大坂の知人が電話で宇宙人のことを3時間ばかり話しをした。彼は宇宙人が人類を一種の実験動物のように観察していると信じて疑わない。
そもそも宇宙人なるものが存在するかどうかである。
この問題は私の中では長いこと、「この広い宇宙の中で、人類だけが存在するとはありえない」という答えだった。しかし、知人のおかげで、この答えをさらに展開してみた。
宇宙人はいまだかって、その存在を確認されたことがない。しかし、この無限に広がる宇宙の大きさに対して、その確率からいえば、人類と同じような生物がいてもおかしくないと想像する。
問題はこの宇宙人がいる確率である。今、地球と似た環境だと思われる星がいくつか発見されてはいるが、地球とまったく同じ環境の星は発見されていない。
確率的に、この広い宇宙の中で、地球と似た環境といえば、この太陽系の中の金星か火星や月がそれにあたるだろう。水の存在さえ、発見しにくい差からみれば、太陽系以外に人類と同じ宇宙人が存在する確率は低くなる。
こうした確率を展開すると、一人一人の自己は人類70億人の1の確率で存在し、しかも、地球の年齢46億年の一個人の寿命80年として、その個人が存在する確率はさらに、6億分の1になり、420億分の1の確率で自己が存在している。
この人類の中の自我の確立と、宇宙の中の人類の確率を比較してみたら、はるかに、宇宙の中の人類の生存の確率の方が小さいと思われる。
我々が生まれ死んでいく確率が奇跡であるように、宇宙の中で人類が生存しているのはもっと大きな奇跡であると言っていいのではなかろうか。
つまり、この広い宇宙の中で人類と似た存在がいてもおかしくない。しかし、それは逆に、宇宙人がいる確率は低く、現在はほとんどいないと判断してよいということなのである。
宇宙人の姿はみな動物と人類をかけあわせたような姿になるのは、人類が経験した生物の模倣という想像に域を出ないということであろう。
宇宙人が想像の産物のように、幽霊もまた想像の産物であると言っていいだろう。
もし、あなたが、ミジンコのような微生物であったなら、人類をどんな姿に想像するだろうか? きっと、人類をミジンコに似た姿に想像するだろうと思われるからである。
宇宙人の存在を論議する上で、何が大事かというと、これから人として生きていく上で、どんな判断をしていったらいいかということであろう。宇宙人の存在のあるなしが大切ではなく、宇宙における人類の生存、そして、自我の存在は奇跡の産物であると、観じて生きていくことであろう。
この世でもっとも尊いことは人類の生存であり、その自我の存在であるとして、社会を構築することだろう。