自分の反対は自分

 第三極の政党同士が連合したくてもできない。例えば、社民党は脱原発・反消費税・反TPPであるが、新たに立ち上がった同じ政策である党とは組めないのは、3つ以外の政策である護憲か、憲法改正かで違ってくるからだ。

 どんな政治家でもまったく同じ意見の人はいないのだから、党だって、一個の人間と同じで、それを合わせて連合を組むのは無理があり、政権をとるために、あえて、その無理をおすと、お互いに妥協して、同じ政策にしてまとまるが、それは政権をとるまでの一時であり、政権をとれば必ず分裂することになるというのは今の与党である民主党がいい例である。

 その民主党は党の政策に従わなければ除名するという方針はまさに党の独裁政権と同じになり民主主義ではなくなる。

 つまり、党というのは権力闘争の手段であり、民主主義にとっては必要悪なのである。

 ともあれ、ここで、対立ということを考えてみたい。

▼自分の反対は何だろうか?

 他人と答えるのが正解となっているが、はたしてそれは真実なのだろうか?

 例えば、自分は「ごん」であるが、他人である「きよし」は「ごん」の反対であるといえるだろうか? 
 また、他人は自分以外の全世界の人間70億人の総称だとしたら、自分である「ごん」の反対は「全世界の人々」であるといえるだろうか?

 またまた、通常他人というのは自分の身の回りの人間のことをさすというのであるならば、自分「ごん」の反対である身の回りにいる人「きよし」「くみこ」「たろう」「まさえ」・・・・・??????になり、明確な自分個人とは逆に不明瞭で想像することもできなくなる。

 そこで、自分の反対は何か、明確にすると、それは「自分」である。

 「きよし」はきよし自身からみれば「自分」であり、「くみこ」もまたくみこ自身からみれば「自分」であるからだ。遠く海外に住む「ジュリー」であっても、
ジュリー自身からみれば自分であるからだ。

 では他人はどこにいるのだろうか? 他人はすべて自分の心の内に存在するのである。自分に対立する他人は自分が造りだした心の映像でしかないのだ。その境界線は目に見えない心の閉鎖する意識でしかないのである。

▼では個人の反対は何だろうか?

 個人の反対は社会であるというのが常識である。だが、社会というのは身の回りの住人のことだろうか? 地域・国? アジア? ・・実に不明瞭な存在であり、つかみどころがないものである。

 「自分の反対は自分である」というように、「個人の反対は個人」であるといえるだろう。

 社会とは個人の集合体であるが、その集合体というものが常に一定して存在するのでなく、常に変動し、その大きさも集まる個人も変わっている。しかも、個人の肉体のように、実際に存在しているものではない。

 では社会は明確にどこに存在しているのだろうか? それは個人の心の内に作り上げている想像体にすぎない。社会は個人の外に存在するのではなく、個人の心の内に存在しており、その社会の姿はみな個人個人で違った想像体なのである。

 

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