神は生きる目的としての象徴という姿が似合っている

 昔、神を必死に求めたことがある。その時、神は私のすべてであり、生きる目的であった。しかし、神であると思っていた存在が単なる人であると知ったときから、本当の神とは何かを考えるようになった。

 その結果、神とは生きる目的であると知った。以前は神が生きる目的であったが、その後は生きる目的が神になった。

  この両者はともに逆は真ならずで、内容は天国と地獄の差ほど違いがある。

神が生きる目的である(神>生きる目的、神≠生きる目的)
・・・ 神は生きる目的であるが、その逆の、生きる目的は神ではない
 

生きる目的が神である(生きる目的>神、生きる目的≠神)
・・・生きる目的は神であるが、その逆の、神は生きる目的ではない

 これを簡単に言うと、以前の私の生きる目的は神だったけれど、今は生きる目的が神ではなくなった、という意味である。

 そして、生きる目的が神であるという意味は、天皇は日本国民の象徴であるというように、神は生きる目的の象徴であるということである。生きる目的はいろいろあるが、その中の一つである神をそのシンボル(象徴)として扱うという意味である。

 以前、神は生きる目的ではあったが、今は生きる目的の象徴を神という言葉に置き換え、実際の私の生きる目的は神ではなく、家族になり、家族が私の神(生きる目的の象徴)になったという意味である。

 生きる目的とは、いわば時間は常に前に進むので一方通行の関係であり、未来は過去になるが、過去は未来にはならない(未来>過去、未来≠過去、過去≠未来)

 神は天地創造主であると信じた場合、未来=過去 になり、人は石のような固定した生き方をするようになる。しかし、現実に神は見いだせないように、未来>過去であり、人は前に進む一方通行の時間に合わせて、常に過去を悔い改め、未来に期待を持つ生き方をしている。

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