今の農業はおかしい

 うちに半分の畑や家を売った人の姿とその農法をみると、私が目指している農業とまったく逆だった。

 私は草刈りを手で抜き取って、種を植えるのだが、売り主は除草剤をまいて、枯らしてしまう。除草剤はホームセンターで安く売られ、数百円もあれば、私が雑草を抜き取る手間の1週間を10紛でやり遂げてしまう。

 土地を耕す耕耘機もそうだが、1日かかる作業をやはり10分でやりとげてしまう。麦だって、刈り取り脱穀をコンバインダーで、1週間の仕事を10分でやってしまうことが可能である。

  だが、売り主の姿をみていると、毎日早朝から遅くまで、働きづめである。私に半分の土地を売ったのも借金が払えなくなったからだ。

 「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざり」という姿が売り主にある。何かがおかしいのだ。働けば働くほど楽になるはずなのが、今の自由競争時代の鉄則ではないか!

 まわりの畑をみると、無くても生きていける「桃とぶどう」ばかりである。生活に欠かせない「米」づくりしている農家はほとんどない。売り主だって、売れる野菜だけをハウスで、しかもプラタンで栽培している。

 まして、手作りで、麦や大豆をつくる人はまったく皆無だ。小麦と大豆は毎日の暮らしではかかせないほど消費しているのに、そのほとんと輸入に頼っている。

 国内で作るよりはるかに安く栽培できるからだ。その価格は大型機械と手作業の作業効率の差となって表れてくる。

 私はこうした今の日本の農業を見ていると、アフリカのカカオ栽培で働く少年を思い出す。少年は栽培するカカオがチョコレートになることも知らないし、ましてチョコレートなんか食べたこともない、貧困な家庭の子供だった。

 つまり、今の農業は世界的に「お金になる農業しかやっていない」のだ。そのために、「食べるための農業を本来の姿を忘れてしまっている」のだ。

 もし、アフリカでカカオ栽培をしないで、そこが、大豆やとうもろこし栽培だったら、その少年はきっと食べることに困ることはなかったと思うのだ。金がなくてももっと幸せな生活ができただろうと思えるのである。

 なんでも金がいる生活だから、生活するためには、金になる農業をしなければ、子供を学校に入れることも、病院に行くこともできなくなる。金がなければ、銀行で借金しても、その利息と元金をはらうために必死で金をもうけようとする。

 機械や農薬があれば、大変な労苦をしなくても、楽に栽培できる。そのため、金を計算して、どっちが儲かるかを計算して、決断する。その計算や予測を間違えると、借金まみれになってしまう。

 金のための機械や農薬や教育や医療そして政治もそうだが、なんかおかしい。機械のように働くために機械を作り、病気を増やすために農薬を作り、金を儲けるための勉強をし、患者を多くこさせるための病院を作り、金で政治を動かす。

 人が本来あるべき姿を忘れている。その本来の姿を見せなくしているのが「金の社会」である。楽して金を儲けようという社会は、原発が安上がりだという理由だけで、原発を推進する。でも、そこで起きた事故は、人が鳥や動物のように、本来生きていける暮らしを破壊さsていることを気づかせる。

 金の計算をやめて、人らしい本来の生き方を取り戻そうではないか。そうなれば、食べるための農業が復活するなら、海外から安い基礎食料を輸入しないで、自分の国で生産するだろうと思うのである。

 

カテゴリー: 社会問題, 自然に生きる パーマリンク