私が10代のとき、悟りというものにあこがれた。悟ると、仏陀みたいな知力や能力が得られるとそう思いこんでいた。それがまるで超能力者のような人間になれることでもあったのである。
60代になった今、その時の自分の悟りへのあこがれる姿を振り返ると、それはサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれるということを信じて疑わなかった少年の顔と同じに見えてくる。
サンタクロースの世界と、悟りの世界とは同じ夢の物語だからだ。
人生につまづいて、人は宗教に救いを見いだすことがある。宗教にはその中心に必ず神仏があり、その存在を信じることから始まる。仏陀という言葉は悟った人のことである。釈迦は仏陀第一号ということになる。
つまり、悟りの世界が存在すると信じることから、救いをえる。もし、悟った世界をないと信じなければ宗教による救いはない。キリストの「信じれば救われる」と同じ第一歩があるからだ。
では、神仏を信じなければ救いがないかというと、そんなことはない。それは「不悟の悟り」というのがある。それは「不知の知」ということであり、哲学者のアリストテレスや老子が提唱しており、馬鹿な自分をそのままありのままに認めることで、救われるからだ。
神仏を信じようと信じまいと救われる者は救われるのである。
そもそも「悟る」とはどういうことであろうか?
「悟る」とは「知る」ことであり、知る内容がすべてであり、一部分であり、知ることにはかわりがない。知ることが解れば、悟ることも解るということである。
では「知る」とはどういうことであろうか?
「知欲」という言葉があるように、「知る」とは「欲望」の一つであるから、「欲する」ことである。
よって、「欲する」ことが解れば「知る」ことが解る。
キリストの「求めよ、さらば与えられん」という言葉のように、「欲せよ、さらば得られる」ともいえ、今風にいえば、
「夢を持て、さらば、必ず夢は叶えられる」
ということだ。
その底にあるのは「欲望」であり、その欲望はかならず満足する。明日が来ない夜がないように、満足しない欲望はないのである。
また、満足した欲望はそれを欲しない欲望である。
欲したモノが何であり、それをもう欲しないことが満足であり、それを最初から欲していない状態のときも、満足しているといえる。
つまり、「悟った状態」とは「満足したj状態であり、また、「悟ろうとしない」状態のことであるといえる。
満足した状態と、「悟ろうとしない」状態の違いは何かというと、悟る内容が「すべて」なのか、「一部」であるかどうかである。
欲望は終点のない特急列車と言われるように、もし、すべてを得ようと欲するならば、限りがなく、またすべてを得ることがありえないことである。なぜならば、欲望が成立するには求める対象が不可欠である。求められる対象があれば、必ず求める自分があり、すべてという対象には自分も含まれるために、すべてを求めた時点で、自己矛盾に陥ることになり、すべてを得られることはありえないと証明できるからである。
悟ることも、欲することも、重要なのは具体性があるかないかである。具体性があれば、それが得られることもあるし、得ようとはしないこともあるので、必ず叶えられるということである。
悟るということ、
それは満足するということ、
それはそう難しいことではないみたいだ。