Archive for 1月, 2010

心の自然循環

日曜日, 1月 31st, 2010

 心とは現実を映し出す鏡のようなものである。

人間にとって、現実よりも心の方が大事である。

そのためモノより心の方が高価であり、金では買えないくらい価値を持っている。

道元の正法眼蔵『現状公安』

人のさとりをうる,水に月のやどるがごとし。
月ぬれず,水やぶれず。
ひろくおほきなるひかりにてあれど,尺寸の水にやどり,全月(ぜんげつ)も彌天(みてん)も,くさの露にもやどり,一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざる事,月の水をうがたざるがごとし。

私の口語訳をすると・・・

「悟りとは水に月が宿るようなものである。
月そのものは水に濡れないし、水は月に壊されることはない。
地球を照らすほどの大きな光だけれど、小さな水たまりにも宿る。
月だけでなく、あまねく天空さえも一滴の草露にも宿る。
宿った月が水を壊さないように、どんな現実も悟った人の心を壊さない」

ありのままに物事をとらえ、そのままに生きると心が平安になれるということだろう。

☆昨日軽トラ一杯分の粗大ゴミを捨てたら

 もう30年も物置にとっていた余り使わないものを捨てたら、長年の重荷がとれたような軽快な気分になった。

そこで、こう思った。

 

人の生活も自然循環させるように、人の心も自然循環させることが大事なんだ!

生ゴミ→堆肥→野菜 の自然循環のように、

思い出(執着)→整理(廃棄)→新しい夢(実現) の心の循環が必要なんだ。

心の自然循環とは引っ越しをするようなものなんだ。

夢とはあたらしい家のことであり、執着は古い家のことである。

執着の家から夢の家への引っ越しをすることなんだなあ。

その繰り返しがありのままに生きるということなのだろう。

死ぬまで生きる

エゴを捨て、エゴを作る

生きては死に、死んでは生きる

その繰り返しが心の自然循環なのだろう。

丘から川に降りるホームレス

土曜日, 1月 30th, 2010

 お金のいらない国を実現しようとすると、ホームレスの生活が理想的になってくる。

自由に強く生きようとするホームレスは

丘から川に降りる」のだ。

「ホームレスたちは河川敷暮らしを“丘から川に降りる”という。そして、一度降りると、“丘”に上がるのは、物理的にも精神的にも困難だ。ある30代のホームレスは、“丘”について“なんか怖いのだ”と語る。競争原理が支配する“丘”の世界、不要になった生き物を壊れた玩具の様に捨てていく“丘”の世界」

私はホームレスと同じように河川敷で畑を作っている。だか、誰も追い出そうとはしないばかりか、近隣のものたちから、きれいになったと歓迎されている。

しかし、私がこの河川敷にビニールシートを建てて住みながら畑をしたら、私はゴミのような人間として扱われ追い出されるだろう。

多摩川のホームレスの運命

河川敷には何人かのホームレスが住み着いていた。といっても墨田公園のホームレスのようにひしめきあっているわけではなく、数百メートルに一人程度。それぞれに掘っ立て小屋やテントなどを建てて暮らしていた。中にはたくましい者がいて、河川敷の人の立ち入らないような所や川の中洲を耕して、野菜を作っているものがいた。たぶん農家の出身なのだろう、きれいに畝を作ってたいしたものであった。しかし河川敷を個人の目的に占有することは禁止されている。あるとき区の警告立て札とともに、ブルドーザーか何かで根こそぎ撤去されてしまった」

一体、河川を管理する団体はどんな気持ちでそれをしているのだろうか?

淀川河川管理事務所の処置をみてみると、

「青いビニールのテントが張られた人が住んでいるようです。実に迷惑なことですが強制排除ができないでしょうか。」

● ホームレスの問題点
 河川法24条(土地の占用)同26条(工作物の設置)同29条(河川管理上支障を及ぼす恐れのある行為)等に違反していることは当然のことですが、
  1.工事(占用者による物も含む)の支障となること。
  2.河川巡視による堤防等河川管理施設の点検把握等に支障となること。
  3.河川という公共施設の占拠により、近隣住民がこれらの施設を利用できなくなったり、環境衛生の悪化の恐れがあるなど、地域住民が不安や不満を募らせていること等が挙げられます。

 つまり、近隣の住民とのコミュニケーションの問題なのだ。田舎でも都会でも、そこで暮らすことで最も大きな問題は近隣との間のコミュニケーションだと思っている。それは事業でも同じで、地域社会の力が1人1人の力に及ぼす力がもっとも大きいということであろう。

 都会の競争原理に嫌気がさして、丘から川に降りても、そこにもまた、競争原理が働く。どこにも逃げ場はない。

積極的に地域住民のコミュニケーションや協力を推進することが、競争原理を終わらせることになる。

 そこで、私はこの河川敷を市民農園や市民の公園や生ゴミから堆肥そして野菜や花作りに変貌させれば、まわりは納得してくれるだろうし、そこの管理人の仕事と住まいを用意してくれそうな気がするのだ。

やっと畑の掘り起こしが終わった

木曜日, 1月 28th, 2010

ここの畑は買った畑より広いので、家では苗を育て、この河川敷で野菜を育てようと思う。

それにしても、こんなに早く家と畑が買えるとは予想していなかった。

今回は家を10年間借りる気持ちで、買った。

というのは、家賃月8万円として、10年間で960万円支払い続けても、家はけして自分のものにはならない。

でも、お金を住宅ローンで960万円借りて、毎月8万円返却すれば、10年後は払い終わり、しかもその家は自分のものになる。

これが、お金の貸借システムのおかしさ・矛盾である。お金を借りるには担保が必要だが、買う家と土地は担保にもなるので、それに見合うくらいのお金は貸してくれる。

しかし、月家賃のいい点は、借りる年数が2年以内ならば、買うより、自由に引っ越しできるので得になる。でも、資金に余裕があるなら、買った家を誰かに月8万円で貸せば、その家賃で、別なところで生活できるので、やはり、お金を借りて、家を買った方が100%得になる。

これが、金が金を生み出す貸借システムの原理である。これを思いっきりする人としない人の差が収入の格差を生み出す。でも、それができるというのは、貸借システムがいかに金で金を生み出す資本家にとっていかに有利な法であるということだ。

それでは、この貸借システムの矛盾を解消するにはどうしたらいいだろうか?

お金は社会の血液のように貸借関係で循環している。この貸借循環を別な方法にすれば解決策ができる。それが減価する貨幣システムである。

減価する貨幣の場合、お金を960万円貸したら、減価率を年10%にしたら、10年後は0円になって、返金しなくてもよくなる。

そうなれば、お金を貸す人はいなくなるだろう。お金は贈与関係だけになる。

そこで、この家の購入を減価する貨幣だったら、お金を借りることができないので、960万円を家族かなんかで贈与してもらうことで買うことになる。それができなければ、ほとんどの人は家を月8万円で借りることになるだろう。しかし、減価する貨幣は家賃も減価させるので、月8万円の家賃は単利として、毎年8000円安くなって、翌年は月7万2千円になり、さらに、翌年は6万4千円になり・・・・10年後には0円になる。

 しかし、10年後ただでその家を借りることができても、その家の所有権はない。

 こうなれば、お金の貸借システムによる矛盾は解消されることになる。

 これが、私が主張するお金の貸借システムを減価する貨幣システムに変換ということである。

再生産できない石油は使わない

火曜日, 1月 26th, 2010

★自然環境の研究をしていると、最も大きな問題は、石油を生産し使うことと、お金の貸借システムである。
 この石油と貸借するお金の問題の核心は、再生産できないものを使うからである。

 石油を電気に、貸借するお金を減価するお金に換えることが大事である。

温室栽培するには、多量の石油が必要である。上記のビニールハウスの中を暖めるには、人間の倍の大きさの石油タンクと石油ストーブが必要である。

この灯油タンクとストーブが温室栽培に欠かせないとしたら、今の農業は自然循環しないと思い、それを引き継がないで、廃棄してもらうことにした。

その替わり、太陽と風力発電をして、温室栽培ができるだけでなく、余った電力を売る方向で、エネルギー栽培をしようと計画している。

 ここにあるビニールハウスのビニールは石油から作られる。そして、その耐用年数は5年、そして、それを捨てるには農協に有料で引き取ってもらう。

 これは植物のように、土に帰らないシステムである。石油とそれから作られるビニールやプラスチックを、野菜から作ってみたくなった。とうもろこし等から石油ができ、それに乳化剤を混ぜるとプラスチックができる。このブラスチックは土に返すことができるので、自然循環できる。

 この石油とプラスチックを作るとうもうもろこしを、自然エネルギーの作る電力で栽培したらどうだろうか!

今やガソリン車は電気自動車に代わる時代である。それは農家でも同じで、耕運機もガソリンではなく、電気耕運機に換えて、農業から自然環境整備に入っていくべきではないだろうか。

 これをエネルギー生産農家プロジェクトと名付けようではないか!

自然環境を根本的に破壊するのは、石油と金のシステムである。今のお金は再生産できない石油と同じ貸借する金である。

お金が再生産できないから、お金を貸借して循環させようとするが、それは土台無理なシステムである。お金を自然循環させるためには、お金そのものが腐ってゼロ価値になることができて始めて、再生産できる。

 それは減価するお金と税金のない政治と、貸借のないお金が自然環境維持社会には欠かせないのである。

土地と家と畑を買ったぞ

土曜日, 1月 23rd, 2010

 市の空き屋バンクで最新の情報を受け取って、即その家と土地を見に行った。

市役所に来ていたのは、空きやバンクの担当者とその物件を仲介する不動産屋さんと、なんと、空き屋バンクを取材する読売新聞社だった。役所の車で、私と4人乗り込んで、出発!

5分もたたないところで、別な不動産屋さんのところで、車をとめ、そこで、その不動産屋さんと東京からきた老夫婦の3人がその不動産屋さんの車に乗って、合計7人で、目的の物件を見に行った。

軽自動車一台しか通れないような急な山道を数分登ると現地についた。

そこから富士山の頭がくっきりと見えた。

家を見るより、景色を眺めてワイワイ、老夫婦は家よりもビニールハウスの畑を念入りに見に行った。私は家の中を見ることにした。

 実は、数日前に、私はすでのこの売り主と出会って、話をいろいろとしていた。見ていないところは家の中だけだった。

家は20坪の2階建て、土地は150坪と役所の書類だった。でも、不動産屋の書類では土地は300坪だったので、どっちが正しいのか聞いてみた。その時は、150坪の役所の方になったが、後で不動産屋さんの方から300坪だという訂正の電話があった。

 田舎とくに、段々畑の土地なので、見た感じは150坪にも300坪にも見えるという不思議な感覚になるのだ。

家は4LDKブラスS(倉庫用の部屋)である。

畑は3面あり、2面はビニーウハウスになっている。1つはブロッコリーが植えられ、もう一つは畑に籾殻がまかれ、そこにほうれん草の種を蒔こうとしていたところである。

 昨日、娘たちにも見せており、そこで、ビニールハウスは奥の1つだけ残そうと話がしてあったところだ。

この物件を見に来られた老夫婦は、この物件が目的ではなく、賃貸物件の方だった。そのため、そこで、私はすでに昨日娘たちと話をして買うことにしていた。

金額は948万円である。私が即決めたので、売り主も、役所も不動産さんやもびっくりとすると同時にラッキーとたいそう喜んでくれた。

 そこで、ふと思った。

 役所というのは、業者や住民の協力をすすめるのが仕事で、金儲けをしてはいけない。金儲けをするのは業者であり、協力をしあうのは売る住民と買う住民である。
 役所は住民による税金で成り立つのだから、住民の協力を進めるのが仕事だと思った。

 お金そのものもそうで、人が協力しあうための道具だと思ったのである。

地元に不動産屋さんと役場の人が私の名刺の「自然環境づくり」という話から、ここで、風力発電と太陽光発電をしようかなあという発想になった。ここの市は環境行政に積極的で、90万円くらいで、3キロワット発電が可能であり、余った電力は売れるようだ。

 

生ゴミから野菜を

日曜日, 1月 17th, 2010

野菜を食べると生ゴミが出る。

リサイクルとか、自然の循環とは何だろうか?

それは生死の繰り返しだと思えるのだ。

光が波であるように、命も波であるように思える。

もちろん、自我は時と同じで一回生ではあるが、命全体となれば生死の繰り返し、自他の交代ということではないだろうか?

これを野菜から生ゴミ、生ゴミから野菜という繰り返しをすることが、命の循環であり、数字からいえばお金の循環になってくる。

リサイクルというのもそうで、生死の繰り返しのように、生産と再生産が繰り返されないと、環境破壊・命の自滅を引き出すのではないだろうか。

 そこで、生ゴミから野菜作りの命の循環を畑の畝作りで実験してみたくなった。

 私の家庭が半年で作った生ゴミ堆肥はほんのわずかで、ベランダの植木鉢くらいの量でしかないので、その町の生ゴミを全部集めないととても足りない。そこで、荒れ地に育った雑草をそのまま堆肥にさせてしまおうと思った。

 そして、堆肥でない雑草の下にある土をその上に盛って、そこに野菜の苗を植えればいいのではないかと思った。そして、畝の下の方には、生ゴミや雑草を捨て、そこにある土と混ぜて堆肥を作れば、野菜と生ゴミ(+雑草)が生死の循環のように、永遠と繰り返す命の姿を現すのではないだろうか。

 リサイクルとは大小のサイクルがあるが、基本的に命の生死の循環であることが必要で、石油のように、薪とは違って、生死が循環しないようなエネルギーは命の環境を破壊し続けるように思える。

 もし、石油が命の循環をするなら、石油を消費して、再び石油を生産できれば、命の環境は守られることになるはずだ。それができなければ、やめて、エネルギーが循環するような自然エネルギーに変換しなければならない時代になってくるのは当然の帰結なのだろう。

金より仕事

水曜日, 1月 13th, 2010

1.中小企業の社長

 借金の支払いを遅らせる法案ができたが、「金よりも仕事をくれた方がありがたい

2.生活保護者

 「何もしないでお金だけもらっては申し訳ない

3.派遣村

 「仕事が見つかるまでの生活支援はありがたいが、なかなか仕事が見つからない

ベーシック・インカム(最低所得保障)と近所ボランィアをセットで

生活保護やベーシック・インカムで最低生活保障でお金で援助するが、それはお金だけでなんでも解決させてしまうような政策に思える。自立支援では、お金だけ援助するとそれに甘えるものが増えてしまうが、もし仕事を与えてあげるとしっかりとする。

 仕事に貴賤なしというように、どんな金持ちでも、どんな貧困者でも、同じ仕事をして同じ幸福感を得られることができる。そのときの問題がその仕事の報酬に差が大きくでる場合である。

 そこで、ベーシック・インカムをお金だけでなく、仕事も同時に与えるような提案をしたらどうだろうか?

 私は便利屋を数十年していたので、近所でお手伝いできる仕事はたくさんある。それはほとんどが公共事業にもなりえるものばかりである。例えば、ゴミ置き場の掃除、老人や病人への買い物などの代行、子守や介護やつきそいなどである。

 もっと積極的に社会的な仕事は近所のボランティアである。公園や道路の清掃、一人暮らしの老人への訪問、リサイクル・緑化運動・介護や自立支援などたくさんある。

 便利屋では毎日の仕事が違ってくるように、近所の人たちの助けるような仕事を与え、その給与として月8万円を支払うという形にすればいいだろう。これは「自分ができること」をベーシック・インカム役場に登録して、その活動をすることで月8万円の所得が保障されるようにすればいいだろう。

 海外支援を輸入とボランティア給与で

 海外の貧困国に対する支援をお金だけではなく、仕事もセットで支援していく。

 寄付を募る方法で、障害者の作品を買い取る形のように、ものを買ってもらうという方法がある。

 その国の産業を促進して生産したものを輸入することで支援する。また、砂漠に木を植えたり、平和活動や貧困救済活動のようなボランティア活動の給与を支援する。新興国では、公害を除去することに対しての資金と活動に支援するというように、お金だけを支援しないで、公共的なことを仕事に対する給与と資金として援助すればいいだろう。

★金より仕事

 食べ物に困っている者に、魚を毎日与えるよりも、魚をとる網とその技術を1度与えてあげる方が、より自立できる支援になる。それと同じように、お金を毎月あげるよりも、仕事を与えてあげることの方がより効果的な支援になる。

 しかし、そに仕事で報酬がえることは難しいので、仕事の最低所得報酬をするようなベーシック・インカムが期待される。

税金って何だ!?

月曜日, 1月 11th, 2010

1.国って何だ?

 私たちが国とか公共とか社会というものが存在すると思いこんでいるが、それは本当に実際に在るのだろうか?

 それはただの個人の寄せ集めた姿であり、その数の大きさの違いであり、それをどんなに求めても、個人の姿になる。つまり、国とか、社会というものは実際は存在していないのである。

 社会のため、人のため、世界のため、国のため・・・・などということも、まさに存在しないもののために何かをするようなものでおかしなことではないのか。

 でも、法人や神様仏様と同じで、個人の形のような集合体が存在しているように思えるのはなぜだろうか?

 社会主義国家が崩壊したのはどうしてだろうか?

 それは社会というそのものが存在しないものだから、それを存在すると思いこんでいた姿が崩壊したにすぎないと言えないだろうか?

 神仏や国や社会を求めていくと、最後に行き着くところは「自分自身」の心の姿になってくる。神仏や社会が自分自身を映しだす鏡のような働きをする。

 つまり、神仏や国や社会というのは、自分自身の心の姿を表したものにすぎないのである。その視点を展開すると公共というのは単に人間関係やコミュニケーションのことを表現しているだけにすぎないのである。

2,税金って何だ?

 国や公共団体に強制的に税金を払わなくては生きていけないが、そもそも税金は誰のために払うのだろうか? 

 国や社会という存在がない相手に税金を払うとどうなるだろうか? 

 国や社会の姿そのものが個人の存在なので、自分のところに税金がもどってくるか、特定な個人のところにその税金が行くということになる。多くの国民は税金を払うのが嫌である。その税金が自分のところにもどらず、他人のしかも嫌な特定なところに行くからではないだろうか。

 今の日本の国や地方の借金合計が大体1000兆円あり、今年の国民の税収が50兆円、さらなる借金が50兆円であるから、それを個人でいえば、借金が1000万円あり、今年の年収が50万円、さらなる借金が50万円追加して生活していることになる。それでどうして生活できているのだろうか?

 その答えは簡単である。借金する相手もまた同じ国民である自分自身の個人であるからだ。自分が借り手であると同時に貸し手であるからである。国民、国という存在そのものがありえないので、単に心の幻想の姿を見ているだけにすぎない。自分で金を貸し、自分でその金を返していく堂々巡りの空想をしているようなものである。

 それにしても、所得税、消費税、ガソリン税・・・などたくさんの種類の税金はあるが、まるで、手かえ、品かえて、言葉たくみに相手からお金をしぼりとろうとしているような姿にみえる。しかも、この税金は自己申告が基本なので、正直に申告しないと刑罰を与える。

 でも、税金を支払うと何倍も膨らんで自分に返ってくるとなると、ちょうど、政治家への賄賂みたいに、なんとかたくさんの税金を払おうと必死になるだろう。でも、ほとんど返ってこないならば、脱税に知恵を絞り出すだろう。

 今のお金はその数字がどんなに時が過ぎても、その金額はけして変化しない。それは物理学でいう慣性の法則のように、宇宙に漂う石ころに10の力をかけると、その石はどこまでも宇宙のはてに向かって一直線に10の力のまま動き続けるようなものである。

 しかし、地球のような大きな重力のある近くをその石ころが通りすぎると、月のように地球の周りを延々と回り続ける。石ころの運命は宇宙の果てに向かう時間のような一直線ではなく、同じところを延々と回り続ける円周運動をするようになる。

 お金に貸し借りの力をかけると、お金は円周運動のように、回るようになる。今のお金の循環はこの貸し借り運動から成り立っているので、お金そのものが債券の姿を呈している。しかし、貸し借りは地球のような一定の重力ではなく、人の信用だけで動いているので、その力はあてにはならない。金融恐慌は生まれるのはしごく当然のことである。

 それに、貸し借りに利息を付けてしまうと、地球の重力が一定ではなく、増えていくようなもので、そのお金という石ころは増え続ける重力で、地球そのものに吸収落下してしまう。それを防ぐには金利を払うのではなく、元金までも払わないようにすることで、循環を保とうとするが、それは信用を失うことなので、貸し借りの循環運動そのものを否定することになり、やはり、失速し、貸し借りの経済基盤そのものを変革せざるをえなくなるのである。

 税金をお金の循環として考えてみると、税金とは個人と国の間で起こる循環ということになる。国とは単なる個人の寄せ集めだから、お金の一時的な貯蔵庫として考えることができ、国民全体から集めたお金をまた国民に配分するのが税金ということになる。その場合、税額合計額と配分額は同額になることで循環する。

 しかし、国が借金経営で、利息があるため、すべてのお金が借りる貧乏人から貸す金持ちに流れるようになっているため、この税金循環はいずれ行き詰まることになる。それが不景気である。金持ちにはどんどんお金が集まるが、貸すと損をするので貸し渋りする、借りる方も返せないので借りなくなって、この循環は確実に止まってしまうようになる。

3.循環する税金にするには

  お金の貸し借りでは、お金そのものも、税金も確実に循環できない。そのため、なんとか循環できると信じ込ませるあらゆる言い訳に当たるのが、たくさんの種類の税金である。

 人の言い訳のような税法ではなく、物理法則のような確実に目的を遂行するような力にまかす税法を作れば確実に税金は循環するようになる。

 つまり、人の信用で成り立つ人間の力ではなく、自然の当然の力で成り立つ自然の物理数字の力を使えばいいのである。

 これは、算数の問題であって、税金を集め、配分し、さらに集めさらに配分するという繰り返しをする運動法則にお金を従わせればいいだけである。

 そのためには、どんな言い訳もしないで、税金をお金そのものに課せばいいだけである。お金とはある意味では個人の所有権の大きさみたいなものである。

 世の中に個人しか存在しないのだから、どんなお金も確実に個人の所有権の範疇にはいることになる。お金は現金という姿だけでなく、水のように個体、液体、気体に姿を変えられ、不動産、現金、株のような債券の姿になる。これらの個人のすべての総合した財産そのものに税金を一律に課して、国という一時的貯蔵庫にお金を集め、その集めた金額を、そのお金を真に必要とする国民個人に配分すれば、確実に循環する。

 配分する基準は簡単である。健康で文化的生活が送れるような基本的人権に合わせて配分すればいいだけである。そして

配分されたお金でもって、自由競争をしてトップをめざす楽しみを謳歌すべきであろう。自由競争と基本的人権配分はセットで始めて、力強いお金の循環ができることになる。

 これをまとめてみれば、貨幣の貸し借りでお金を循環させる中央銀行システムをやめて、1つの基本的人権税法システムでお金を集め、配分を繰り返すことで、経済は物理の慣性の法則のように確実に循環することになる。そのため、国民の一人もお金で苦しむことはなくなるだろう。

 常にどんな人も夏はクーラーで涼しく、冬はヒーターで温かく過ごせるようになることができるということである。

 

 

最低所得保障をするということ

金曜日, 1月 8th, 2010

1.基本的人権

 ベーシック・インカム(最低所得保障)を進める場合、忘れてはならないのは最高所得制限も同時に進めねばならないことである。

 日本憲法でも世界憲章でも、健康で文化的な生活を保障する基本的人権がある。これは法的にその生活ができるように最低所得保障をしなくてはならないという国の義務を明示している。と同時に、それを実行するための責任として、最高所得制限をしなくてはならないことも明示している。

 人は言葉でつなぎ合っているため、言葉の論理と、その行為を一致させる言行一致で信用と協力が得られる。最低を決めるならば、最高も決めることが基本的論理と信頼である。

 ベーシック・インカム最低所得保障を月8万円を決めるならば、最高所得制限を月800万円までというような金額指定することが必要である。

 人の言葉は善悪・損得・上下左右高低・賛否というように、対になる言葉によって、論理が明確化し、それが実行可能になる。

2,永存可能な環境

 温暖化や公害や戦争によって、人類が絶滅しないで永存できる環境にするためには、地球に対しての生産と破壊活動に制限を設けなくてはならない。

 そのためには、世界のお金の発行総額とその割り当て額を制限しなくてはならない。それは、お金がなければ、CO2を出すこともできないし、戦争もできないからである。

 お金は過去現在未来の3つの形の時間的形態として存在し、過去は資産、現在は現金、未来は債券(貸借権)という形になっている。

 そのため、お金の発行総額を制限することは、個人や法人の最低と最高の資産額と現金保有額と貸借権を保証と制限をしなくてはならないということである。

 例えば、前回の例のように10人の世界で月500万円のお金の発行総額を決めれば、同時に、資産保有総額を年額にして6000万円、債券の発行額を6000万円以内にすることを決めなくてはならない。

 現在の中央銀行制度によって、今のお金の90%は現金ではなく債券(貸借権)になっている。貨幣の発行総額を制限することは、未来においては、貸借金の総額を制限することであり、過去においては、不動産や金融商品などの資産保有額を制限することであり、現在においては、年収の総額を制限することである。

 そのため、国民すべてのベーシック・インカム(毎月の最低所得保障)を実践するには、最低と最高の国民の資産・所得・貸借権の金額をも保証制限しなくてはならない。と同時に、発行する現金・債券・持てる資産を制限しなくてはならないということである。

3,自由競争とは

 自由とは自分が存在して始めて成立する。

 自分と全体の中の一部という意味であり、自分が全体になったら、自由を失うことになる。

 自由は全体の中で制限があって始めて存続できるものである。

 そのため、自由競争をするためには、自分が持てる収入の最低と最高の金額は制限されてこそ、始めて成立できるものである。

4,平等とは何か

 スマップの道徳の時間の番組の中で次の問題が出された。

 和尚さんが掃除した4人にチョコレートを5枚与えた。

 4人で分けたが、残った1枚をどうするか?

1,もっとも食いしん坊にあげる
2,兄弟がいる子にあげる
3.もっとも掃除をよく人にあげる
4,1枚を4つに均等に分ける

 正解は2だった。

 道徳的には、
次の段階から高くなる。
1.自己的
2.均等に
3.もっとも働く人に
4,そのときの状況に合わせて

 であるという。

兄弟にあげるというのは、4人だけのことだけでなく、もっと多くの人のことを考えることが道徳的になる。
ーーーー

→我々は平等であるというと、均等に分けることだと思いこんでいる。これは道徳的には2段階の理解でしかない。

人は生まれながらにして平等ではない資質を持って生まれる。そのため、人を平等に接するということは、障害者とプロスポーツ選手が平等に自由競争するためには、ハンディ(差)を与えなくてはならないということである。

努力した人が最も多く収入を得られるという自由市場の資本主義の原理は道徳の第3段階でしかない。道徳の最高段階においては、資本主義における自由競争はハンディを与えた競争によって得られる成果である。

ハンデイを与えない自由競争は道徳の1段階のエゴイズムになり、これが真の不平等であり、自由競争以前の反則になるということである。

世界中のお金をどのくらい発行したらいいのか・・

水曜日, 1月 6th, 2010

 また、どのように配布し、回収したらいいのだろうか?

最近、すっかりお金の思索から遠ざかり、生ゴミから畑作りに夢中になっていたら、メイサイアさんのコメントがかなり詳細に入ったので、また、思索研究したくなった。それは、思索も研究も一人では馬力が出ないということなのだろう。

ごんテレビの第3回の物価についての話をメイサイアさんがまとめてくれたので、その中の世界のお金の発行と配布と回収の循環をどのようにしたらいいのか、その理論を進めてみたいと思った。

 世界のお金の発行額と環境問題とは切っても切れない関係にある。

そう思わせてくれたのが、ノールウエーのサバ漁の番組である。その内容は「お金って何だ」に書いたが

ノールウエーの漁業は船長は年収2000万円で、そこで働く20代の若者のは年収1600万円である。しかも、4週間働いて、4週間休むシステムである。今の日本はどうだろう。老人で若手がいなくて年収はるかに低い。 でも、昔のノールウエーは今の日本の漁業と同じだった。それを変えたとは何か?

  それまでの「オリンピック方式(競争して漁獲量が多かった者が金持ちになる)」から、「割り当て方式(漁船の大きさによって、その漁獲量が割り当てられた。割り当て以上の漁獲を禁止した)」だけである。

 そのため、漁獲量で競争することはなくなり、単価が高い魚を捕る競争になった。さばは大きなものだけをとり、小さばはけしてとらない。

 さらに、驚くのはとったサバはノールウエーでは食べられない。あるのは缶詰だけだ。その90%は日本に輸出されている。日本でとれるサバは小さいサバが多くしかも、安く海外に輸出されている。そのため、日本のサバはほとんどがノールウエー産である」

もし、あなたが、世界のすべてのお金を全人類のために発行するとしたら、きっと、一番の問題は下記の3つになると思える。

1.お金をいくら発行したらいいのか?

2.お金をどのように配布したらいいのか?

3.お金をどのように回収また循環させたらいいのか?

 あなたが、お金を発行するのだから、もちろん、各国のように金持ちに借金するようにその財源を考える必要がない、必要なのは人類の一人一人がみな幸せになってほしいと願う心だけである。

 それは、アイヌ民族が自分たちが生きていけるだけの狩猟をし、それ以上の狩猟をしないで、未来の子供たちが食料に困らないようにする気持ちのように、今世界の一番大きな環境整備につながってくる。ノールウエーのサバ漁のような知恵がお金の発行・流通・循環に必要になってくる。そのためには、

1,世界中の魚が絶滅しないように、漁獲量の制限をする

       →→世界の自然環境が維持できるようにお金の発行総額を制限する

2,自由競争をして、その漁獲量をあげることをやめ、漁船の大きさによって割り当てをし、それ以上の漁獲を禁止する

    →→金儲けの自由競争をやめ、各国のお金の発行額を割り当てし、それ以上のお金の発行を禁止する。

   →→各国は割り当てられたお金の中で、自由競争し、それ以上は金儲けしないようにする。

 お金の損得は「誰かが得をすれば、その分誰かが損をしている」という原理で、試合の勝負のように、「誰かが勝てば誰か必ず負けている」という原理と同じである。

  この二つのお金の基本となる仕組みは、

1.将来にわたって環境維持できる生産量を決めるお金の発行額を決める。

2,基本的人権を保障するお金を人類すべてに配布する

 これは、自由競争によって、一人が最高に得られる金額を制限することのセットになる。

3,各国の事情や技術や人口などに合わせたお金の配分をする。

 この原則をもって、もし具体的に世界が10人の村だったらどのようにお金を発行し、配布し、循環させることができるだろうか?

まず、最低の生活費を10万円とし、最高の生活費を100万円と計算し、その平均額を月50万円として、10人分のお金の必要額を月500万円にする。この500万円が地球環境の維持できる範囲であるとするなら、

1,世界のお金の発行額は月500万円である(債権はこの発行額を超えてはならない・信用貨幣の発行の禁止)

2,各10人の事情に合わせて500万円分のお金を割り当てる。(例えば、子供は月10万円、起業家は月100万円のように)

3,毎月基本的人権10万円の10人分の100万円を毎月回収し、配布するために、すべてのお金500万円を月末には20%減価するようにする。

 翌月のお金は先月の20%の減価分の税金として払うと、スタンプが押され、翌月もそのお金を使用できるようにする。

(先月の10万円を翌月を使う場合は20%の2万円を国に、100万円ならば20万円を国に払えばそのお金が使えるようにする。また、お金の保有額が100万円以上の分はすべて国が没収する)

 また、スタンプが一杯になれば、新しい月のお金と交換する。

 この具体案は月ごとにしたが、実際は年ごとにすればもっと実用的であろう。

 このように、基本的人権と地球環境を維持するためには、お金の総発行額の制限と、各個人へのお金の保有額の最低と最高を制限し、その中で自由競争をする必要がある。そして、お金の循環には、減価する貨幣を自然循環する原理として採用し、それに合わせた税制の政策を実行することが必要であろう。