Archive for 7月, 2012

所有権とエゴ

日曜日, 7月 29th, 2012

 お金を自然循環させるためには、現システムにおける、お金の利息付き貸借循環と対比、また類するように、マイナスの利息をかけ、それを貯蓄税として、お金の真の発行者である国に戻し、そして、それを社会保障費として国民全体に分配することである。

 その際、紙幣やコインではそれを保有貯蓄することで、マイナスの利息である貯蓄税をかけることができないため、脱税や所得格差が不正に増大してしまうため、電子マネーでなくては、税と社会保障の循環は実現できない。

 そこで、もしお金の保有そのものに課税し、税と社会保障の一体改革をした場合、金持ちはどんな手段でさらに儲けようとするだろうか?

 中国が紙幣を信用せず、モノである金に変換して、財テクするのと同じ方法がとられるであろう。それは過去金本位制があったためであると考えられる。金でなくても、不動産などに投資して、財テクするだろう。

 お金をモノや権利に替えておけば、お金を保有することで、マイナスの利息として、税金がとらえ、いつしか無くなるおそれがないからである。

 金や不動産はいわばモノの所有権のことである。国の差というのはその領土の所有権のことであると言ってもいいだろう。

 金や不動産や領土などの所有権とは一体何なのだろうか?

 もし、勝手にそれらの所有権を主張すると、大小あっても、最終的に殺し合いの戦争に発展する。それは動物のなわばりを守ろうとするような死闘する戦いになる。弱肉強食の原理である。

 この勝手に自分の所有権を主張することをエゴという。このエゴが諸悪の根元になり、社会が崩壊する原因にもなっている。

 そこで、エゴを取り除くために、個人の所有権を無くしてしまい、すべて国家の所有権にしたら、はたして平和社会になるだろうか? その答えはノーであり、すでに世界歴史が社会主義・共産主義の失敗として、その残骸のような北朝鮮のように、一族の独裁君主制になっていることで証明されている。

 それは個人でなければ社会という二者択一判断に間違いがある。個人とは自我を持つ人間のことであり、その反対は自分とは反対という意味で他人のことである。社会とは個人の集まりのことであり、社会や国は個人の反対ではなく、ただ個人の集まりの大きさの違いにすぎないのである。

 公とか、社会とか国とかいう個体のような存在はないのだ。

 試しに、この公園はみんなのモノであるという看板を立てておく。ある時、エゴのある者がやってきて、そこにビニールハウスを建てたり、ゴルフ練習場にしたとする。そこで、あなたが彼らに文句を言うとしたら、きっとこう答えが返ってくるだろう。

「ここはみんなの公園である。だから、私がビニールテントを建てようと、ゴルフ練習をしようと勝ってではないか。君もそうしたかったら、そうすればいいではないか。俺の横でもいいよ、仲良くここを使おうではないか!」

 これは先住権と同じで、先にその所有権を長く主張した者がその所有権を持つことができるというものである。

 自分では文句がいえないので、公園の管理人である国に提訴して、ビニールテントを撤去させるだろう。この場合、公園の管理人とはみんなの代表者として信任された者のことである。けして、社会や国という存在ではなく、信任された個人のことであり、その信任もまた、武力や金でその権利を持つことだってできるものであり、それが独裁につながるのである。

 みんなの公園として管理するには、公園でできる内容が規定され、それ意外の使用をした場合、罰金などをかすことで平和になる。

 所有権とはみんな(社会)から認可されることが条件である。エゴはみんな(社会)から認可されていない所有権のことである。

 この所有権の維持には不動産のように固定資産税を納めなければその権利を失うようにすると、モノはみんなに多く平和的に流通することになる。

 みんなの公園で、もしビニールテントを建てたければ、期日を1日そして、使用税を数千円払うようにすれば、みんなの使用も可能になる。

 金銀財宝でも同じで、どんなモノの所有権も、所有期限や税金をかけることで、お金の自然循環のように、モノやサービスも自然循環できるようになるだろう。

 お金もモノもサービスもその保有に関して、その期限と保有税がかけられ、、それを社会保障や公共事業に回せるようにシステム化(法制化)すれば、この国もみんなの国として使用がしやすくなるだろう。

あきらめも肝心

土曜日, 7月 28th, 2012

 

 毎日、稲の芽を守るようにして、雑草を抜いていたが、雑草の生育が激しく、それは無理だとあきらめざるをえなくなった。現在ほぼ稲の芽は全滅したようだ。

 自然農では雑草は採らないのが原則だ。

 雑草を抜くにあたって、せめて実を落とさないようにとしたが、それもまた、数があまりにも多くて、あきらめざるをえなくなった。

 このままいけば、大豆だけが実ることになる。麦と稲の二毛作を畑作では無理のようである。それは麦が枯れ、稲の種を蒔く時期が二ヶ月ほどずれているからだ。

 この解決方法は水田である。麦が枯れる6月に、4月から稲苗を栽培し、田植えする方法が雑草と鳥に勝つことができるからだ。

  うちの畑は水が引けないので、棚田は無理のため、陸稲にせざるをえない。そのため、来年に麦が枯れる前から稲の種を蒔くようにしたら、どうなるかを、最後の挑戦にしたいと思う。それでダメだったら、麦と稲の畑作二毛作はあきらめた方がいいように思う。麦と大豆の二毛作は雑草や鳥にまけないで栽培できるからだ。

 物事を成すには、そこへの集中力が必要であり、それは、自分の目的を一点に絞ることである。何をあきらめ、何をあきらめないかは、一点に絞ったものをあきらめないで、その他をあきらめるということが必要だということだろう。

 また、あきらめの基準としては、それは自然の摂理にかなっているかどうかを検討することである。雑草が生えるのは自然のことである。その雑草を刈るというのは人工的である。

 雑草を抜き取るときには稲の苗も一緒に抜き取ってしまう。また、雑草を抜くと、大豆の茎は倒れてしまうのだ。通常、大豆が倒れないように土あげするが、私はしないので、雑草を大豆の支えにする。その姿をみていると、雑草と大豆はお互いに支え合っているように思われる。

  大豆のような豆科は根にチッ素をためることで、緑肥になる。そのため、麦や稲のようなイネ科と豆科はお互いに支え合うことができる。

  イネ科同士はその生育期間が同じ期間であれば、一緒に成育できるが、もし、同じ時期に植えた稲の6ヶ月と雑草の3ヶ月では雑草の方が強く、稲を負かしてしまう。

  こうした1年を通じた作物の相性を考慮することが自然農であるといえそうだ。

 P.S.

 陸稲でも、水田と同じく、苗を2ヶ月間育てて、麦刈りした後すぐに植えれば、雑草負けすることはないと思われる。この方法は昨年やったのだが、苗に大量の雑草が入りこみ、その仕分けそして、移植する時期を遅くしてしまったことで、全滅した経験をしている。

 もし、苗をしっかりと育成し、畑をきちんと耕して、移植しやすくしておけば、確実に麦と稲は栽培できそうである。そこで、来年の4月に、半分を麦の下に直播きし、半分を苗を作って移植する方法で、実験してみたいと思う。 

 また、雑草の種が落ちないようにする時、麦の種をばらまくときに、雑草を肥料にする際、雑草の上の種の部分だけをまず刈り、それは焼却し、下の草と根の部分は膣と混ぜて肥料にすれば、翌年の雑草の繁茂を押さえることができそうである。

 これでダメだったら、麦稲二毛作はあきらめようと思う。

 

 

 

 

宇宙人は存在するのか

金曜日, 7月 27th, 2012

 大坂の知人が電話で宇宙人のことを3時間ばかり話しをした。彼は宇宙人が人類を一種の実験動物のように観察していると信じて疑わない。

 そもそも宇宙人なるものが存在するかどうかである。

 この問題は私の中では長いこと、「この広い宇宙の中で、人類だけが存在するとはありえない」という答えだった。しかし、知人のおかげで、この答えをさらに展開してみた。

 宇宙人はいまだかって、その存在を確認されたことがない。しかし、この無限に広がる宇宙の大きさに対して、その確率からいえば、人類と同じような生物がいてもおかしくないと想像する。

 問題はこの宇宙人がいる確率である。今、地球と似た環境だと思われる星がいくつか発見されてはいるが、地球とまったく同じ環境の星は発見されていない。

 確率的に、この広い宇宙の中で、地球と似た環境といえば、この太陽系の中の金星か火星や月がそれにあたるだろう。水の存在さえ、発見しにくい差からみれば、太陽系以外に人類と同じ宇宙人が存在する確率は低くなる。

 こうした確率を展開すると、一人一人の自己は人類70億人の1の確率で存在し、しかも、地球の年齢46億年の一個人の寿命80年として、その個人が存在する確率はさらに、6億分の1になり、420億分の1の確率で自己が存在している。

 この人類の中の自我の確立と、宇宙の中の人類の確率を比較してみたら、はるかに、宇宙の中の人類の生存の確率の方が小さいと思われる。

 我々が生まれ死んでいく確率が奇跡であるように、宇宙の中で人類が生存しているのはもっと大きな奇跡であると言っていいのではなかろうか。

 つまり、この広い宇宙の中で人類と似た存在がいてもおかしくない。しかし、それは逆に、宇宙人がいる確率は低く、現在はほとんどいないと判断してよいということなのである。

 宇宙人の姿はみな動物と人類をかけあわせたような姿になるのは、人類が経験した生物の模倣という想像に域を出ないということであろう。

 宇宙人が想像の産物のように、幽霊もまた想像の産物であると言っていいだろう。

 もし、あなたが、ミジンコのような微生物であったなら、人類をどんな姿に想像するだろうか? きっと、人類をミジンコに似た姿に想像するだろうと思われるからである。

 宇宙人の存在を論議する上で、何が大事かというと、これから人として生きていく上で、どんな判断をしていったらいいかということであろう。宇宙人の存在のあるなしが大切ではなく、宇宙における人類の生存、そして、自我の存在は奇跡の産物であると、観じて生きていくことであろう。

 この世でもっとも尊いことは人類の生存であり、その自我の存在であるとして、社会を構築することだろう。

 

ペイ フォワードをお金にすると

水曜日, 7月 25th, 2012

 ペイ フォワード(Pay it forword・可能の王国)

 ある中学生が社会科の課題で、善行を3人にほどこすと、それを受け取った人がその恩を返さずに、別な3人に善行をほどこさなければできないという、善行の輪を世界全体に広げれば、世界は変わるというシステムを考え、実行したという映画である。

 この善行をネズミ講のように広げようというのは、幸福のチェーンメイルのようである。

 これが実際に可能かというと、映画でもそうだったが、一時は広がるが、それがとだえてしまうようだ。

 この善行の輪というのはお金のシステムに実に近い。善行の輪は「受けた善行は3人にほどこさなければできない」というルールのように、お金は「借りたお金は利息を付けて返済しなければならない」というルールで動いている。

 このお金のルールは法律で守られて初めて実現可能になるが、幸福の輪のルールは法律で規制されていなく、単に個人個人の倫理観で規制されており、また、何が善であるかははっきりと把握しにくいからである。

 このペイ フォワード(善行の輪)をお金のシステムに変換すると、善行はお金になり、そのお金を3倍にして、くれた人以外の人にそのお金をあげるというものになる。

 善行をお金に変換して、その輪が実現可能かどうかははっきりと推測でき、お金自体を3倍にすることは不可能であるため、善行の輪は不可能であるという結論ができる。

 しかし、お金(善行)を3倍にしないで、そのお金をくれた人以外の人にあげるという善行の輪であれば実現可能になる。

 お金と善行の根本的違いは、
 お金は借りた金は返すという恩返しであるが、善行は恩をその人に返さず、他人に返すことにある。

 もし、お金を善行の輪のようなシステムに変革したらどうなるだろうか?

まず、お金はモノやサービスの値段(値札・価値)であり、お金自体は増えも減りもしない。それを増えも減りもすると、いろいろなハカリと一緒で、安定的にモノやサービスの価値を表現することができなくなる。

 善行を3倍に返すルールが難しいように、お金を3倍に増やすことも、また借りた金を利息分増やして返すことはできない。お金でお金は稼げないというルールが基本になる。

 お金の貸し借りは恩返しの原則であるから、恩返しはできない原則にするには、お金の貸し借りはできないというルールにする必要があり、貸借に代わって、授受になり、無償の善行になる。

 三番目はお金はモノやサービスの対価として交換されるものとして発案されたが、それを善行にするには、そうしたモノやサービスとの交換道具とは関係なしに、別な授受の機能を付けると善行の金の輪が可能になる。

 例えば、ストアで、パンを買って、その代金100円を支払った場合、お金の授受があったのではなく、単にモノとの交換があっただけで、お金の授受があったとはいわない。

 モノやサービスのような交換を要求しないような無償の寄付金が善行の金の授受になる。

 これらをまとめれば、善行の金の輪はもらった寄付金と同額だけの寄付を困っている人に与えるという輪である。

 これを動かすのは法的規制ではなく、個人個人の倫理観であるから、流通することは難しい。誰かに寄付してもらってすぐに事故でなくなる人がいることがあるからだ。個人個人の倫理観だけで社会のルールは維持できるものではない。

 では、善行の輪をお金に変換するにはどうしたらいいのだろうか?

 それが減価するお金(貯蓄税付きお金)の電子マネーの発行になる。

 無償の善行とはその人に恩返ししないで、その人以外の他人に与えるお金のことである。他人を全部総称すると、自分以外の公のこと、社会全体のことになる。

 これはお金の発行と廃棄を想定すると、理解しやすい。

 例えば、パンの価格100円を発行するには単に紙を印刷または金属加工すればよいので、お金の財源とは無であり、いくらでも印刷鋳造できる。もし、パンを買うお金100円を河に投げ込み廃棄しても、また100円のお金を鋳造できる。

 社会を維持するためには、廃棄した分のお金を発行するだけでよいのだ。

 それはもしあなたがアフリカの飢餓の少年に100円を寄付したければ、あなたが持っているお金を河に捨てればいいということである。廃棄された100円のお金は国が発行し、その100円をアフリカの飢餓の少年に寄付することで可能になる。

 100円のコインは河に捨てても拾われ使われることが心配なら、100円を国に寄付すればよいことになる。

 寄付金は個人個人の倫理観であり、それは社会的維持には結びつかないため、寄付金ではなく、強制的に寄付させる税金にすることで、善行の輪を作るお金がシステム化することができる。

 もちろん、このシステムは税金が社会全体のために使われるという前提が必要であるが。

 善行の総称をお金にすると税金になり、その税金をシステム化すると、所有するお金の数パーセントを強制的に税金にして、社会保障にまわすことになる。

 これを可能にするためには、貨幣を紙や金属では自動的に税を徴収できないので、
自動的に税を徴集できる電子マネーでなくてはならない。電子マネーだと、発行と廃棄が簡単にできるだけでなく、善行の税金の自動引き落としも簡単だからである。

 例えば、自分の持ち金の年10%の寄付(善行金)を強制的に徴集する税金にすることは簡単にでき、国がお金を発行とそのお金をまわすような税制は電子マネーでは簡単にでき、1000兆円の借金返済に、消費税をかけることも必要なくなる。

 善行の輪には金の貸し借りはできないし、社会事業を可能にするにはお金は授受でなくてはならない。まして、貸し借りの発生する利息は格差拡大と、エゴの拡大させる悪の社会を拡大するだけである。

 お金がモノとサービスの交換を安定させるには、貸し借りがあったとても、それは無利息にすることが必須条件になる。ハカリは常に変動したら、ハカリの役目をはたせないようなものであるからだ。

 

老後の人生とは散りゆく桜の花びらのよう

土曜日, 7月 21st, 2012

 第二の人生とかいうように、人生には少年における第一の人生、成人になる第二の人生、そして、老人になる第三の人生があると思える。

 第一の人生が自我の芽生えで養育される時であり、第二の人生が自立する時で、社会を構築する。そして、第三の人生が死後の事を準備する時だろう。

 成年の時に、どう生きるかと必死な時であるが、老人になると、大体一生でやりたいこともやってしまった時に、残された人生をどう生きるかということを考えることになる。

 成人の目的は生きることだが、老人の目的は武士道のような死ぬことである。それは人生を山登りと譬えるならば、登りが生きることであり、下りが死ぬことである。そして、出発地点つまり生まれる以前のところに帰るようなものである。

 それはリターン人生のようなもので、老人を60歳とするなら、それ以上年齢が嵩むとマイナスになり、ー1歳ずつ若くなる。それを成人の59歳対して、老59歳と表現してみたい。

 それを計算すると、老0歳は成人120歳になるが、山登りのように登りに比べて下りは楽にしかも早く目的地に着く。平均寿命が80歳とするなら、3倍のスピードで年齢が進むことになる。

 私は今成人61歳であるから、マイナス1歳の3倍のマイナス3歳になるから、老57歳だ。誕生日が10月なので、後2ヶ月で老54歳になるようなものである。

 もちろん、人の寿命はまちまちなので、自分なりの老人年齢が計算できそうだ。

夢の扉特別編 20年後の君へ が先日放送されたが、癌であと6ヶ月から1年の命しかない仕事ばかりの父親が、離れていった妻や息子と娘の夢の実現の後押しをするドラマである。

 それは娘の3歳の誕生日の家庭ビデオが象徴的にそのドラマ全体を表していた。
父親は3歳になった娘に問い、家族で話しがすすむ。

「まり子の夢はなあに?」
「 夢ってなあに?」
「まり子が一番やりたいこと!」
「 私パパと結婚したい!」
笑いのあと、妻が夫に問う。
「じゃあ、パパの夢はなあに?」 
 「俺の夢・・・そうだな、うん、みんなの夢がかなうように頑張ること!」

 ドラマはおいしい野菜を自分で作りたい妻、最強の石積みの壁を造りたい息子、貧困のバングラディシュで、世界に負けないメイドインバングラディシュのカバンのブランドを立ち上げたい娘に、自分が応援できることをやりぬいて残りの半年を生き抜くというものである。

 主人公の中井喜一が51歳なので、かれの寿命は51歳と計算すると、末期癌の発見が50歳で余命1年とすると、50歳でリターン人生になり、下りの人生は1年なので50倍の速度で山を下りることになったともいえる。

 そして、父親の残りの1年でやったことが、老後の人生にあたる。残された家族の夢を叶えられるように応援することだ。彼は50歳にして、仕事の成功をおさめている。つまり、自分の夢は叶えたことになり、その後は家族の夢の応援に替えたのだ。

 老後の人生において、残された家族がいない一人暮らしの老人のような場合も増えてきた今日この頃である。それはこう考えればいいだろう。

 オリンピック選手が引退後後輩の指導に回るように、自分がそれまでに得たことを後輩に伝えることで、後輩がもっと強いオリンピック選手になれるようにバトンリレーする。

 老人になって、それまで失敗したこともまた次の成功のための貴重な体験になる。失敗した人生であっても、それは残された明日を生きる人にとっては貴重な人生の体験であり、宝になるのである。腐った食べ物も、新しく生まれる食べ物の肥料になることと同じである。

 つまり、老後の人生というのは、いかに死んでいくか?ということであり、明日を生きる子ども達の応援をどういていくかということなのである。

 桜が咲くのも美しいが、その花びらが散るのもまた美しい。老後の人生とはさように散りゆく桜の花びらのようなものであろう。

 

 

智恵が満ちあふれている

木曜日, 7月 19th, 2012

 「愛が世界に満ちている」とはいうが、それは自分が恋しているときに、世界が愛に満ちあふれているように感じることだ。

 しかし、「智恵が世界に満ちあふれている」と観じられた時は、どんな事象をみても、それが自然の営みであり、それがすべての解決策を表していると知った時である。

 智恵とは何か苦しみぬいて、その中から生まれてきたような・・・そう泥沼の中から咲く蓮の花のようなものに思われているが、その蓮の花が咲くだけの事象ではなく、どんな事象にも智恵が表されているということだ。

 それは智恵とは産み出されるものではなく、そこに存在するものだということである。欲望を押さえるのは智恵であるといわれるが、欲望を促すのも智恵である。生きとし生けるものの欲望はまさに自然の営みであって、その欲望の発生と後退もまた自然の営みであり、その自然の営みそのものが智恵だといえるものなのである。

 また、悟りといって、まるで最高の智恵のようなことをいうが、智恵に最高も最上もあるというのがそもそもおかしなことである。人間が月に行くことができる技術というのはそもそも慣性や重力の法則を元にしたもので、そうした法則は自然の営みの一つにすぎないのだから、自然の営みを知っただけで、その自然の営みの通りに動いたら、そうできたにすぎない。

 智恵が人間の産物ではないのだ。ただ人は自然を観察しただけにすぎないのである。智恵が何かといえば、それは自然そのものであり、自然が何かといえば何もかも自然である。 
 つまり、自然なるものはすべて智恵である。だから、智恵は世界に満ちていると観じるのだが、むしろ、自然と智恵が同じならば、智恵が世界そのもの、自然そのものであると言っていいのである。

 知欲といって、智恵は求められるもののように思われているが、それは幸福の青い鳥を求めるようなもので、知を求めると、知はすでにそこにあるということだ。知は先にも以前にもそこにあるのだ。

 最近、エジプト人という映画をBSで観たが、キリスト以前の1500年前にも、民族や貴賓の差なく、人は平等であるという思想家もいたという。こうした人は平等であるという智恵は最近に生まれたものではなく、3500年前の人間にもあったともいえる。

 人が平等というのは、人以外の生物の視点から人間を観察すれば明らかな智恵であるから、平等の智恵は人類が誕生し、死滅する時にも、またそれ以前にもそれ以降にも存在する智恵である。

 また、その逆の智恵もあるが、それはこういうことだろう。一つ一つの事象がそのまま智恵であるということであろう。

 では馬鹿って何だろう? それはたぶん、「わかっちゃいるけど、やめられない」ってことだろう。とはいえ、その馬鹿につける薬も智恵である。馬鹿を観察する眼も智恵である。いわば、馬鹿とは智恵の演技のようなものにすぎないってことだ。

 

食と人間

木曜日, 7月 19th, 2012

 もし食料がわずかだったら、人間はその食料を奪い合うだろう。
 もし食料が適度にあったら、人間はその食料を分け合うだろう。
 もし食料が有り余るほどあったら、人間は食料を別な目的のために奪い合うだろう。

 東京のアパートの住民だった家財荷物を整理が終わり、やっとリフォームすることができる状態になった。それまで、畑仕事で、麦の後の稲作に苦労していた。雑草と稲との交替を夢みていたが、稲は水田の方が、その特性を発揮しやすく、栽培には適しているようだ。畑作には陸稲の種でないと、成育が進まない。

 陸稲はとにかく雑草に負けないようにしないと成育ができない。稲が苗の状態だと、雑草との区分けが難しく、しかも、雑草の種のが圧倒的に多く、しかも成育が稲の数倍も早い。そのため、麦の後の種まきでは遅すぎたため、雑草負けになり、失敗した。

 結局、雑草負けしない大豆栽培に変更し。大豆の周りは雑草が生い茂る状態になり、雑草に下にわずかの10㎝ほど苗が生き残っている。

 雑草を採ることを毎日やっていたが、とても追いつかない。そして、ふと「どうして雑草を採るのだろうか?」と問うてみた。

 「稲の苗を生かすため」とすぐに答えた。「では、このまま雑草を採り続けていけば、稲は育つのか?」と問われると、「雑草の種類も、量も半端な量ではなく、大豆の成育を守るのが精一杯だ」  「だったら、稲作をあきらめて、今しなければならないリフォームでもしろよ」と言い換えされてしまう。

 雑草を採るというのは、雑草を殺すということである。これは虫を殺すことと同じで、畑で刺される蚊やブヨを殺し続けても、けして全部の蚊やブヨを殺すことはできない。殺しても殺しても蚊やブヨはどんどん発生してくるように、雑草をいくら採っても採っても生えてくるものである。

 そのため、蚊やブヨを殺さずに、刺されないように網の帽子と服を付ければいいだけである。また、蚊が多く発生しないように、水たまりをなくすようにしてしまえばいい。

 虫を殺すのではなく、虫が生まれるのを止めればいい。雑草も同じで、雑草の種がまかれないようにすれば、雑草は生えてこない。

 人は最終手段として、戦争のように「殺す」決断をするが、それはヒットラーのようにユダヤ人を抹殺しようとしても、無理であり、逆に復讐されて、自分が殺されてしまうだろう。

 殺すのではなく、発生を抑えることが、目的にかなう。

 発生を抑えるようなことは、予防であり、生まれるまえに、物事を処理することである。食料生産もまた、人が必要とするだけの生産だけをすれば悲惨な殺し合いは避けられるのである。

 

テレビからネット時代に変わったなあ

水曜日, 7月 18th, 2012

 先日16日、「脱原発」を訴える大規模な市民集会「さようなら原発10万人集会」が開かれ、17万人集まったが、それがまったくテレビ報道されない時代に入った。これほどの人数が集まったデモ集会はソ連の崩壊の前の歴史的事件にも匹敵する。

 人々が一番信頼し、楽しみにしているテレビ報道がこうした歴史的事件を報道しないことはマスコミが政府権力や金に従属しており、人々の姿を伝えず、洗脳する方向に走ったことになる。

 テレビに代わるのはインターネットであろう。フェイスブックやツイッターがあっというまに国の改革をしたように、テレビが人々を先導する時代は終わり、インターネットとくに、ソーシャルネットワークが時代の先頭に立ってきたようだ。

 日本の改革は明治維新のころから、無血改革という平和的改革ができる民族のようだ。人は武力よりも、信じられる言葉の方が強く働くようだ。

   それにしても、大きな時代の変革をこうして観られたことは生きてきてよかったとつくづく感じられる。
 お金のために働く時代は減価貨幣の電子マネーによって、ベーシックインカムが実現した時に終焉を迎える。お金の時代は終わるのである。労働の主流はボランティア団体になり、株式会社は廃れていくだろう。

 原発や核の時代の終焉とともに、武力の時代も終わる。そして、法の時代が国際的に実現されていくだろう。

 こうした時代の流れはまさに自然に変遷されていく、奢るものは久しからずというのは自然の循環であり、生死の交替のように、新旧交代される社会になるようだ。

 こうした時代に変わる力は人々が夢見ることが同じだからなのだろう。誰だって殺し合う事を望まないし、格差社会を望まないからだ。人が助け合って生きることがこの上もなく幸せにさせてくれることを知っているからだろう。

 

二者択一ということ

土曜日, 7月 14th, 2012

 もし世界が生と死のように、二者の世界しかなかったら、次の方式が成り立つ。

 それが生きていないならば、それは死んでいる。
 それが死んでいるならば、それは生きている。

 不生=死 不死=生 である。

 犯罪が無罪か有罪かの二者択一しかなかったら、 それは碁石の 白か黒かしかないので灰色もその他の7色もありえないことになる。

 私達が理性とか知性というのはこの二者択一がベースとなっている。

こうした二者択一の理性を脅かすものは、二者択一の前提を否定して展開される言い訳・論理であり、そこから産まれる感情である。

 生と死の二者択一を否定した場合、理性ではなく、宗教の信仰が発生する。

 それは死んでもいなければ、生きてもいない。それは生死を超越した魂である。魂は永遠不滅の存在である。それを統括するのが神仏であり、その神仏が宇宙を創造しているという論理になり、その論理を信じて、その神仏を崇めれば宗教になる。

 自然と人間

 自然と人間を二者択一で展開していくと、意外と物事をすっきりと観察することができそうだ。

 つまり、こうだ。

 自然とは人間が何も手を加えないことである。逆も真なりで、人間的とは自然に何か手を加えることである。

 極論すれば、この地球上に人類が存在しない世界が自然であるということである。それは人類誕生以前の世界が自然であり、人類がいなければ、戦争も、原発事故も、津波により悲惨な事故もないのである。電気も金も必要のない世界になる。

 そもそも人間が存在しなければ、こうした二者択一の理性もないのだ。

 そのため、人が自然という場合は、何かしらの手を加えるが、できるかぎり、苦労しないで、人の目的を達成する方法のことである。

 機械はまことに自然に動くので、実に自然的といえるが。その機械が古くなり、故障が多くなると、苦労が多くなるので、新しい機械に替えるのも自然的であるといえる。

 だが、原発のように重大事故で人類全体を危険に陥れるような機械は動かせば動かすほど苦労が多くなり、人類生存を脅かすものになるため、自然的ではなく人工的であるといえる。

 自然農というのは、最小限の手間で、最大の収穫をえる技術のことである。機械も農薬も、肥料も、いらないで、日々の食料が常に収穫できる苦労のほとんどいらない技術である。

 私が自然農を研究しているのは、もし人が収穫をしなければ、麦米大豆は雑草のごとく自然と実ることができるのではないかという想定の検証である。

 毎年生える雑草の種類はそう多くないので、人が食べられる米麦大豆もそうできるのではないかというものである。

 それは魚と同じで、人があまり捕獲しなければ毎年その魚は同じようにとれるからである。

 人の健康も同じで、人が美味いものを作り食べつくさないようにして、質素な食事で我慢できれば健康も維持できるのと同じである。

 食品加工でもそうだが、米の殻をとって白米にし、それをおいしく食べることで、殻の栄養を他の野菜や肉で補うのは、苦労多くして、健康維持を難しくしているのではないだろうか。

 私は麦を収穫して、精麦しないで、そのまま圧力釜で炊くだけでおいしく食べられることを発見した。どうして、製粉し、それを麺やパンにし、しいてはケーキなどにしてどんどんおいしく食べる方法を追求するのは、苦労多くして、ダイエットに苦しむようになるように思えてならない。

 確かに肉はおいしいが、それを作るのは大変である。もし、大豆のような蛋白質が豊富な食料で我慢できれば、苦労しないで、人の健康を維持できることになる。健康を害してまで、おいしいものを食べる必要はないだろう。

 自然農というのは質素分化の基本にきっとなるだろう。

 

何故雑草は強いのか

火曜日, 7月 10th, 2012

 麦わらの上に出た芽の多くは稲ではなく、雑草だったことにショックを覚えた。稲は麦わらの下で小さく発芽しているか、種のままでいた。
 このままいけば、稲は昨年のように、収穫しても、雑草の方が稲より多く、しかも、貧弱な実しかならず、食べられないどころか、翌年の種にもならない。
 では、雑草を全部抜いてしまえばいいかということになる。もしそうすると、ほとんど稲は残らないし、また、抜いたあとにはすぐに雑草はまた育ってくる。
 その雑草の種は昨年の秋に大量にこぼれ落ちたものだ。それが半年以上に生き残り、それが発芽する。休耕畑の雑草を観察すると、春夏秋と同じ種類の雑草が交替して、その畑を占領している。それは何もしないで、そうした三交代もしくは二交代できるのはその種が必ず1年間は生き残るからである。そして、時期に合わせて、確実に発芽して実を結んでいる。
 
 雑草と同じく穀物や野菜がそれができないのはどうにも解せないのである。稲だって、雑草と同じようにすれば必ず自然に育つと思われる。

 今年は昨年の雑草の種が蒔いた種籾よりもはるかに多かったために、どうしても負けるのだろう。そこで、今年は稲と雑草を交替させる準備年にして、来年の夏は雑草の種よりも多くの種籾を多くなるようにすれば、雑草に勝てるかもしれない。

 まず、大事なのは、先に育った方が勝つのだ。稲の発育は雑草に比べて実に遅い。今年は麦を刈った6月中旬に種籾を蒔いたため、雑草の発芽に負けたと思われる。そのため、稲の種を蒔くのはずっと前の4月がいいと思われる。麦刈りするころにはすでに10㎝以上発芽していることが望ましいのである。

 種籾は水に浸け、温度を上げないと発芽しない。これを人工的にして初めて、4月に種まきができる。そんな人工的にせずに、雑草と同じく、6月になれば自然に発芽するようにするには、稲穂が自然と枯れて、地上に倒れる時期である1月に種籾を蒔くと、浸水させたりしなくても、自然と6月には発芽しているのではないだろうか?

 収穫しなかった麦穂は枯れて、雨にたたかれて、ようやく地上に落ちてきた。その麦の種を狙って多くの雀がやってきている。食べられなかった麦種が夏草が枯れることになると発芽してくるのが自然のサイクルであろう。つまり、麦種も初草が枯れる1ヶ月前に蒔けば自然と発芽すると思われる。

 しかし、麦種も種籾も、ただばらまくと、朽ち果てるよりも、鳥にすぐに食べられてしまう。また、蒔いた種も土に落ちずに草にひっかかり、発芽しないでやはり鳥に食べれてしまう。

 雑草の種は小さいので、鳥が食べられない。種籾も麦種も鳥はすぐに見つけてしまう。今年はすぐに不織布で隠さなかったので、ほとんど鳥に食べられてしまったことが失敗の原因だと思われる。麦わらで隠してもやはり鳥はすぐにみつけて食べてしまったようだ。

 来年の稲を成功させるには、まず雑草の種が今年落ちないようにし、稲だけ落ちるようにする。そして、麦の花が咲くころに、種籾を浸水させて、麦の根本に土を混ぜ込みながら蒔き、その上に稲藁を敷く。鳥に見つからないことと、できるだけ腐敗をおさえることである。そして、麦刈りするころには確実に稲が10㎝以上発芽しているようにもっていくことであろう。

 今年の夏は大豆を主に栽培し、そのまわりの雑草をとにかく抜きとり、実を結ばないようにして、稲の実の収穫はあきらめ、稲藁だけの収穫をして、来年の肥料と鳥の害から防ぐことにしてみよう。

 雑草と稲の区別は実に難しい。そこで、とにかく雑草だと思ったら全部根っ子から引き抜いてしまい、それが稲だとしたら、それを集めて、移植すればいいように思える。

 雑草に学ぶことが、雑草に勝つ方法のようだ。今年の失敗は来年の成功へと結びつけてみたい。