Archive for 6月, 2013

生きる目的を持つと苦も楽も両方持つ

土曜日, 6月 29th, 2013

生きる目的を持つことは、その目的成就の結果には成功と失敗の両方を持つことだ。成功すれば楽しく、失敗すれば苦しい。生きる目的には喜怒哀楽もまた引き連れてくるのである。

 数十年前、生きがいという言葉がはやった。同時に、やる気のない世代の若者も生まれてきた。今の十代では「自分が何をしたいのかが解らない」という青年も多い。

 「生き甲斐」とか「やる気」とか「自分が何をしたいのか」という自分自身を問う言葉を分析してみると、それは「生きる目的があるか」ということである。

 生きがいがなくなると、死にたくなる人が多くなり、自殺願望になる。やる気がなくなると、絶望感、悲壮感、空虚感にさいなむ。自分が何をしたいかが解らないと、いらだち、選択できない悩み、孤独感などが生まれる。そうして、みな後ろ向きな生き方しかできなくなってしまう。

 私が十代の時、生きる目的を失ってノイローゼになり、精神病院に一年ばかり入院していたことがある。今のうつ病よりもひどく、幻聴幻覚妄想を寝ていてもそれに苦しんでいた。退院して、一生涯飲むように勧められた薬もやめることができたのは、数学における解らないことはXとして代入して先に進むということだった。Xとし代入することはまた{カッコ}にくくるとも言う。

 絶望した私は生きる目的をXに代入、カッコでくくって、後回しにして、先に生きたのである。そこで絶望からの脱却をしたのである。

 実際、どういう生き方になったかというと、みんながすることと当たり前の仕事をして、生活費を稼ぎ、そして、食事し、ただ生きているだけで満足するようにしたのである。それは鳥や花のように生きていると同じになった。

 その中で小ささ生きる目的がたくさん出てくる。「おいしい食べ物がほしい」「もっと楽しい仕事がしたい」「彼女がほしい」「海外に行ってみたい」などである。しかし、本当に自分がしたいことは解らないので、ずっとXに代入していて生きてきても、再び絶望感に陥ることはなかった。

 というのは、小さな生きる目的であれ、それを持つことはそれがかなうことも、かなわないこともあるのだから、その途中でその喜怒哀楽を持つのはあたりまえだと思っていたからだ。そうして、ようやく六十歳代になって、Xの姿が「自分が一生為すべきこと」として、その成功如何にもかかわらず、見えてきた感じがする。

前文140字、全文1600字以内のブログに

土曜日, 6月 29th, 2013

 どうも僕は文章が長くなるくせがあるようだ。そのため、読む人があきてしまったという報告を受けた。
 その原因を探ってみたら、前回のブログもそうだが、本題を説明するためのサブテーマがまた難解になってしまい、それをわかりやすくするためにまた苦労してかくと、本題を書くとさらにややこしくなる。
 そこで、一つのテーマで統一して、とにかくA4一枚(40×40=1600字)以内にし、記事を書くように、最初に要点だけをツイッターの140文字以内に書く。そして、サブも起承転結の4内容にすれば、読まなくても、さっと目を通すだけで内容が把握できるようにすればいいかもしれない。

神は生きる目的としての象徴という姿が似合っている

土曜日, 6月 29th, 2013

 昔、神を必死に求めたことがある。その時、神は私のすべてであり、生きる目的であった。しかし、神であると思っていた存在が単なる人であると知ったときから、本当の神とは何かを考えるようになった。

 その結果、神とは生きる目的であると知った。以前は神が生きる目的であったが、その後は生きる目的が神になった。

  この両者はともに逆は真ならずで、内容は天国と地獄の差ほど違いがある。

神が生きる目的である(神>生きる目的、神≠生きる目的)
・・・ 神は生きる目的であるが、その逆の、生きる目的は神ではない
 

生きる目的が神である(生きる目的>神、生きる目的≠神)
・・・生きる目的は神であるが、その逆の、神は生きる目的ではない

 これを簡単に言うと、以前の私の生きる目的は神だったけれど、今は生きる目的が神ではなくなった、という意味である。

 そして、生きる目的が神であるという意味は、天皇は日本国民の象徴であるというように、神は生きる目的の象徴であるということである。生きる目的はいろいろあるが、その中の一つである神をそのシンボル(象徴)として扱うという意味である。

 以前、神は生きる目的ではあったが、今は生きる目的の象徴を神という言葉に置き換え、実際の私の生きる目的は神ではなく、家族になり、家族が私の神(生きる目的の象徴)になったという意味である。

 生きる目的とは、いわば時間は常に前に進むので一方通行の関係であり、未来は過去になるが、過去は未来にはならない(未来>過去、未来≠過去、過去≠未来)

 神は天地創造主であると信じた場合、未来=過去 になり、人は石のような固定した生き方をするようになる。しかし、現実に神は見いだせないように、未来>過去であり、人は前に進む一方通行の時間に合わせて、常に過去を悔い改め、未来に期待を持つ生き方をしている。

食べると金儲けの違い

火曜日, 6月 25th, 2013

 食べる、それは分け合うということ
 金儲け、それは奪い合うということ

分け合えば余る

 もう63歳になると、お金を稼ごうとすることの馬鹿馬鹿しさを痛感する。私のメインの仕事は畑仕事とリフォームと店経営である。それはまったくお金にならないだけでなく、かなりのお金が出ていく。

 収入のほとんどは倉庫と駐車場とアパートを貸した賃貸料だけである。その賃貸料だって、借り主が家賃を延滞する人が半分おり、安定的に入ってくるものではない。

 しかし、過去貯蓄した分と併せていけば暮らしに困ることはない。

 そんな状況の中で一番の悩みの種が、家賃滞納者が倉庫にゴミを押し込んでしまっていることだ。退去してもらっても、そのゴミの処分量はかなりの額になることだ。

 そこで、この悩みを分析すると、直接的にはお金が稼げないことだけでなく、赤字になることだ。しかし、今の自分に対処できない金額ではないが、なんとしても許せないのは倉庫をゴミ置き場として放置していることである。

 その滞納者のマンションもまたゴミ屋敷であり、その管理費も数ヶ月分滞納している。ゴミ屋敷の住人はほとんど精神的な障害をかかえているために、そうなってしまうように思える。お金がない問題ではなく、ただお金があっても払うのが嫌なだけである。ゴミも捨てられない性格がひどくなったものである。

 もし、私がお金とは関係なく、このゴミ屋敷の人を助けるだけでなく、社会的にもよくしようとしたら、どんなにお金がかかっても、倉庫のゴミを処分して、もう二度とその人に倉庫を貸さないことである。

 つまり、金儲けしようとしたら、私は悩むが、人助けしようとしたら、私は悩むどころか、楽しくなる。まさにピンチはチャンスである。延滞されることは悩ましいピンチではなく、楽しくなるチャンスなのである。

 これは今蔓延している資本主義の世界全体でもいえて、お金を稼ごうとすると悩み、人助けをしようとすると楽しくなる。

 基本的に今のお金は奪い合うもので、その損得で成り立っている。会社の黒字は得で、赤字は損というわけだ。日本国も資本主義の金儲け主義で、不良品なる原発を世界中にトップセールスをしている。

 赤字は不景気で悩みの種であり、黒字は景気で快適というように、すべてがお金のあるなしで国民感情が動いてしまっている。

 こうした国民意識は「お金がないと食べられない」という金依存症に陥っているといえる。お金を実際食べることができるだろうか? 食べることができるのは食料であって、お金をその食料と交換する証券にすぎない。

 しかし、現実にはお金がないと食料を得ることはできないため、お金がないと食べていけないと思いこんでしまう。

 相田みつを「分け合えば

 うばい合えば 足らぬ
 わけ合えば あまる

「「わけ合えば」

  うばい合えば足らぬ
  わけ合えばあまる
  うばい合えばあらそい
  わけ合えばやすらぎ

  うばい合えばにくしみ
  わけ合えばよろこび
  うばい合えば不満
  わけ合えば感謝

  うばい合えば戦争
  わけ合えば平和
  うばい合えば地獄
  わけ合えば極楽」

 世界中の食料をもし分け合うならば余るくらいあるけれど、現実世界は金儲けのためにその食料を奪い合って、贅沢して太る人と飢餓で亡くなる人がいる。お金のない人には食べ物が足りなくなっている。

これは今のお金のシステムが奪い合う自由市場になっているからである。

 もし、4人の人がいて、そこに食べ物があれば、みんなで分け合って食べて楽しむだろう。しかし、もし、そこにお金があれば、みんなで麻雀して、そのお金を奪い合い勝ち負けを楽しむだろう。

 この地球上で人類が他の動物よりも進化して、一番繁栄できたのは、食べ物を分け合って生き抜く知恵をもったからである。

 金儲けで奪い合うと悩みはつきることはなく、食べ物を分け合うと、悩みはなくなり楽しみになる。

 これは個人でも、社会全体でも、お金の依存症から脱却して、食べ物を分け合うような生き方に変えれば、悩むことなく楽しく生きられる人が多くなるだろう。

 ただ、奪い合うことは常に地獄ではない。サッカーでボールを奪い合って勝敗を決めるのは楽しみであり、それは天国でさえある。そのため、こういうことがいえるだろう。

 お金を食べ物のように分け合えば極楽
 お金をボールのように奪い合えば地獄

 今、お金のシステムを根本的に変えねばならない時期であり、それが人類がこの地球上で今後も繁栄できるか、滅亡するかの境目にきている。

稲をオオキンケイギクのように育てよう

土曜日, 6月 22nd, 2013

 夏草の種類は多く、雑草においてもその生存競争は激しい。
 夏草である稲を育てる場合、雑草との生存競争を戦うのだが、人間が雑草をとらないと負けてしまう。
 しかし強い雑草に勝つ特定外来生物のオオキンケイギクがある。
オオケイギク1
 道路沿いにきれいに彩る花はとても雑草には思えない。毎年、きれいに咲くので、刈るのもはばかれる。

 このオオキンケイギクのように、主食である稲が、強い雑草よりもはるかに強く繁殖力が強かったら、農薬も機械も必要がなく育てることができるはずである。

 しかし、今の稲は人間の手を借りなければ生育できないペットのような生物であり、それに人は頼って生かされている。人が田圃を造って稲の苗を植えなければ、そこは雑草がはびこる荒れ地になる。

 それは人は働かないと食べていけないような仕組みを作ってきてしまったようなものである。どんな草花だって元は雑草のように人手を借りなくても生きられたであろうし、人もまた、エデンの園のように、働かなくても、そこにいつでも食べ物があってそれを食べていけることができたと想像できる。

 人が雑草を殺し、稲だけを育てようとして、稲本来の生きる力を奪ってしまったのではなかろうか。稲は人に依存して生きるしかできなくなってしまった。

 人が稲やその雑草に対して、間違った力を加えたために、「働かなければ生きていけなくなった」のではなかろうか。

 もし、人が雑草よりも強く生きられるオオキンケイギクのような稲を育てようとしたら、こんなに汗水たらして働く必要はなかったのではなかろうか?

 お金のシステムだって、「働かなければ生きていけない」ようなものになっているが、それは「貸した金は利息を付けて返すのが当然」ということにしたために、そうなってしまったのではないか。

 お金は「奪い合えば足らなくなり、分けあえば余る」というシステムにすれば、「働かなくても、みんな十分に生きられる」ようになれるのではないだろうか?

 例えば、稲がオオキンケイギクのように道ばたにいくらでも育っていれば、米を金のように奪い合うことはなかっただろう。お金はただ紙に印刷しただけのものにすぎないことを忘れてしまって、その損得で奪い合っているから、いつでも足りないで苦労しているのではなかろうか。

 人は金と労働の依存症になってしまった。その依存症から脱却するには農薬や機械や金や労働に依存しなくても、育つようなオオキンケイギクのような稲を育てることから再出発することが一番必要な気がする。

実体経済と金融経済の循環は分離すべし

火曜日, 6月 18th, 2013

 今まで、復興カード・e中銀件・BASIC貨幣として、お金そのものに貯蓄税をマイナスの利息のように課金し、それを国民全体に等しく分配するシステムを提唱してきた。

 その場合、貯蓄税を逃れようとして、商品に投資するため、どうしても、同時に商品の保有税が必要になり、貨幣の貯蓄税と商品の保有税は同時に実施せざるをえない。

 また、日銀券とは別に新マネーとして電子マネーを発行する必要が出てくる。この3つの改革はかなり急激なので、そのシステムを導入する前に、今の日銀券と、今の税制で、その素地を造ることができる。

 それは国が貨幣を発行するのではなく、中央銀行である日銀が発行しているという仕組みをそのまま活用するのである。

 国の事業と税収はいわば国民サービスを提供する日本株式会社のようなもので、収支のバランスを合わしながら運営している。これは実体経済を中心に動いている。

 国は貨幣を発行できないため、税収が足りないときは国債を発行して運営している。この国債は1000兆円にもなり、国民総数1億2千800万人で割ると、一人あたりの借金は781万2500円となり、年利が1%としたら、年10兆円(国民一人あたり年7万8千円)である。もし、4人家族だったら、4倍で、借金は年3125万5千円(利息年31万2千円)であり、あなたの年収が3000万円あったとしても、すべて借金返済に消えて、生活費はゼロで生活はできない状態である。

 もし、家族4人の最低生活費が年400万円必要だったら、国民年収平均3525万5千円なければ日本株式会社は倒産してしまうことになる。

 しかし、現実は倒産していないのはどうしてだろうか?

 私は30年近く便利屋をやってきたが、社長であっても月20万円稼げたらいい方だった。IT産業で月収数億という社長もいるのはどうしてだろうか?

 現実に独立して、商品販売やサービス業だけで、まじめに生活するのは生活保護くらいの年収がやっとだろうと経験的に推測する。みんなは一体どうしてそれ以上の収入を得ることができるのだろうか?

 これらの収入は実体経済ではなく、金融経済からである。大企業のほとんどが株式や為替らの売買による利益を得ているからであろう。貨幣流通は、10%が実体経済であり、90%が金融経済だと言われている。この1:9の比率で、我々の生活が成り立っているとすれば、なぜ借金1000兆円もあるのに、倒産しないのかが理解できるのである。

 家族4人の実体経済の平均年収400万円だとしたら、その金融経済の平均年収は9倍の3600万円あることになる。年借金3125万とその利息31万円払っても、十分やっていける計算である。

 この金融経済を支えているのは借金である債権の売買である。株式も為替もこの債権が変化したものである。1000兆円の国債も現金で売買できるので、それは通貨ともいえる。例えば、会社を売買するときに、現金ではなく株式を使うように、債権もりっぱに通貨として成り立っている。借金も貨幣なのである。

 
 貨幣の9割が金融経済であり、それを支えているのが貨幣を発行している中央銀行である日銀である。国は貨幣の1割である実体経済を運営している。ならば、貨幣そのものに課税する貯蓄税は金融経済に対してであり、その税収は貨幣発行元である日銀がしなければならない。国は実体経済を管理するのだから、それは商品の保有税をかけるだけでよい。実際に不動産の保有税などが行われている。

 そもそも日銀は市中銀行に発行した貨幣を貸し出すことから始めている。その時点から、日銀は貸し出した貨幣のすべてを回収する責任を負うことになる。それでないと、貨幣は正常に流通しなくなる。

 日銀が市中銀行に貸し出す金額はその資産の9倍、証券会社が株売買の資金の9倍貸し出す、これが実体経済1に対して金融経済9の割合になる。我々が、家をローンで買うときに、手持ち金1000万円あったら、その9倍の9000万円の家がもてるようなものである。

 この9倍の貸付金には金利がつく。この金利が平均1%であったとすると、日銀は貸し付けた元金と金利1%を回収する責任を負うことで始めて流通することができる。この元金と1%利息の日銀返済することを、国の税金に対して、発行元に貨幣が帰るとして、帰金と名付けてみたい。

 この貨幣を国民の血液とするなら、日銀は国民の心臓である。国民の細胞すべてに酸素と栄養と交換できる貨幣を与え、そして心臓の日銀にもどし、また、国民すべての細胞に貨幣を流すのである。

 国民すべてに等しく貨幣を配ることはベイシックインカムであり、その財源は金から金を生み出す金融経済からである。この金融経済をなす債権の期限が平均10年で、年利1%とすると、元金回収は持っている金融商品の年10%の帰金であり、その売買に対して、両者から1%の帰金を徴収する必要がある。

 その帰金が一年間で回収された金額を国民総数1億2千800万人で割った金額がベイシックインカムとして等しく配布される。それはベイシックインカムとしての最低生活保障としてではなく、国民が明日に挑戦する投資金である。それは麻雀をするときには、全員に同じ1万5千点配布して始めてゲームができるようなものである。

 麻雀でどんなに差がでても、全員でゲームを再開するにはそれが借金であっても、なくても、かならず1万5千点が与えられるようなものである。

 ベーシックインカムを最低生活保障として月いくらとして、その財源を消費税とかして実現しようとするには無理があるだろう。実体経済が1割、金融経済が9割あるという現実に合わせて、各国民の基本投資金として配布、その財源は金融商品(債権・株式・通貨など)の保有帰金年10%とその売買における双方への1%の帰金とすれば、みな生活をゲームとして楽しめるようになるだろう。

  

 

貨幣発行はその回収あっての流通だ

日曜日, 6月 16th, 2013

 貨幣は次の原理で循環する。

米1粒=貨幣1円=国民1人

国民の生産消費量=貨幣流通額=国民総数

 現在の日本のデフレは

国民の生産消費量>貨幣流通額=国民総数(米1粒>貨幣1円=国民1人)

 なお、貨幣発行総額=貨幣流通総額+貨幣滞留(貯蓄)総額 である。

もし、100兆円貨幣を増刷して、国債を買ったとする。

 100兆円→国債→外貨→株式→商品取引 その金融商品の売買差益を狙って、ギャンブルが繰り返される。

 たまに儲けすぎた投資家のおこぼれ1兆円が高級品中心の実質経済に流れる。

貨幣発行増額=金融市場流通額>実質経済流通額>国民総数

 一部の金持ち国民がデフレから脱し、多くの国民はデフレで苦しむことになる。紙幣増刷した分は金儲け遊びをするギャンブルコインになり、実質生活は、夫がギャンブルに狂って、ちっとも働かないで困った母子の姿のようになる。

では、どうしたら、実質経済を安定させることができるだろうか?

これは、本来の貨幣原理にもどすのである。

国民の生産消費量=貨幣流通額=国民総数(米1粒=貨幣1円=国民1人)

そして、100兆円貨幣を増刷し、国債を買って金融市場に貨幣を流すのではなく、実質市場に直接流すのである。金持ちの投資家ではなく、貧乏人の消費者に流すのである。生活保護費、国民年金、健康保険などの社会保障費に直接流す。

 そして、100兆円の増刷分は金持ち投資家に増税するのである。金融商品の売買における消費税である。株式でも為替でも手数料を3%証券会社や銀行がとったとしたら、1%の金融売買消費税をとり、投資家から4%徴収し、1%を、国ではなく、貨幣を発行した日銀へ納めるのである。

 貨幣発行額=貨幣回収額=貨幣流通額=国民総数

貨幣は国民の血液であり、全体に酸素と栄養を与えることによって、国民の身体が常に健康に保てる。

貨幣を発行できる唯一の日銀はその発行した貨幣をすべて回収し、また発行する責任をもつ。それは国ではなく、日銀がすべきことである。国における事業と税収は単に会社の収支である。

貨幣の発行回収による流通責任はその発行者である日銀だけである。そのため、今まで発行した貨幣すべてを回収流通する責任は日銀にある。そして、回収する額を国の収入の税金とは別であるから、日銀に帰る金という意味で、帰金という名で、証券会社や銀行から、返済金のように徴収させればいいだろう。

 日銀が生活困窮者に直接貨幣を無償で援助することは国債を増やすことではない。それは貨幣発行者としても義務であり、投資家からの帰し金をとることは責任である。

 
 
 

空し除草と除染

土曜日, 6月 15th, 2013

 水稲の畑作をして、何度も雑草をとったが、水稲は成長が進まず、雑草の下に隠れて枯れる運命だ。それでも、ひょっとしたら、雑草さえ除けば水稲は生き返るかもしれないと、雑草をとっている。

 そんな作業はまるで福島の原発事故による放射能汚染の除染と似ている感じがした。それは先がみえない作業で、実に空しい感じがしてやりきれない。

 そして、思い切って、除草をやめ、水稲の畑を全部耕耘しなおして、別な夏野菜を植えた方がいいと思うようになってきた。しかし、いままでの水あげや草刈り、種籾の芽だしなどの苦労がみな水の泡になることがしゃくにさわる。

 放射能の除染だって、一部をやっても、まわりが汚染されていたら、まわりから入り込む。それに除染したゴミを安全に捨てる場所などこの地球上にはない。でも、除染しなければそこで暮らせないし、仕事もできない。こうしたジレンマをどう解消したらいいのだろうか。

 水稲の畑作は無理であるが、陸稲の畑作はよく育つ。

 この単純な原理を除染にも応用しようではないか。原発を造ることは水稲を畑で作ることと同じで無理なのである。事故における放射能汚染を解決できないような原発をそもそも造ることはできない。その原発ゴミだって、地球上のどこにも捨てる場所はないのだから、原発は造れないのは当然である。

 だから、空しい除染をやめて、原発事故の第一原因に戻るのである。原発を廃棄することが今後もっと大きな原発事故に遭わないようにして、地球を汚染させないようにすることだ。原発を稼働すれば、燃料のウランの1億倍もの強い放射性物質が造られるから、そく停止し、廃棄することが先決である。

 そして、空しい除染はあきらめ、その土地はすべて汚染された土地でも稼働できる太陽光発電地帯などに切り替え、汚染されていない土地で住み、仕事をするようにすることが先決だろう。

 そして、原発廃棄と放射性廃棄物の処理の技術を磨いていくしか、今後の道はないだろう。

 さて、私は水稲の畑作をあきらめて、その除草をやめ、別な黒豆や小豆、大豆をそこに蒔くことにしよう。

 

 

水稲の畑作の限界

土曜日, 6月 15th, 2013


 台風がきて、雨が降って水揚げをしなくてすんだが、雑草をとってから一週間もすると、もう水稲は雑草の10分の1くらいになり、ほとんど負けてしまった。水稲自身が大きくならないで、成長しなくなった。もう水稲の畑作の限界がきている。

 一方陸稲は雑草に負けないで同じように生長している。成長は雑草の5分の1くらいだが、成長をとめることはなく、雑草と共存できる勢いがある。

 水稲の畑作はその雑草をとっても成長をやめてしまうが、陸稲は雑草もとっても、とらなくても成長をしている。

 やはり、品種と環境の相性が命のバトンをさせているのだろう。

 家で育てた稲の苗を畑に植えてみたが、水稲も陸稲もみな細くなって、枯れていっている。稲の畑作は種まきでないとうまくいかないようだ。

 麦は冬に成長するので、競争する雑草がいないが、夏草は競争相手が一杯である。そのため、麦は雑草を抜く手間がかからないし、病気にもかかりにくい。もし、稲を麦のように簡単に育てるには、稲を冬草にする品種改良をすれば可能だろう。夏草を冬草にするにはかなり無理があるので、そんな品種改良はしないで、雑草と共存する陸稲の品種を改良すれば一番自然の摂理にあっているように思える。

 雑草をとるのは大変な作業で、ほとんど毎日しないと、追いつかない。そこで、どうしても除草剤を使ってしまうようだが、それはかなり危険な代償を負うようになるようだ

 除草剤に頼らないで、雑草と共存できる道を探したいものである。

個性と環境を稲から学ぶ

日曜日, 6月 9th, 2013

 私は動画編集ができないので、10分の舞台のように撮影している。

 昨日、ツイッターで、突然変異は99%の努力と、1%の運によって起こると書いた。これは稲が生きようとする力が努力であり、自然の力が運であるという意味である。

 今、水稲の種で畑作、陸稲の種で畑作をして、比較してみた。その結果はまったく予想外の途中結果ができた。

 前世が水稲の種だった稲の畑作は雑草に負け、また水分をかなり必要としていて、水はけのいい畑では成長を止めてしまっている。

 一方、前世が陸稲だった稲は今生の畑作では雑草にまけず、また、水もさほど必要とせずぐんぐん育っている。

 また、洗面器で、雑草が生えない黒土で育てた水稲はよく育ったが、陸稲は茎の下が枯れ始め、病気になってしまって、育たなくなっている。

 陸稲の種でも、空気のない狭いバケツで浸水させて1ヶ月も芽が出なかったが、急遽大きな水槽に移して芽を出させた種は10分の1くらいしか成長しなかったが、病気して枯れることがなく、育っている。

 麦の実り方も、畑の環境がいいと思われる場所で育った麦穂は貧弱で実は少ないが、荒れ地という環境で育った麦穂は大きく立派に育ち、実も大きい。

 稲の品種は人間でいえば個性であり、その育て方は環境である。環境が良いからといってよい人間が育つとは限らないし、また、環境が悪いからといって、悪い人間が育つとは限らない。

 そして、個性が天才のように良いからといって、どんな環境にも育つとは限らないし、また、個性が鈍才のように悪いからといって、どんな環境にも育たないとは限らない。

 そういう結果がこの陸稲と水稲の稲の育ち方からいえそうだ。

個性と環境は、その個性とその環境が合ったときに花開き、個性と環境が合わないと花開かないといえる。

 個性が環境に適応しおうとするのが生き抜く努力であり、環境が個性を引き出すのが運であり、いわばそれが突然変異するといえるだろう。

 世界の種を牛耳ろうとするモンサント社が開発する遺伝子組み換え作物は人間が放射線を使って、強制的に遺伝子を組み換え、農薬とセットにして、雑草を殺すが大豆は殺さないような遺伝子を組み替える。

 ここには、大豆が環境に適応しようとする生き抜く力を無視してしまい、その個性と環境を一定に作り出す、それはいわば放射線で突然変異による奇形児を作り出すようなものである。

 大豆も人間も同じ生物としたら、あなたはモンサント社における遺伝子組み換え人間になろうと願うだろうか? あなたの個性はモンサント社が支配し、あたなの環境はモンサント社が作るとしたら、あなたは人間ではなく、モンサントに飼育されたペットになってしまうだろう。

 稲も人間も、その個性とその環境の相性で育っていく。そして、いろいろな稲があり、いろいろな人間がいてこそ、地球全体が調和され、命のバトンがうまくいっているといえるだろう。