勝負の世界・弱肉強食の世界、その姿をどちらかの立場で応援した場合、勝てば有頂天で喜び、負ければ愕然として苦しくなる。生きる目的を持てばこの苦楽は必ず付いてくる。 この苦楽を超えて静かに勝敗を楽しむには双方を応援し、双方がいかに戦うかを味わうことだ。それは戦う本人にもいえるだろう。
サッカーの国際試合を観ていると、やはり自国の日本をどうしても応援してしまい、勝と楽しいが、負けると悔しくてたまらない。負ける試合は後味が悪いので、みたくなくなる。
あの中国での試合でも中国側の試合する前からの日本へのブーイングはとても見苦しいものがある。その立場が逆であったら、自国のスポーツのマナーに欠ける恥かしく思う。
それがスポーツではなく、戦争であっても、敵国への敬意がないと見苦しいものがある。 スポーツに反則が許されないように、戦争でも相手の命を奪う行為は反則として、国際世界のマナーとしたいものである。
動物のオスが縄張り争いをするが、その時でも相手を殺すまでの勝負をしない。相手が降参した時点で勝敗が決まる。同種同士の闘いは殺し合いをしないのが自然法であろう。
生物の世界では生きていくためには異種の生物を食べ、また食べられている。その生物界の王者として人類が成った。王者の責任は地球上のすべての生物を管理する役目を負う。異種の生物同士が食べ食べられるように、その数を調整管理することで、人類は王者としてこの地球上で長く生きられる。
もし、ある種の生物が多く絶滅するような場合、人類の地球の王者としての地位はなくなり、自らを絶滅させてしまうだろう。熱帯雨林がなくなり、砂漠化、温暖化、また放射能汚染を広げれば、人類の食べ物も命もなくなってしまう状態になる。
一つの弱い絶滅種の運命は未来の人類の未来なのである。なぜなら、生物はみな食べ食べられて、一つの生命体としてつながっているからである。
この勝負と弱肉強食の生物界において、人類がどう各生物と向かいあうかは、人間同士の闘いの場において、どういう意識を持つかで決まってくる。
それは勝敗に固執して、その苦楽に一喜一憂しないことである。闘う両者の生き様を観戦することであり、たとえ、負けてもその闘い方が感動したら、その人を応援し、たとえ、勝っても、その闘い方が醜かったら、その人を応援しない。それが国際試合であっても、国で応援することはしないような観戦がこれからの国際人として、また人類が他の生物に対しての責任であろう。