最近は三毛作への挑戦で、麦刈り、田植え(畑植え)、大豆まきで、ブログを書く暇もないくらいだ。一日3回着替え、風呂に入る。飲料水は2リットルくらい飲む。体力を使う分、たくさん食べ、甘いものが欲しくなる。ダイエットは無理だが、食べても動くので、体重は変わらない。
秋の福岡式米麦栽培の失敗が大きく、稲の栽培に時間がなくなってしまった。稲苗を作ってから、移植するのはかなりの時間と労苦を強いられる。とくにコシヒカリの稲苗は雑草が生い茂り、コシヒカリが雑草に負けて全滅しはじめた。それをとめるために、雑草とコシヒカリの分離と、さらに、移植しても育たないような弱小の稲苗とを分離する。
これがやたらに時間がかかる。その合間合間に麦刈り、移植、大豆蒔きと移植などいっきにやってきた。
夏の雑草はものすごく勢いがよく、野菜をうめつくしてしまう。大豆を雑草の代わりに育てることを決定したら、次の方針がはっきりしてきた。
野菜も雑草の一部にすぎない。まわりの畑では機械で雑草を刈っているが、その理由がわからない。たんに見栄えがよくないか、歩きづらいかだけで、雑草を刈るか、除草剤をまく。
人間勝手な所作であるが、同じ人間勝手なら、もっと前向きというか、建設的な雑草刈りもあるだろう。雑草を野菜に交代させるという考え方にすればいい。私の場合は、雑草をすべて大豆に交代させようとした。破壊と建設は一体だ。生と死はコインの裏表みたいなものである。
人の善悪だって、考え方次第でひっくりかえすことができそうだ。
例えば、死刑に決まった罪人の処置である。死刑者をたんに電気椅子や首つりをして殺すという処理はあまりにマイナス的発想である。
死刑囚の善悪は意識から決定されるが、その肉体に善悪はない。しかも、健康な肉体は内臓などのどこをとっても、移植し、他人の命を救うことができるものだ。
死刑イコール献体という考え方に変わった場合、自分の命を捨てて多くの人の命を救う善人の姿になるではないか。罪を悔い改めるというのは、悪を善に代えることで、悪を殺すことではないのだ。
雑草を悪とすれば、雑草を野菜にするのが反省や悔い改めである。死をもってつくなうのは、死ぬことではない、自分の死をもって、他人の命を救うことがつぐないではないだろうか。
人の死は死刑であれ、事故であれ、自殺であれ、自然にとって死は死であり、その区別はない。そして、死は再生というのが自然の掟である。
人も自然にまねて、死を再生と考える意識をもてば、ずいぶん世界は代わるだろう。人の意識は根本的に生死からくる善悪・良悪である。不快なことは快適にするのは意識のしかただけで可能になる。
自然において、「ピンチはチャンス」は常なのだ。
我々の意識によって、世界はどんな姿にも変わる。意識はいわば色眼鏡みたいなものである。黄色い眼鏡(意識)をもてば、黄色い世界になる。赤い眼鏡(意識)をかければ、赤い世界に代わる。
自分も世界も、どんな意識をもつかで、すべて代わってしまうのである。