どうして道路はコンクリとアサファルトになるのか?

 最近、畑と道路を造っているが、どうも道路がコンクリとアサファルトになっているのがどうも環境破壊につながっているように思えてならない。

アサファルトは重い原油から作られる。軽いガソリンを燃やすとCO2が増えるし、中の重さのプラスチックは海や川のゴミになる。

アサファルトで道路が造られると、洪水が増えるように思える。雨水が山などの大地に降って、川となり、海にそそぐのだが、その流れを変えてしまう。水が大地にしみこまずに、人口の川や溝に集まってしまう。

車社会になる前は馬車が主流であった。そのため、道路は石畳であった。パリに行くとあちらこちらに見事な石畳の道路がみられる。その美しさと機能からも、アサファルト道路よりもいいように見えるのがどうなのだろう。

 車にはタイヤが必要だが、そのタイヤの溝がつるつるだと、雨道はすべって危険である。

  どうしてタイヤばかり溝をつけるのだろう。雪道には溝の方向をかえたスノータイヤに代える。

 でも、考えてみたら、道路がアサファルトでつるつるだから、スベルんだ。もし、道路のすべてに溝が付いていたら、タイヤがつるつるでも、雨や雪道でもすべらないで、ブレーキがきくことになって安全ではないか。

 庭を造るときのように、飛び石をくんで玄関までの道をつくるとその道が楽しくなる。

 パリは芸術の都というれるが、東京はそうはいわない。もし、石畳のような道路にすれば、新芸術の都東京といわれるだろう。

それに道路が土と石と緑を合わせたものになり、人にやさしくなるはずだ。

 年がら年中、きれいにしたアサファルトを掘って、道路工事をしているが、それほど無駄な経費はないだろう。しかも、ガス・水道、電気など、みな別会社が別の目的でその道路を何度も掘り返しては埋めているので、もっど無駄使いな道路工事である。

 こんな田舎にも暴力団の家やビルがあるが、そこはまったく土も緑もない単なるコンクリート倉庫ビルである。人の心が抜けている感じである。

 道路というのは、人と人をつなぐ公共の場である。そこにもっとも必要なものは人のやさしい心である。安らぎをもたせる公園のようになることが必要であろう。道路を経済戦争や交通戦争にように、危険な場所にしないことが大切ではなかろうか?

 

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