食べる、それは分け合うということ
金儲け、それは奪い合うということ
もう63歳になると、お金を稼ごうとすることの馬鹿馬鹿しさを痛感する。私のメインの仕事は畑仕事とリフォームと店経営である。それはまったくお金にならないだけでなく、かなりのお金が出ていく。
収入のほとんどは倉庫と駐車場とアパートを貸した賃貸料だけである。その賃貸料だって、借り主が家賃を延滞する人が半分おり、安定的に入ってくるものではない。
しかし、過去貯蓄した分と併せていけば暮らしに困ることはない。
そんな状況の中で一番の悩みの種が、家賃滞納者が倉庫にゴミを押し込んでしまっていることだ。退去してもらっても、そのゴミの処分量はかなりの額になることだ。
そこで、この悩みを分析すると、直接的にはお金が稼げないことだけでなく、赤字になることだ。しかし、今の自分に対処できない金額ではないが、なんとしても許せないのは倉庫をゴミ置き場として放置していることである。
その滞納者のマンションもまたゴミ屋敷であり、その管理費も数ヶ月分滞納している。ゴミ屋敷の住人はほとんど精神的な障害をかかえているために、そうなってしまうように思える。お金がない問題ではなく、ただお金があっても払うのが嫌なだけである。ゴミも捨てられない性格がひどくなったものである。
もし、私がお金とは関係なく、このゴミ屋敷の人を助けるだけでなく、社会的にもよくしようとしたら、どんなにお金がかかっても、倉庫のゴミを処分して、もう二度とその人に倉庫を貸さないことである。
つまり、金儲けしようとしたら、私は悩むが、人助けしようとしたら、私は悩むどころか、楽しくなる。まさにピンチはチャンスである。延滞されることは悩ましいピンチではなく、楽しくなるチャンスなのである。
これは今蔓延している資本主義の世界全体でもいえて、お金を稼ごうとすると悩み、人助けをしようとすると楽しくなる。
基本的に今のお金は奪い合うもので、その損得で成り立っている。会社の黒字は得で、赤字は損というわけだ。日本国も資本主義の金儲け主義で、不良品なる原発を世界中にトップセールスをしている。
赤字は不景気で悩みの種であり、黒字は景気で快適というように、すべてがお金のあるなしで国民感情が動いてしまっている。
こうした国民意識は「お金がないと食べられない」という金依存症に陥っているといえる。お金を実際食べることができるだろうか? 食べることができるのは食料であって、お金をその食料と交換する証券にすぎない。
しかし、現実にはお金がないと食料を得ることはできないため、お金がないと食べていけないと思いこんでしまう。
うばい合えば 足らぬ
わけ合えば あまる
「「わけ合えば」
うばい合えば足らぬ
わけ合えばあまる
うばい合えばあらそい
わけ合えばやすらぎ
うばい合えばにくしみ
わけ合えばよろこび
うばい合えば不満
わけ合えば感謝
うばい合えば戦争
わけ合えば平和
うばい合えば地獄
わけ合えば極楽」
世界中の食料をもし分け合うならば余るくらいあるけれど、現実世界は金儲けのためにその食料を奪い合って、贅沢して太る人と飢餓で亡くなる人がいる。お金のない人には食べ物が足りなくなっている。
これは今のお金のシステムが奪い合う自由市場になっているからである。
もし、4人の人がいて、そこに食べ物があれば、みんなで分け合って食べて楽しむだろう。しかし、もし、そこにお金があれば、みんなで麻雀して、そのお金を奪い合い勝ち負けを楽しむだろう。
この地球上で人類が他の動物よりも進化して、一番繁栄できたのは、食べ物を分け合って生き抜く知恵をもったからである。
金儲けで奪い合うと悩みはつきることはなく、食べ物を分け合うと、悩みはなくなり楽しみになる。
これは個人でも、社会全体でも、お金の依存症から脱却して、食べ物を分け合うような生き方に変えれば、悩むことなく楽しく生きられる人が多くなるだろう。
ただ、奪い合うことは常に地獄ではない。サッカーでボールを奪い合って勝敗を決めるのは楽しみであり、それは天国でさえある。そのため、こういうことがいえるだろう。
お金を食べ物のように分け合えば極楽
お金をボールのように奪い合えば地獄
今、お金のシステムを根本的に変えねばならない時期であり、それが人類がこの地球上で今後も繁栄できるか、滅亡するかの境目にきている。