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生きているということ
それは
死んでいくということ
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昨夜、実に妙な感覚に陥った。自分が生きているのか、死んでいるのか、その境が無くなってしまったような世界にはまりこんでしまった。
いったい、私が生きている死んでいるってどう判断しているのだろう。それが両方できるのは他人だけだ。自分では生きていることは判断できても、自分が死んでいるなんてことはけして判断できないはずである。
それに、亡くなった父母が本当に死んで、すべて消え去ってしまったら、どうして思い起こすことができるのだろうか? しかも、亡くなってから10数年たっても、まだその大きな影響力があるのいうのはどう判断したらいいのだろうか。
時が過去、現在、未来があるが、私が生きていた一生を現在という時間に収縮したら、私の過去も、未来も、私は死んでいることになり、生きている時間は現在でしかないことになる。
私たちの思考や認識は相対的なもので絶対的には判断できない。
善があるから悪があり、悪があるから善がある。
過去があるから現在があり、未来があるから現在があり、それらの逆も真なりである。
となれば、生と死も意識であり、生死を分ける境界線の問題にすぎなくなる。
私の生死の意識が肉体ではなく、他人に対する影響力が働くかどうかになったため、肉体の生死の境が消えてしまって、自他の相互の影響力があるかどうかが、生死の境になったということになる。
なんでこんな妙な感覚に陥ったのかというと、
最近、生ゴミから野菜を作る自然循環をどうするかをやっていると、自分自身もまた生ゴミのような気分になってきたように思える。
どんな人も野菜のように、熟したら死んでいく。死んですべてが消えてしまったら、そこですべては終わりである。
でも、もし、野菜が死んでいき生ゴミとなって、堆肥になり、新しい野菜の養分として生まれ変わるならば、その野菜は生き死にまた生きる繰り返しをすることになる。そのため、死ぬということはまた生まれ変わるということになる。
しかし、その野菜が生ゴミとなり堆肥として使わなければ、生まれ変わることはなく、本当に死んでしまうことになる。
人も同じではないだろうか!
人も未来の人のための堆肥になるか、ならないかが、生死の分かれ目になるということである。もし、命の堆肥が繰り返されるならば、その人はずっと生き続けるということであり、また、命の堆肥が繰り返されなくなったときが本当の死ということになる。
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生きているということ
それは
未来の人の堆肥になっているということ
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おおー!!
すごい。なるほど。
なんだか、いろんなところでみんなが真理を得ていて、びっくり。
誠実に生きてるんだなあ、みんな。
>pikaさん
え? 理解してくれたの? 自分なりにえらい難しい思索をしたので、解ってくれる人がいるかそれが心配でした。
きちんと、自分が理解すれば、相手にもしっかり伝えることができることがわかってとても安心しました。
一つ気に入っている言葉があって
「あきらめたときが失敗なんだ」
これは「夢は必ずかなう」と信じることをいうのだけれど、
反対の言葉として、
「あきらめが肝心」という言葉も好きなんです。
両者は矛盾するようにみえるけど、矛盾なく理解できるのです。
「昔の夢はあきらめが肝心、今の夢はけしてあきらめないことが肝心」
とすると、過去の執着を捨て、新しい夢に向かって生きようってことになるのでしょう。