生きる目的を持つことは、その目的成就の結果には成功と失敗の両方を持つことだ。成功すれば楽しく、失敗すれば苦しい。生きる目的には喜怒哀楽もまた引き連れてくるのである。
数十年前、生きがいという言葉がはやった。同時に、やる気のない世代の若者も生まれてきた。今の十代では「自分が何をしたいのかが解らない」という青年も多い。
「生き甲斐」とか「やる気」とか「自分が何をしたいのか」という自分自身を問う言葉を分析してみると、それは「生きる目的があるか」ということである。
生きがいがなくなると、死にたくなる人が多くなり、自殺願望になる。やる気がなくなると、絶望感、悲壮感、空虚感にさいなむ。自分が何をしたいかが解らないと、いらだち、選択できない悩み、孤独感などが生まれる。そうして、みな後ろ向きな生き方しかできなくなってしまう。
私が十代の時、生きる目的を失ってノイローゼになり、精神病院に一年ばかり入院していたことがある。今のうつ病よりもひどく、幻聴幻覚妄想を寝ていてもそれに苦しんでいた。退院して、一生涯飲むように勧められた薬もやめることができたのは、数学における解らないことはXとして代入して先に進むということだった。Xとし代入することはまた{カッコ}にくくるとも言う。
絶望した私は生きる目的をXに代入、カッコでくくって、後回しにして、先に生きたのである。そこで絶望からの脱却をしたのである。
実際、どういう生き方になったかというと、みんながすることと当たり前の仕事をして、生活費を稼ぎ、そして、食事し、ただ生きているだけで満足するようにしたのである。それは鳥や花のように生きていると同じになった。
その中で小ささ生きる目的がたくさん出てくる。「おいしい食べ物がほしい」「もっと楽しい仕事がしたい」「彼女がほしい」「海外に行ってみたい」などである。しかし、本当に自分がしたいことは解らないので、ずっとXに代入していて生きてきても、再び絶望感に陥ることはなかった。
というのは、小さな生きる目的であれ、それを持つことはそれがかなうことも、かなわないこともあるのだから、その途中でその喜怒哀楽を持つのはあたりまえだと思っていたからだ。そうして、ようやく六十歳代になって、Xの姿が「自分が一生為すべきこと」として、その成功如何にもかかわらず、見えてきた感じがする。