お金を自然循環させるためには、現システムにおける、お金の利息付き貸借循環と対比、また類するように、マイナスの利息をかけ、それを貯蓄税として、お金の真の発行者である国に戻し、そして、それを社会保障費として国民全体に分配することである。
その際、紙幣やコインではそれを保有貯蓄することで、マイナスの利息である貯蓄税をかけることができないため、脱税や所得格差が不正に増大してしまうため、電子マネーでなくては、税と社会保障の循環は実現できない。
そこで、もしお金の保有そのものに課税し、税と社会保障の一体改革をした場合、金持ちはどんな手段でさらに儲けようとするだろうか?
中国が紙幣を信用せず、モノである金に変換して、財テクするのと同じ方法がとられるであろう。それは過去金本位制があったためであると考えられる。金でなくても、不動産などに投資して、財テクするだろう。
お金をモノや権利に替えておけば、お金を保有することで、マイナスの利息として、税金がとらえ、いつしか無くなるおそれがないからである。
金や不動産はいわばモノの所有権のことである。国の差というのはその領土の所有権のことであると言ってもいいだろう。
金や不動産や領土などの所有権とは一体何なのだろうか?
もし、勝手にそれらの所有権を主張すると、大小あっても、最終的に殺し合いの戦争に発展する。それは動物のなわばりを守ろうとするような死闘する戦いになる。弱肉強食の原理である。
この勝手に自分の所有権を主張することをエゴという。このエゴが諸悪の根元になり、社会が崩壊する原因にもなっている。
そこで、エゴを取り除くために、個人の所有権を無くしてしまい、すべて国家の所有権にしたら、はたして平和社会になるだろうか? その答えはノーであり、すでに世界歴史が社会主義・共産主義の失敗として、その残骸のような北朝鮮のように、一族の独裁君主制になっていることで証明されている。
それは個人でなければ社会という二者択一判断に間違いがある。個人とは自我を持つ人間のことであり、その反対は自分とは反対という意味で他人のことである。社会とは個人の集まりのことであり、社会や国は個人の反対ではなく、ただ個人の集まりの大きさの違いにすぎないのである。
公とか、社会とか国とかいう個体のような存在はないのだ。
試しに、この公園はみんなのモノであるという看板を立てておく。ある時、エゴのある者がやってきて、そこにビニールハウスを建てたり、ゴルフ練習場にしたとする。そこで、あなたが彼らに文句を言うとしたら、きっとこう答えが返ってくるだろう。
「ここはみんなの公園である。だから、私がビニールテントを建てようと、ゴルフ練習をしようと勝ってではないか。君もそうしたかったら、そうすればいいではないか。俺の横でもいいよ、仲良くここを使おうではないか!」
これは先住権と同じで、先にその所有権を長く主張した者がその所有権を持つことができるというものである。
自分では文句がいえないので、公園の管理人である国に提訴して、ビニールテントを撤去させるだろう。この場合、公園の管理人とはみんなの代表者として信任された者のことである。けして、社会や国という存在ではなく、信任された個人のことであり、その信任もまた、武力や金でその権利を持つことだってできるものであり、それが独裁につながるのである。
みんなの公園として管理するには、公園でできる内容が規定され、それ意外の使用をした場合、罰金などをかすことで平和になる。
所有権とはみんな(社会)から認可されることが条件である。エゴはみんな(社会)から認可されていない所有権のことである。
この所有権の維持には不動産のように固定資産税を納めなければその権利を失うようにすると、モノはみんなに多く平和的に流通することになる。
みんなの公園で、もしビニールテントを建てたければ、期日を1日そして、使用税を数千円払うようにすれば、みんなの使用も可能になる。
金銀財宝でも同じで、どんなモノの所有権も、所有期限や税金をかけることで、お金の自然循環のように、モノやサービスも自然循環できるようになるだろう。
お金もモノもサービスもその保有に関して、その期限と保有税がかけられ、、それを社会保障や公共事業に回せるようにシステム化(法制化)すれば、この国もみんなの国として使用がしやすくなるだろう。