み、孤独感などが生まれる。そうして、みな後ろ向きな生き方しかできなくなってしまう。

 私が十代の時、生きる目的を失ってノイローゼになり、精神病院に一年ばかり入院していたことがある。今のうつ病よりもひどく、幻聴幻覚妄想を寝ていてもそれに苦しんでいた。退院して、一生涯飲むように勧められた薬もやめることができたのは、数学における解らないことはXとして代入して先に進むということだった。Xとし代入することはまた{カッコ}にくくるとも言う。

 絶望した私は生きる目的をXに代入、カッコでくくって、後回しにして、先に生きたのである。そこで絶望からの脱却をしたのである。

 実際、どういう生き方になったかというと、みんながすることと当たり前の仕事をして、生活費を稼ぎ、そして、食事し、ただ生きているだけで満足するようにしたのである。それは鳥や花のように生きていると同じになった。

 その中で小ささ生きる目的がたくさん出てくる。「おいしい食べ物がほしい」「もっと楽しい仕事がしたい」「彼女がほしい」「海外に行ってみたい」などである。しかし、本当に自分がしたいことは解らないので、ずっとXに代入していて生きてきても、再び絶望感に陥ることはなかった。

 というのは、小さな生きる目的であれ、それを持つことはそれがかなうことも、かなわないこともあるのだから、その途中でその喜怒哀楽を持つのはあたりまえだと思っていたからだ。そうして、ようやく六十歳代になって、Xの姿が「自分が一生為すべきこと」として、その成功如何にもかかわらず、見えてきた感じがする。

前文140字、全文1600字以内のブログに

土曜日, 6月 29th, 2013

 どうも僕は文章が長くなるくせがあるようだ。そのため、読む人があきてしまったという報告を受けた。
 その原因を探ってみたら、前回のブログもそうだが、本題を説明するためのサブテーマがまた難解になってしまい、それをわかりやすくするためにまた苦労してかくと、本題を書くとさらにややこしくなる。
 そこで、一つのテーマで統一して、とにかくA4一枚(40×40=1600字)以内にし、記事を書くように、最初に要点だけをツイッターの140文字以内に書く。そして、サブも起承転結の4内容にすれば、読まなくても、さっと目を通すだけで内容が把握できるようにすればいいかもしれない。

神は生きる目的としての象徴という姿が似合っている

土曜日, 6月 29th, 2013

 昔、神を必死に求めたことがある。その時、神は私のすべてであり、生きる目的であった。しかし、神であると思っていた存在が単なる人であると知ったときから、本当の神とは何かを考えるようになった。

 その結果、神とは生きる目的であると知った。以前は神が生きる目的であったが、その後は生きる目的が神になった。

  この両者はともに逆は真ならずで、内容は天国と地獄の差ほど違いがある。

神が生きる目的である(神>生きる目的、神≠生きる目的)
・・・ 神は生きる目的であるが、その逆の、生きる目的は神ではない
 

生きる目的が神である(生きる目的>神、生きる目的≠神)
・・・生きる目的は神であるが、その逆の、神は生きる目的ではない

 これを簡単に言うと、以前の私の生きる目的は神だったけれど、今は生きる目的が神ではなくなった、という意味である。

 そして、生きる目的が神であるという意味は、天皇は日本国民の象徴であるというように、神は生きる目的の象徴であるということである。生きる目的はいろいろあるが、その中の一つである神をそのシンボル(象徴)として扱うという意味である。

 以前、神は生きる目的ではあったが、今は生きる目的の象徴を神という言葉に置き換え、実際の私の生きる目的は神ではなく、家族になり、家族が私の神(生きる目的の象徴)になったという意味である。

 生きる目的とは、いわば時間は常に前に進むので一方通行の関係であり、未来は過去になるが、過去は未来にはならない(未来>過去、未来≠過去、過去≠未来)

 神は天地創造主であると信じた場合、未来=過去 になり、人は石のような固定した生き方をするようになる。しかし、現実に神は見いだせないように、未来>過去であり、人は前に進む一方通行の時間に合わせて、常に過去を悔い改め、未来に期待を持つ生き方をしている。

食べると金儲けの違い

火曜日, 6月 25th, 2013

 食べる、それは分け合うということ
 金儲け、それは奪い合うということ

分け合えば余る

 もう63歳になると、お金を稼ごうとすることの馬鹿馬鹿しさを痛感する。私のメインの仕事は畑仕事とリフォームと店経営である。それはまったくお金にならないだけでなく、かなりのお金が出ていく。

 収入のほとんどは倉庫と駐車場とアパートを貸した賃貸料だけである。その賃貸料だって、借り主が家賃を延滞する人が半分おり、安定的に入ってくるものではない。

 しかし、過去貯蓄した分と併せていけば暮らしに困ることはない。

 そんな状況の中で一番の悩みの種が、家賃滞納者が倉庫にゴミを押し込んでしまっていることだ。退去してもらっても、そのゴミの処分量はかなりの額になることだ。

 そこで、この悩みを分析すると、直接的にはお金が稼げないことだけでなく、赤字になることだ。しかし、今の自分に対処できない金額ではないが、なんとしても許せないのは倉庫をゴミ置き場として放置していることである。

 その滞納者のマンションもまたゴミ屋敷であり、その管理費も数ヶ月分滞納している。ゴミ屋敷の住人はほとんど精神的な障害をかかえているために、そうなってしまうように思える。お金がない問題ではなく、ただお金があっても払うのが嫌なだけである。ゴミも捨てられない性格がひどくなったものである。

 もし、私がお金とは関係なく、このゴミ屋敷の人を助けるだけでなく、社会的にもよくしようとしたら、どんなにお金がかかっても、倉庫のゴミを処分して、もう二度とその人に倉庫を貸さないことである。

 つまり、金儲けしようとしたら、私は悩むが、人助けしようとしたら、私は悩むどころか、楽しくなる。まさにピンチはチャンスである。延滞されることは悩ましいピンチではなく、楽しくなるチャンスなのである。

 これは今蔓延している資本主義の世界全体でもいえて、お金を稼ごうとすると悩み、人助けをしようとすると楽しくなる。

 基本的に今のお金は奪い合うもので、その損得で成り立っている。会社の黒字は得で、赤字は損というわけだ。日本国も資本主義の金儲け主義で、不良品なる原発を世界中にトップセールスをしている。

 赤字は不景気で悩みの種であり、黒字は景気で快適というように、すべてがお金のあるなしで国民感情が動いてしまっている。

 こうした国民意識は「お金がないと食べられない」という金依存症に陥っているといえる。お金を実際食べることができるだろうか? 食べることができるのは食料であって、お金をその食料と交換する証券にすぎない。

 しかし、現実にはお金がないと食料を得ることはできないため、お金がないと食べていけないと思いこんでしまう。

 相田みつを「分け合えば

 うばい合えば 足らぬ
 わけ合えば あまる

「「わけ合えば」

  うばい合えば足らぬ
  わけ合えばあまる
  うばい合えばあらそい
  わけ合えばやすらぎ

  うばい合えばにくしみ
  わけ合えばよろこび
  うばい合えば不満
  わけ合えば感謝

  うばい合えば戦争
  わけ合えば平和
  うばい合えば地獄
  わけ合えば極楽」

 世界中の食料をもし分け合うならば余るくらいあるけれど、現実世界は金儲けのためにその食料を奪い合って、贅沢して太る人と飢餓で亡くなる人がいる。お金のない人には食べ物が足りなくなっている。

これは今のお金のシステムが奪い合う自由市場になっているからである。

 もし、4人の人がいて、そこに食べ物があれば、みんなで分け合って食べて楽しむだろう。しかし、もし、そこにお金があれば、みんなで麻雀して、そのお金を奪い合い勝ち負けを楽しむだろう。

 この地球上で人類が他の動物よりも進化して、一番繁栄できたのは、食べ物を分け合って生き抜く知恵をもったからである。

 金儲けで奪い合うと悩みはつきることはなく、食べ物を分け合うと、悩みはなくなり楽しみになる。

 これは個人でも、社会全体でも、お金の依存症から脱却して、食べ物を分け合うような生き方に変えれば、悩むことなく楽しく生きられる人が多くなるだろう。

 ただ、奪い合うことは常に地獄ではない。サッカーでボールを奪い合って勝敗を決めるのは楽しみであり、それは天国でさえある。そのため、こういうことがいえるだろう。

 お金を食べ物のように分け合えば極楽
 お金をボールのように奪い合えば地獄

 今、お金のシステムを根本的に変えねばならない時期であり、それが人類がこの地球上で今後も繁栄できるか、滅亡するかの境目にきている。

稲をオオキンケイギクのように育てよう

土曜日, 6月 22nd, 2013

 夏草の種類は多く、雑草においてもその生存競争は激しい。
 夏草である稲を育てる場合、雑草との生存競争を戦うのだが、人間が雑草をとらないと負けてしまう。
 しかし強い雑草に勝つ特定外来生物のオオキンケイギクがある。
オオケイギク1
 道路沿いにきれいに彩る花はとても雑草には思えない。毎年、きれいに咲くので、刈るのもはばかれる。

 このオオキンケイギクのように、主食である稲が、強い雑草よりもはるかに強く繁殖力が強かったら、農薬も機械も必要がなく育てることができるはずである。

 しかし、今の稲は人間の手を借りなければ生育できないペットのような生物であり、それに人は頼って生かされている。人が田圃を造って稲の苗を植えなければ、そこは雑草がはびこる荒れ地になる。

 それは人は働かないと食べていけないような仕組みを作ってきてしまったようなものである。どんな草花だって元は雑草のように人手を借りなくても生きられたであろうし、人もまた、エデンの園のように、働かなくても、そこにいつでも食べ物があってそれを食べていけることができたと想像できる。

 人が雑草を殺し、稲だけを育てようとして、稲本来の生きる力を奪ってしまったのではなかろうか。稲は人に依存して生きるしかできなくなってしまった。

 人が稲やその雑草に対して、間違った力を加えたために、「働かなければ生きていけなくなった」のではなかろうか。

 もし、人が雑草よりも強く生きられるオオキンケイギクのような稲を育てようとしたら、こんなに汗水たらして働く必要はなかったのではなかろうか?

 お金のシステムだって、「働かなければ生きていけない」ようなものになっているが、それは「貸した金は利息を付けて返すのが当然」ということにしたために、そうなってしまったのではないか。

 お金は「奪い合えば足らなくなり、分けあえば余る」というシステムにすれば、「働かなくても、みんな十分に生きられる」ようになれるのではないだろうか?

 例えば、稲がオオキンケイギクのように道ばたにいくらでも育っていれば、米を金のように奪い合うことはなかっただろう。お金はただ紙に印刷しただけのものにすぎないことを忘れてしまって、その損得で奪い合っているから、いつでも足りないで苦労しているのではなかろうか。

 人は金と労働の依存症になってしまった。その依存症から脱却するには農薬や機械や金や労働に依存しなくても、育つようなオオキンケイギクのような稲を育てることから再出発することが一番必要な気がする。