死ぬということは独りになるということ

 事故はいつも仕事が終わってホッとしたときに起きるもんだと、長い経験で知っていた。それは気を抜いた時に、「うっかりミス」をしやすくなるからだ。

 仕事が終わって、100円ショップの前のガードレールの空いたところに駐車して、買い物をすませて、車を発進させたら、死角となる目の前のガードレールにぶつかった。一瞬、なんでぶつかるの?」というような「まさか」があるもんだ。

 こうした仕事が終わったうっかりミスは重大な事故につながるので、「最後の最後まで気を抜くな」というのが、私の人生観だった。

 だが、昨日も、このうっかりミスをしてしまった。

 屋根といを修理するために、崖の上から屋根に折り曲げられるハシゴをのばして、両サイドのフックをはめて、工具とともによじのぼった。ここ数日、屋根の塗装で何十回もそうして安全だった。

 修理というのは、屋根トイのカバーがめくれあがってしまったのをなおすことだった。、雨がふると、屋根に降り注いだ雨は、いったんトイのカバーにぶつかって、トイに流れ落ちる構造だが、雨がカバーからトイに集まらずに、そのまま落下するので、大雨の時にはバタバタとすごい音がしてしまう。

 トイカバーはトタンでできており、六角レンチを使うボタンキャップというネジで止められている。そのネジをはずそうとしたが、六角レンチが空回りして、どのネジもはずせなかった。さび付いていたからだ。そのため、無理やりカバーをめくりあげ、たまったゴミを火ばさみで取り出し、さらに、カバーをとめる骨材と骨材にボルトで穴をあげ、それをネジかハリガネで固定する。その際、屋根の上から、下をのぞきのむような体制でやるので、ハシゴに足をかけないと、それができない。しかも、ハシゴを屋根の上から、ハシゴを回転させて移動しながらしないとできない。

 ここで、すっかり、修理に夢中になっていたので、折れるハシゴをのばして、その上下を忘れてしまっていたのだ。なんとか修理がうまくできて、ホッとして、工具を抱えながら、そのハシゴを伝わって屋根から崖に降りようとした。

 そして、「まさか!」が起きたのだ。

ハシゴが折れて、ハシゴごと、私は崖の下に落下してしまった。その瞬間に思ったのが、

「なんでハシゴが折れるんだ?」

「まさか、ハシゴが折れるなんてあるのか?」

 病院から帰ってきて、事故の原因を探してわかったのが、ハシゴが裏返しになっており、片側のフックが大きくのびあがってとれていた。もう片方のフックははずれていた。もし、フックが両方きいていたら、かなり防げたかもしれない。片側しかつけなかったのか?

 そこで、使っていたもう一つのハシゴをみたら、片側しかフックをかけていないので、これも安全ミスがあったと予想した。

 ハシゴは折れ曲がる部分が大きくへこんでおり、近くにあったコンクリートブロックがまっぷたつになっていたので、それにぶつかった可能性が高い。

 医者も言っていたが、運良く骨が折れていなかった。それは覚悟していたが、両足と片腕の打撲裂傷だけですんだようだ。救急車を呼ぶこと考えたが、汗と泥でよごれた服のまま病院にいくのが嫌だったので、娘にズボンとくつしたを脱がさせ、シャワーを浴びた。傷口を念入りに水洗いし、マキロンで消毒した。医者がいうのは、傷跡を水で洗ったのは正解だったようだ。

 この事故で、自分は死んでもおかしくない状況だった。打ち所が頭などだったら、死は覚悟しなくてはならない。当初ヘルメットと安全ロープを付けて屋根塗装をしていたが、二日目以降はすべてはずしていたのも、安全ミスがあったといわざるをえない。

 死はいつきてもおかしくないのだ。そして、夜がきて、自分の死について夢想していた。そして、朝が来ると、一つの答えが出てきた。

「死ぬということは独りになるということなんだ!」

 実は以前から自然ということは何かを考えていた。そして、死とは再生のことだということを自然循環の姿から観察していた。

 しかし、この事故で、死とは何かをもう一歩つっこんだ結論を導き出した。

speedのbody & soul という歌があるが、体と心の意味でもあるが、英語でいうと、肉体と魂というような人の二面性を表すタイトルである。

 人の肉体が消えても、その魂は残ると言われているが、その魂というのは実際存在するのかどうかは疑わしいのだ。それは哲学上でも、唯物論と唯心論で争われるように、神の存在を証明するごとく難しいものである。

 肉体と魂とそのどちらを優先するかが、古今東西人類にとって、永遠の課題にさえなっている。それは戦国社会おいて、「戦わずして生きるよりも、戦って死ね!」というような教訓にも顕れている。

 昨日の白虎隊のドラマも「自己の尊厳か、自己の命か、どちらが大切か?」の選択で、「武士として自決するか? 武士を捨てて百姓として生きるか?」になってくる。

 ハシゴから落下したときには、回りには誰もいなかった。たった独りでうんうんうなっていたのだ。そのとき、

「死ぬというのはいつでも独りなんだなあ!」と実感していた。たとえ、同じ事故でたくさんの人がいたとしても、死ぬ時期も違い、死なない人もいるので、そこで明らかなのは、死ぬときは常に独りであるということだ。

 逆にいうと、

「生きているときは常に誰かといるときである」

 つまり、生きているのは誰かとの絆があるときで、その絆が切れたときが、死んだということなんだ・そう気づいた。

 人の言葉の意味するところが逆になることが、諺などでもけっこうある。「諦めが肝心」というのと、「諦めたときが終わりだ」で使われる諦めの意味が良い悪いで使われるのである。

 戦争で敵味方という場合、双方で敵味方は逆になるのもそうである。

 古代からの日本人の思想で、「この世とあの世」と、現世の生きた世界と、死後の世界とを分けて表現している。人はこの世で死ぬとあの世で生まれ、あの世で死ぬとこの世で生まれる。つまり、人の生死はこの世とあの世では逆の使い方をしていることになる。

 body & soul もそれがいえて、body肉体の世界はこの世であり、soul(心・魂・精神)の世界はあの世である。

 つまり、body肉体の世界とsoul精神の世界では言葉は逆に使われると考えれば、その意味が何をさすか明瞭になる。生死も逆になると、戦争の敵味方のように、善と悪もほとんど逆になるといえる。 この世で人を殺せば悪だが、それはあの世に生き返させるので善になるともいえる。心の癒しは精神の言葉使いでされることがある。罪人を赦す愛や慈悲の言葉はこうした作られるのだろう。

 body肉体の世界で死ぬということはsoulの世界で生きるということである。自分の肉体は世界中で一つしかなく、一度の人生限りのものである。それは他の肉体と違っているということ、つまり、個の尊厳が最も価値があるということだ。しかし、soul魂・精神の世界では自他共存、社会生活が最も価値があり、国や世界や地球が先で、個人のことは後にすることが尊いことになる。

 soul精神の世界では人との絆つまり愛がもっとも価値が高くなり、逆に、利己主義はもっとも価値が低くなる。しかし、body肉体の世界では逆の価値になる。

 私も還暦を迎え、肉体が生きるよりも、死ぬ方に方向転換しているので、soul精神世界を中心にしたとらえ方をしていく必要がでてきた。そうしないと、現実がやたらと矛盾することが多くなるからだ。

 この事故をきっかけに大きくsoul魂の世界を軸に表現していこうと思った。魂の世界では死ぬという言葉は生きるという言葉になる。そして、body肉体の世界で独りになることは、soul魂の世界ではみんなと一緒になるということ、自他一体になるということだ。

 つまり、soul魂の世界で死ぬということは孤独になるということなのである。魂の世界では肉体の死のような事実はなく、永遠に生き続ける神様や仏様ばかりが生きているというのが真実の姿になっている。

 今後、自分で使う言葉が自己矛盾で混乱を受けないように、また、他人が理解不能になることをさけるために、言葉を使う際、最初に、あの世soulの世界から記述する時は「S」の文字をつけ、語る際は、「見方を変えれば・・・」とし、この世body肉体の世界で記述するときは最初にBの文字をつけ、語るときは「現実には・・・」というようにしたらいいかもしれない。もっとも何もつけない場合は現実を中心に話していることにしよう。

 

 

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