心とは現実を映し出す鏡のようなものである。
人間にとって、現実よりも心の方が大事である。
そのためモノより心の方が高価であり、金では買えないくらい価値を持っている。
人のさとりをうる,水に月のやどるがごとし。
月ぬれず,水やぶれず。
ひろくおほきなるひかりにてあれど,尺寸の水にやどり,全月(ぜんげつ)も彌天(みてん)も,くさの露にもやどり,一滴の水にもやどる。
さとりの人をやぶらざる事,月の水をうがたざるがごとし。
私の口語訳をすると・・・
「悟りとは水に月が宿るようなものである。
月そのものは水に濡れないし、水は月に壊されることはない。
地球を照らすほどの大きな光だけれど、小さな水たまりにも宿る。
月だけでなく、あまねく天空さえも一滴の草露にも宿る。
宿った月が水を壊さないように、どんな現実も悟った人の心を壊さない」
ありのままに物事をとらえ、そのままに生きると心が平安になれるということだろう。
☆昨日軽トラ一杯分の粗大ゴミを捨てたら
もう30年も物置にとっていた余り使わないものを捨てたら、長年の重荷がとれたような軽快な気分になった。
そこで、こう思った。
人の生活も自然循環させるように、人の心も自然循環させることが大事なんだ!
生ゴミ→堆肥→野菜 の自然循環のように、
思い出(執着)→整理(廃棄)→新しい夢(実現) の心の循環が必要なんだ。
心の自然循環とは引っ越しをするようなものなんだ。
夢とはあたらしい家のことであり、執着は古い家のことである。
執着の家から夢の家への引っ越しをすることなんだなあ。
その繰り返しがありのままに生きるということなのだろう。
死ぬまで生きる
エゴを捨て、エゴを作る
生きては死に、死んでは生きる
その繰り返しが心の自然循環なのだろう。
アミ小さな宇宙人」という本を読みましたか?
彼は11歳の子どもと初めて出会う〜
彼は言う〜”海に映る月を見たことある?
海から〜月〜
夢こそまこと
水に映る影こそ〜まこと〜
当たり前のおと!
イワトすでに開き〜〜
世界は僕らの手の中〜〜〜〜
>kanitokotatiさん
>アミ小さな宇宙人」という本を読みましたか?
読んだことはありません。
カニちゃんのこのコメントから想像すると、
海に映る月がまことなのか?
空にある月がまことなのか?
現実がまことなのか?
夢がまことなのか?
ってことなんでしょう。
通常は空にある月と現実がまことなのですが、そうじゃなくて、海の映る月と夢がまことだっていう話なのでしょう。
これは唯心論が正しいのか、唯物論が正しいのかってことでしょう。
私はこう思うのです。
物事の真偽はその心が決める!
心は主観ですから、主観によって、唯物論にも唯心論にもなり、かつ、どちらにもなり、どちらにもならないってことにもなる。
つまり、自分が自分であれば、何も迷うことはなくなるってことです。自分らしく生きるのが心が安らかになることだと思えます。
自分とは何ぞや?
ココロとは?
すべては〜目には見えないものから生まれる〜
落ちて来ない月は〜目に見えるもの
不動は浮動である。
海に映る月こそ〜まこと!
なぜなら〜いのちはゆらぎなのです。
絶えまなく変化しているの〜
唯神です。
心と物を別けているのは、アタマです。
アタマはONE LOVE を知らない。
大地、足の裏に意識を移せば〜すべてはつながっている〜
アタマはすべてを分け隔ててしまう!
天と地のアイだに人は立つもの!
人は天地経綸の主体なり
とは〜王二三郎の言の葉
>海に映る月こそ〜まこと!
王二三郎さんとそれを信じる人しか、そう思わないでしょう。
それに、ほとんどの人は目に見えるもの、触って確かめられるものがほんものだと信じます。
人がコミュニケーションする場合は、共通の認識があって初めて可能になります。だから、
誰でもが、数字の1を1として認めることから、計算できるように、物事は科学的な認識から、会話した方が言葉のピンポンができるでしょう。
自分の信じたことを主張するのが肝心なのではなく、自他の会話・コミュニケーションが肝心だと思うのです。
私にとって神は時間と距離の放物線を描く図の中の0という基点にすぎません。また、世界の標準時間をイギリスのロンドンに定めたようなものだと思っています。