新しく買った土地と家は前の住人が借金を返済するために、自宅と土地の3分の1を売ったものだ。花屋さんで、大きなホームセンターなどに卸しをしている。家の前で毎朝早くから夜遅くまで家族で働きづめである。
でも、月の収入がわずかで、月2万円の市の3DK住宅に住んでいる。
私はその借金返済のための新住人になったのだが、畑や道路を造ろうとして、いろいろな水路や石壁を作っていて、気が付いたことがあった。
働けど
働けど なおわが暮らし楽にならざり
ぢっと手を見る
石川啄木 「一握の砂『我を愛する歌』」より
この詩で、働けど働けど・・楽にならざりというより、・・・なお苦しみ増えという方が実際的な感じがする。
借金地獄の原理は、借金の利息以上も稼げないので、借金がどんどん膨れあがることだ。
この借金地獄から抜け出るには、破産宣言するしかない。つまり、もう借りることも、返すこともしないが、働くことは続けることをいう。
でも、その働くこと自体もやめることをしないと、本当にその借金地獄の体質から抜け出られないと思える。
前の花屋さんの働けど働けどの姿をみていると、その経営の収支がどうあがいても、マイナスになる。花を作る経費が花を売って入る収入よりも多くなっているからだ。
花の植木を作る経費は、土、堆肥、農薬、植木鉢、運送費、種、電気、灯油、設備費、水代など自分の人件費を入れないでも、その合計の経費が売り上げの収入よりも何年たっても多かったら、その仕事はやめた方が楽であり、やめないと、苦しみが増えるだけである。
フリマ笹塚のお店の経営も以前の経営者はこれに似ていた構造だった。それを持続させていたのはその仕事がただ好きだったからだ。脇目からみると、ほとんど道楽としてその仕事をしているように見える。
花屋でも、リサイクルショップでも、せめて食べていけるだけの人件費がでれば、楽になる。でも、人件費もでないし、仕事を続ければ続けるほど借金が増えるなら、その仕事はやめた方が楽である。
でも、やめないでその仕事を一生つづけようとする人の性格はその仕事を本当に愛してやまない素敵な性格の人で人気のある人が多いように思える。
お金がどんどん入ってくるときは、「何もしない時」が多いように思えるのである。私のほとんどの収入は不動産である。お店の収入はその終始を計算すればすぐわかることだが、ほとんどなくボランティアに近いものだ。でも、それを続けているのは不動産の収入全体と我が夢の道楽との収支が軌道に乗っていれば楽な生活になっているためだ。
ふと、自然の姿と人の働く姿を比べてみると、人は働けば働くほどその苦しみを増やしている感じがし、人は働かないですべて自然にまかせいると、幸せがあふれてくるような感じがするのである。
だって、果樹や山菜も、その形やおいしさに文句をいわなけば、何もしなくてもその実も葉も食べさせてもらえるように思えるのである。
人がもっとおいしくて大きい果樹や形がいい野菜を作ろうと必死で働くから、苦楽という二種の、成功者と失敗者の二種の、金持ちと貧乏人の二種が生まれるのではないだろうか。
つまり、人は楽になりたかったら、
けして働かないで、自然にまかせて生かさせてもらえばいいような気がするのである。
不動産業でも、機械でもそうだが、最初の経営設計が自然に合わせたものかどうかがもっとも大きなキーポイントである。
自然の永遠運動の仕組みを作ることが人が最初にすべきことであって、それが本当の意味での人の仕事であり、自然の力から生まれるものは人の仕事ではなく、自然の仕事である。
花を栽培するのは人の仕事ではなく、自然の花の仕事である。
お金だってそうだ。お金の仕組みを作るのは人の仕事だが、お金を稼ぐのは自然の仕事である。
何か人は大きな間違いをして、環境問題を大きくして、「働けど働けどなお苦しみ増え」としているように思える。
これは、じつにそうだと思います。
稼ごうと思えば思う程、借金も大きくなりくるしくなるようです。
なにもしなければ、使うだけ。
使うと経済の大枠で考えると、もどってくる。
自然にまかせるというのは、自分でなにかしよう、と思わないことですね。
やってくる事柄に合わせて、対応していたら、
生きていくのに最低限ひつようなものは、やってくるのかもしれませんね。
リンク転載させていただきますね。
pikaさん、コメントとリンクありがとう。必死で生きていると、自分が自然に生かされていることを忘れてしまう。自分の力だけで生きているように勘違いしてしまう。
生きていける自信というよりも、「生かされているという自信」が大事なように思えてきます。