稲をオオキンケイギクのように育てよう

 夏草の種類は多く、雑草においてもその生存競争は激しい。
 夏草である稲を育てる場合、雑草との生存競争を戦うのだが、人間が雑草をとらないと負けてしまう。
 しかし強い雑草に勝つ特定外来生物のオオキンケイギクがある。
オオケイギク1
 道路沿いにきれいに彩る花はとても雑草には思えない。毎年、きれいに咲くので、刈るのもはばかれる。

 このオオキンケイギクのように、主食である稲が、強い雑草よりもはるかに強く繁殖力が強かったら、農薬も機械も必要がなく育てることができるはずである。

 しかし、今の稲は人間の手を借りなければ生育できないペットのような生物であり、それに人は頼って生かされている。人が田圃を造って稲の苗を植えなければ、そこは雑草がはびこる荒れ地になる。

 それは人は働かないと食べていけないような仕組みを作ってきてしまったようなものである。どんな草花だって元は雑草のように人手を借りなくても生きられたであろうし、人もまた、エデンの園のように、働かなくても、そこにいつでも食べ物があってそれを食べていけることができたと想像できる。

 人が雑草を殺し、稲だけを育てようとして、稲本来の生きる力を奪ってしまったのではなかろうか。稲は人に依存して生きるしかできなくなってしまった。

 人が稲やその雑草に対して、間違った力を加えたために、「働かなければ生きていけなくなった」のではなかろうか。

 もし、人が雑草よりも強く生きられるオオキンケイギクのような稲を育てようとしたら、こんなに汗水たらして働く必要はなかったのではなかろうか?

 お金のシステムだって、「働かなければ生きていけない」ようなものになっているが、それは「貸した金は利息を付けて返すのが当然」ということにしたために、そうなってしまったのではないか。

 お金は「奪い合えば足らなくなり、分けあえば余る」というシステムにすれば、「働かなくても、みんな十分に生きられる」ようになれるのではないだろうか?

 例えば、稲がオオキンケイギクのように道ばたにいくらでも育っていれば、米を金のように奪い合うことはなかっただろう。お金はただ紙に印刷しただけのものにすぎないことを忘れてしまって、その損得で奪い合っているから、いつでも足りないで苦労しているのではなかろうか。

 人は金と労働の依存症になってしまった。その依存症から脱却するには農薬や機械や金や労働に依存しなくても、育つようなオオキンケイギクのような稲を育てることから再出発することが一番必要な気がする。

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