Archive for 5月, 2010

生ゴミを資源ゴミにするだけでいい

月曜日, 5月 31st, 2010

 マンションのベランダから、一戸建ての家の生ゴミ処理で、その方法を庭にした。

 でも、すぐそばに畑があるので、生ゴミをそのまま畑に出せばそれで堆肥ができてしまう。

 つまり、

 生ゴミ処理はその運搬の問題だけにすぎないことが判明した。

自宅で生ゴミを堆肥にしても、その堆肥をした土の処理がまた問題になる。家庭菜園できる人はそういないはずである。

だから、生ゴミを堆肥にする運動がすすまないのである。

 そこで、

生ゴミを他の資源ゴミと同じように、資源ゴミとして指定し、それを堆肥をつくる業者に直接運び込めばいいだけである。

その生ゴミ資源の運搬ルートと方法を簡単で衛生的に、かつ楽しくできる方法を考えればいいだけである。

 昔、肥だめ屋さんがきて、無料で糞尿を運んでくれた。そして、処理した後に、殺菌処理のたぶんDDTを蒔いてくれた。ゴミ屋さんもいて、鉄くずを出すとお金までくれた。

 今ではゴミを出すのは有料になっているが、どんなゴミもきちんと分別すれば資源になり、お金になることは変わりがない。

 ゴミでもっとも資源ゴミにしなくてはならないのは生ゴミであろう。それをしないで、ペットボトルや紙パックを先に資源ゴミに指定するのは本末転倒な手段であろう。

 生ゴミを衛生的にすばやく堆肥工場に持っていくには、腐って臭いが発生する前に運ぶか、腐って臭いが発生しても、その臭いを消す溶剤を使うか、電動式堆肥処理機械で乾燥させた堆肥を運ぶかにすればいいだろう。

 生ゴミ専用バケツと生ゴミ専用処理車のシステムでもいい。

 でも、いつでも、時間があるときに、生ゴミを処理できるようなものが最高だと思える。

 そこで、大型の電動式生ゴミ処理機械を各地域に設置しておき、そこにいつでも生ゴミだけを処分できるようにし、そこでできた乾燥した堆肥を業者が運搬していけばいいように思える。

  確か、大型のスーパーさんが、その大型生ゴミ処理機械を設置して、畑と一般家庭をつなぐ役目をしているところがあった。それをまずしなくてはいけないのは、全国の清掃局ではないだろうか。

 春になると、生ゴミはすぐに堆肥になった。秋冬にはただ乾燥するだけだったのだが。

 いかに季節の力の大きいか感じ入ったしだいである。

働けど働けどなお苦しみ増え

土曜日, 5月 29th, 2010

 新しく買った土地と家は前の住人が借金を返済するために、自宅と土地の3分の1を売ったものだ。花屋さんで、大きなホームセンターなどに卸しをしている。家の前で毎朝早くから夜遅くまで家族で働きづめである。

 でも、月の収入がわずかで、月2万円の市の3DK住宅に住んでいる。

 私はその借金返済のための新住人になったのだが、畑や道路を造ろうとして、いろいろな水路や石壁を作っていて、気が付いたことがあった。

働けど
 働けど なおわが暮らし楽にならざり
ぢっと手を見る

 石川啄木 「一握の砂『我を愛する歌』」より

 この詩で、働けど働けど・・楽にならざりというより、・・・なお苦しみ増えという方が実際的な感じがする。

借金地獄の原理は、借金の利息以上も稼げないので、借金がどんどん膨れあがることだ。

 この借金地獄から抜け出るには、破産宣言するしかない。つまり、もう借りることも、返すこともしないが、働くことは続けることをいう。

 でも、その働くこと自体もやめることをしないと、本当にその借金地獄の体質から抜け出られないと思える。

 前の花屋さんの働けど働けどの姿をみていると、その経営の収支がどうあがいても、マイナスになる。花を作る経費が花を売って入る収入よりも多くなっているからだ。

  花の植木を作る経費は、土、堆肥、農薬、植木鉢、運送費、種、電気、灯油、設備費、水代など自分の人件費を入れないでも、その合計の経費が売り上げの収入よりも何年たっても多かったら、その仕事はやめた方が楽であり、やめないと、苦しみが増えるだけである。

 フリマ笹塚のお店の経営も以前の経営者はこれに似ていた構造だった。それを持続させていたのはその仕事がただ好きだったからだ。脇目からみると、ほとんど道楽としてその仕事をしているように見える。

 花屋でも、リサイクルショップでも、せめて食べていけるだけの人件費がでれば、楽になる。でも、人件費もでないし、仕事を続ければ続けるほど借金が増えるなら、その仕事はやめた方が楽である。

 でも、やめないでその仕事を一生つづけようとする人の性格はその仕事を本当に愛してやまない素敵な性格の人で人気のある人が多いように思える。

 お金がどんどん入ってくるときは、「何もしない時」が多いように思えるのである。私のほとんどの収入は不動産である。お店の収入はその終始を計算すればすぐわかることだが、ほとんどなくボランティアに近いものだ。でも、それを続けているのは不動産の収入全体と我が夢の道楽との収支が軌道に乗っていれば楽な生活になっているためだ。

 ふと、自然の姿と人の働く姿を比べてみると、人は働けば働くほどその苦しみを増やしている感じがし、人は働かないですべて自然にまかせいると、幸せがあふれてくるような感じがするのである。

 だって、果樹や山菜も、その形やおいしさに文句をいわなけば、何もしなくてもその実も葉も食べさせてもらえるように思えるのである。

 人がもっとおいしくて大きい果樹や形がいい野菜を作ろうと必死で働くから、苦楽という二種の、成功者と失敗者の二種の、金持ちと貧乏人の二種が生まれるのではないだろうか。

 つまり、人は楽になりたかったら、

 けして働かないで、自然にまかせて生かさせてもらえばいいような気がするのである。

 不動産業でも、機械でもそうだが、最初の経営設計が自然に合わせたものかどうかがもっとも大きなキーポイントである。

 自然の永遠運動の仕組みを作ることが人が最初にすべきことであって、それが本当の意味での人の仕事であり、自然の力から生まれるものは人の仕事ではなく、自然の仕事である。

 花を栽培するのは人の仕事ではなく、自然の花の仕事である。

 お金だってそうだ。お金の仕組みを作るのは人の仕事だが、お金を稼ぐのは自然の仕事である。

 何か人は大きな間違いをして、環境問題を大きくして、「働けど働けどなお苦しみ増え」としているように思える。

 

 

どうして道路はコンクリとアサファルトになるのか?

金曜日, 5月 28th, 2010

 最近、畑と道路を造っているが、どうも道路がコンクリとアサファルトになっているのがどうも環境破壊につながっているように思えてならない。

アサファルトは重い原油から作られる。軽いガソリンを燃やすとCO2が増えるし、中の重さのプラスチックは海や川のゴミになる。

アサファルトで道路が造られると、洪水が増えるように思える。雨水が山などの大地に降って、川となり、海にそそぐのだが、その流れを変えてしまう。水が大地にしみこまずに、人口の川や溝に集まってしまう。

車社会になる前は馬車が主流であった。そのため、道路は石畳であった。パリに行くとあちらこちらに見事な石畳の道路がみられる。その美しさと機能からも、アサファルト道路よりもいいように見えるのがどうなのだろう。

 車にはタイヤが必要だが、そのタイヤの溝がつるつるだと、雨道はすべって危険である。

  どうしてタイヤばかり溝をつけるのだろう。雪道には溝の方向をかえたスノータイヤに代える。

 でも、考えてみたら、道路がアサファルトでつるつるだから、スベルんだ。もし、道路のすべてに溝が付いていたら、タイヤがつるつるでも、雨や雪道でもすべらないで、ブレーキがきくことになって安全ではないか。

 庭を造るときのように、飛び石をくんで玄関までの道をつくるとその道が楽しくなる。

 パリは芸術の都というれるが、東京はそうはいわない。もし、石畳のような道路にすれば、新芸術の都東京といわれるだろう。

それに道路が土と石と緑を合わせたものになり、人にやさしくなるはずだ。

 年がら年中、きれいにしたアサファルトを掘って、道路工事をしているが、それほど無駄な経費はないだろう。しかも、ガス・水道、電気など、みな別会社が別の目的でその道路を何度も掘り返しては埋めているので、もっど無駄使いな道路工事である。

 こんな田舎にも暴力団の家やビルがあるが、そこはまったく土も緑もない単なるコンクリート倉庫ビルである。人の心が抜けている感じである。

 道路というのは、人と人をつなぐ公共の場である。そこにもっとも必要なものは人のやさしい心である。安らぎをもたせる公園のようになることが必要であろう。道路を経済戦争や交通戦争にように、危険な場所にしないことが大切ではなかろうか?

 

いかに大石を消したか?

水曜日, 5月 26th, 2010

道路の途中に邪魔な大石があった。1トン以上の直径2メートもあるような大石である。

1人の力で、ショベルカーなどの機械はなく、これを3日かかって消した。

いかにしたか?

1,まず車のジャッキなどを使って、直角になるまで持ち上げる。5センチあげたら、そこに石で支えることをくりかえす。

2,直角になったら、支える石ころをすべて取り除く。

3,取り除いた石ころがあった場所を深く掘っていく。

4,その穴に逆に大石をギャッキで落とす。

5.その位置をやはりジャッキで微調整して、大石を埋める。

そこで、思ったものだ。

どんなに巨大な建物でも、その下に同じくらいの穴を掘って、そこに落とすとそれを消すことができる。

よく、古い巨大なビルを爆破させたり、壊すが、それはもったいない感じがする。トンネル工法というのがあっていいのではないだろうか?

古くなった建物をそのまま新しい建物の下の土台や地下ビルにすれば地震や竜巻にもびくともしない建物ができるのではないだろうか?

トンネルが地下100mでも掘れるのだから、可能だと思える。

未来は過去現在があって開ける。

ならば過去現在はけしてゼロではないのだ。また、破壊する必要もない。過去現在を未来の土台にすることで、より堅固な未来を築くことができるのではないだろうか!

生きること自体、それは昔の自分を土台にして、今を行き直すこと、そして未来の夢を築いていくことではないか。

学習は過去を反省して始めてできるのだから。

親は子の縁の下の力持ちになろうとするではないか。これが縁の下の力持ち工法となり、リサイクルや学習の基本になるのではないだろうか。

道路造り

月曜日, 5月 24th, 2010

畑へ車で乗り入れられるように、手前にあったコンクリの壁を壊した。その残骸が左のガレキである。

その上に大岩があって、それを30センチ移動させるために、二日がかりでとりかかっている。

雨が降ると、この坂道に水が流れるので、その原因を探っている。そして、それを流す溝を掘る予定をしている。

人の肉体の力は実にかよわい。でも、人の知の力は実に馬鹿でかい力だとつくづく思う。

知恵をどこに使うかで、それが恵みになるか、悲惨になるか決まってしまうのだろうなあ!

ツイッターのよさというのは、各人がつぶやくだけで、それに答える必要がなく、受け取られるだけで会話が通じてしまう。

すごいコミュニケーションだなと、つくづく感じ入ってしまう。

なお、私のツイッターの名前はgonwalkだから、探してみてください。

全角70文字の世界だから、日本の俳句の17文字に通じるように思える。

いかに巨大な壁を破壊したか

金曜日, 5月 21st, 2010

 厚さ30センチのコンクリートの壁をハンマーとバールの手作業で破壊できたコツがあった。

表向き分厚いコンクリートだが、その裏を見ると、大石が並んでおり、それをコンクリートでつなげてあっただけである。

そこで、裏の大石とコンクリートの接着面を剥がすことで、大石を先にとりのぞく。その方法は、ハンマーで大石をたたき、その振動で一番崩れやすい大石からとりのぞく。そして、その石を支えていた土や小石をバールで掘り出して、コンクリート壁を支える土を取り除くと、倒れやすくなる。

でも、5mもの長さで、コンクリートがくっついているので、そのくっついているもっともうすいところをねらってハンマーで壊す。そうして、コンクリートのつなぎを分散させる。ヒビは入ったところに、バールでさらにそのヒビをこじあければ、意外と簡単にコンクリは割れてしまう。

そして、思ったもんだ!

「絶対の強者だったアキレスはいかに崩れ去ったか?」

「たった一つの小さな彼の弱点であるアキレス腱に矢で分断するだけだった!」

2008年9月15日、巨大な投資銀行であったリーマンブラザーズ証券の倒産したときの負債総額は6,130億ドル(60兆円)だったが、それが崩れ去った原因は信用度の低い借り手向け住宅ローンであるサブプライムローンを信用度の高い金融商品に組み込んだための一つの小さなミスからである。

大企業だけでなく、どんな有名人でも、小さなスキャンダルで、その名も消えてしまう。

だから、

どんなに巨大な国家であろうと、巨大なお金のシステムであろうと、そこには必ず弱点がある。その弱点を集中してたたけば、それはあっさりと崩壊してしまう。

巨悪なものを破壊するには全面戦争ほど馬鹿げた策はない。また、すぐれた良いものを持続させるには、小さなミスをおろそかにしないことが大事になる。

柔道で「柔よく剛を制す」というが、その原理はテコと同じで、

 小弱よく巨悪を制す

といえるだろう。

 

コンクリート壁をハンマーとバールだけで破壊できた

木曜日, 5月 20th, 2010

段々畑に上る坂道に厚さ30センチ高さ50センチもあるコンクリートの排水壁を、手持ちのハンマーとバールだけで破壊することができた。

このコンクリートの排水壁は重さ80キロのあるような大石をコンクリート付けたものだ。見た感じ、ショベルカーみたいな建設機械がないととても破壊は無理だと思っていたが、試しに人の力だけでできるかどうかやってみたら、なんと、延長5メートルもある壁を破壊して道路にすることができた。たった1日でやりとげた。

この壁を作ったのは前の住民のその前の住人で1世紀前くらいに作られたようだ。

どうして、こんな邪魔な壁を作ったのかと、前の住民の話からの推測ができた。どうやら、段々畑の上の山に道路ができる前は大量の湧き水がここに流れていたためだと思える。上に道路ができたので、そこで排水が受けられ、下の我が家の畑にはほとんど湧き水が流れなくなったためのようだ。

そのため、排水の溝はほとんど不要になっていたが、そのままにしていたため、車が通れないくらいせまい通路になっていた。それを破壊することで、道路が2倍に広くなり、楽々上の畑まで車を乗り入れることができるようになる。

その排水溝は長さ150mくらいあり、ほとんど大岩を敷き詰めて作られおり、その河口付近をしっかりとコンクリートで固めたあった。それを取り除き、道路にもどす作業はここ3日たってもなかなかできない。ショベルカーが1台あれば、あっさりとできるのになあと思いつつも、できるだけ、自分の手でできることをやってみようということではじめた。

意外や意外、オークションで1000円のつるはしを落札して、それが実に働きもので、ほとんどできてしまう。もちろん、翌朝は体中がつってしまい、ことあれば、何時間でも寝てしまうことになったが、できあがったものをみると、満足感が大きい。

畑の方はその堅さや広さで、バウンドしない重い耕耘機を買う必要があるように思える。

ここの土地は粘土質なので、雨が降った後に土が軟らかくなるので、そのときが仕事が一番しやすい時だ。「雨降って地固まる」とはいうが、「雨降って地耕す」という場所である。

畑の上に車がいけるようになると、大量の土や堆肥をそこに運びいれることが可能になる。粘土だけでは野菜も果樹はできない。生ゴミの堆肥だけではとても間に合わない。最初は土も堆肥も買わないと畑は無理なような気がする。

それにしても今朝のニュースで、千代田区で土の回収をしてリサイクルしだした。というのは、植木鉢の土は燃えるゴミでも燃えないゴミでもなく、それを捨てる場所がないため、困っているのが東京都民である。

その植木鉢の土も大量に買っているのが花の生産者である。もし、植木鉢の土が生産者のところにもどってくるとしたら、実に理想的なのだが。

ゴミ問題は自然生活の循環の問題であり、それはまたお金の循環に通じていると思うのである、はてまた、これからどんな循環設計ができることやら・・・えらい遠い旅立ちである。

ツイッター始めてみた

火曜日, 5月 18th, 2010

 余裕がでてきたので、ツイッターに挑戦した。

 名前とID とパスワードとアドレスを書いて、数字を読み込むことができると完了した。

 フォローする相手を選ぶのだが、

日本語を選択したら、いくつか出てきて、

総理大臣の鳩山由紀夫と朝日新聞にした。

すると、鳩山由紀夫はフォローしたが、朝日新聞はフォローにならなかった。

そして、

自分のページをみると、すぐに誰かにフォローされていた。

?????

それが誰かと思っていたが、海外のエッチサイトのスパムだった。さっそく報告して、取り除いてもらった。

自分の店のアドレスで、友人を捜したが誰も検索できなかった。

というわけで、総理のつぶやきをききながら、自分のつぶやきをすることからスタートした。

どんな世界になることやら。

今日も、石垣作りから始めよう。

自分で石垣を作っていくと、どうして、ただ石を並べただけで、土が崩れないような力が出せるのかがだんだんわかってきた。

石が組み合わさって、一つの大きな石になるような組み方をするのが、コツのようだ。だから、石はその境を消すように交互に設置するのが頑丈になれるようだ。

PS

ついでに、ツイッターのフォローをオバマ大統領にしてみた。

英文だが、そのつぶやき部分だけをウエブ翻訳をすると、何を言っているのかが大体わかる。世界が今何をしようとしているのかがこんなつぶやきからでも把握できるような感じである。

ツイッター恐るべし

名前が無くなる時

月曜日, 5月 17th, 2010

 人の始まりは自分である。生まれたときには名前を付ける。

 でも、人が死んだら名前を消すだろうか?

 日本の仏教では戒名といって、あの世に生きる新しい名前を付ける。

 名前と所有権とは切っても切れない関係にある。人が死ぬと他の人にその所有権を移転できる。いわゆる、遺産相続である。

 でも、元の所有者の名前は消えて、新しい所有者の名前が付けられる。その多くは血縁という結びつきである。

 宗教にとって、特に亡くなった教祖の名前がもっとも重要になる。その名前はその宗教の教典の法律よりも重要になる。しかし、それは亡くなった人の骨をその生涯よりも大事にするような本末転倒ではないだろうか。

 先祖崇拝は世界のどの民族でもあるが、はたして、先祖の名前をみな伝わっているだろうか? まして、先祖の名前よりも神仏のとくにその教祖の名前を一番に唱えるのは空しい願望になると思えるのだが。

 何故、宗教から科学へ、 科学から環境へ 時代が移っていくのだろうか?

 これは、亡くなった人の名前が消えていく方向性が新しい時代を築いてくるということではないだろうか。

 自由がもっとも貴重であるのは、自由とは名前があって始めてそれが広がることであるから、自由たらしめるものは、それを支える無名の多くの人の縁の下の力があるからだ。

 自由とは名前が在るときと、名前が無いときがその存在たらしめているのである。

 人間関係において最も問題を起こしているのが「自我」という意識である。もし、自我の名前が消えたらその意識も消えてしまう。

 人が死んでしまうと名前が消えない死んだ人という霊魂になって、良いことも悪いこともしだすのである。もし、人が死んでしまえば同時にその名前を消すということがあたりまえになれば、霊魂とか宗教がさほど重要な存在ではなくなる。

 もちろん、人は心をもち、名前が消える時間に余裕を持つことは大事なことである。でも、その名前の保持期間があっても、いつかは消えることが次ぎの時代に力強く生きるには必要なことであろう。

 生まれ変わりという思想があるが、これは霊魂は永遠ということを前提とした思想である。名前は変わっても、その霊魂は一つという思想はその始まりと終わりがあいまいになって、大きな矛盾をもたらす思想である。

 つまり、始まりの数と終わりの数が合わないから一つの霊魂にはなりえない。

 それは大量の種子が再び生き残って元の植物になれる確率は実に少ないのである。生き残り競争というよりは、運不運という奇跡的事実であろう。

 人の霊魂だって、植物の種子と同じように考えていいのでないだろうか。血縁というよりも、人間という種縁による運不運になるように思える。

 人が生まれ変わるとしたら、まず、名前は消える、次に死人に生者は選択できない。未来の子どもが、亡くなった人の意志を受け入れるかどうかが、生まれ変わるときであろう。

 それは過去の人が未来の人を決めるのではなく、未来の人が過去の人をよみがえらすかどうかにある。「古きを訪ねて新しきを知る」ということであろう。

 その場合、亡くなった人の真の姿はどんどん変わってきて、名前は同じでもまったく違った姿になってくる。例えば、キリスト教やユダヤ教やイスラム教はもともと同じ神の名前から生まれたが、その後の人が新しい意志を付け足して、まったく違った名前と神の名前にして、その信仰を築いたといえよう。

 これは宗教の大事さではなく、今生きている人の意志がどれほど大事かということにつながっているのである。

 それは、もし生まれ変わりがあるとしたら、次の世代の人がその意志を引き継ぐかどうかにすべてかかっているということになるということだろう。

 

生ゴミを堆肥に

土曜日, 5月 15th, 2010

 以前はマンションのベランダで大きな植木鉢で生ゴミを堆肥にしていたが、今度はキッチンの中に同じものを作って、それをしていたら、小さなハエがたくさんたかり、困ってしまった。

 堆肥は日光と風が必要のようだ。

 そこで、二段階に分けることにした。以前買ったことがある生ゴミ処理バケツを使うことにした。

 生ゴミ処理バケツというのは、バケツの下層に網があり、水分と生ゴミを分け、たまった水分は流せるようにコックがついているものだ。

 この生ゴミ処理機は実に使いづらいのは、そのフタである。すぐにフタがしっかりと閉まってしまい、それを開けるのが大変手間がかかり、すぐに生ゴミを捨てるのができないからだ。そこで、フタの溝を太いビニールヒモで埋めてテープで止めて開け閉めを楽にした。

 この生ゴミ処理バケツにある程度貯まると、外に作った植木鉢の土に混ぜて堆肥にする。それから、畑にまくようにした。

こうすると、以前は分解しにくい、紙や木辺を取り除いていたが、時間がかかっても、紙や木辺はいわば、植木を剪定した枯れ枝と同じなので、充分堆肥になれる。

そこで、よごれた紙なども堆肥にするように変更した。そうすると、燃えるゴミはさらに少なくすることになる。汚れたコットンの布も畑の一部に埋めて、どのくらいで分解するかを試すことにした。

 それにしても、いつになったら、生ゴミ堆肥を野菜にできるのか・・・えらく遠い旅のような気がする。