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二者択一ということ

土曜日, 7月 14th, 2012

 もし世界が生と死のように、二者の世界しかなかったら、次の方式が成り立つ。

 それが生きていないならば、それは死んでいる。
 それが死んでいるならば、それは生きている。

 不生=死 不死=生 である。

 犯罪が無罪か有罪かの二者択一しかなかったら、 それは碁石の 白か黒かしかないので灰色もその他の7色もありえないことになる。

 私達が理性とか知性というのはこの二者択一がベースとなっている。

こうした二者択一の理性を脅かすものは、二者択一の前提を否定して展開される言い訳・論理であり、そこから産まれる感情である。

 生と死の二者択一を否定した場合、理性ではなく、宗教の信仰が発生する。

 それは死んでもいなければ、生きてもいない。それは生死を超越した魂である。魂は永遠不滅の存在である。それを統括するのが神仏であり、その神仏が宇宙を創造しているという論理になり、その論理を信じて、その神仏を崇めれば宗教になる。

 自然と人間

 自然と人間を二者択一で展開していくと、意外と物事をすっきりと観察することができそうだ。

 つまり、こうだ。

 自然とは人間が何も手を加えないことである。逆も真なりで、人間的とは自然に何か手を加えることである。

 極論すれば、この地球上に人類が存在しない世界が自然であるということである。それは人類誕生以前の世界が自然であり、人類がいなければ、戦争も、原発事故も、津波により悲惨な事故もないのである。電気も金も必要のない世界になる。

 そもそも人間が存在しなければ、こうした二者択一の理性もないのだ。

 そのため、人が自然という場合は、何かしらの手を加えるが、できるかぎり、苦労しないで、人の目的を達成する方法のことである。

 機械はまことに自然に動くので、実に自然的といえるが。その機械が古くなり、故障が多くなると、苦労が多くなるので、新しい機械に替えるのも自然的であるといえる。

 だが、原発のように重大事故で人類全体を危険に陥れるような機械は動かせば動かすほど苦労が多くなり、人類生存を脅かすものになるため、自然的ではなく人工的であるといえる。

 自然農というのは、最小限の手間で、最大の収穫をえる技術のことである。機械も農薬も、肥料も、いらないで、日々の食料が常に収穫できる苦労のほとんどいらない技術である。

 私が自然農を研究しているのは、もし人が収穫をしなければ、麦米大豆は雑草のごとく自然と実ることができるのではないかという想定の検証である。

 毎年生える雑草の種類はそう多くないので、人が食べられる米麦大豆もそうできるのではないかというものである。

 それは魚と同じで、人があまり捕獲しなければ毎年その魚は同じようにとれるからである。

 人の健康も同じで、人が美味いものを作り食べつくさないようにして、質素な食事で我慢できれば健康も維持できるのと同じである。

 食品加工でもそうだが、米の殻をとって白米にし、それをおいしく食べることで、殻の栄養を他の野菜や肉で補うのは、苦労多くして、健康維持を難しくしているのではないだろうか。

 私は麦を収穫して、精麦しないで、そのまま圧力釜で炊くだけでおいしく食べられることを発見した。どうして、製粉し、それを麺やパンにし、しいてはケーキなどにしてどんどんおいしく食べる方法を追求するのは、苦労多くして、ダイエットに苦しむようになるように思えてならない。

 確かに肉はおいしいが、それを作るのは大変である。もし、大豆のような蛋白質が豊富な食料で我慢できれば、苦労しないで、人の健康を維持できることになる。健康を害してまで、おいしいものを食べる必要はないだろう。

 自然農というのは質素分化の基本にきっとなるだろう。