命の種が向かうところ

 ニンジンが必要になって、何本か抜いた。まだ小さかった。中には根っ子同士がからみあっていたものがあった。種を密集してばらまいたためだろう。葉っぱがかなり大きくなっているのに根が小さいとは。

葉っぱは食べられないのかなあ? と思って食べてみたら、パセリのような味がする。薬味になるが、たくさんは無理って感じだ。

 見た感じも、レタスか白菜か迷う。食べてみても迷うものがある。

 結局、娘の意見でレタスだとして、サラダにして食べたら、葉がしわくちゃなのでオイルの絡み合ってうまかった。

 こうした野菜の種は本当に小さい、それが大きくなると、みな個性をもった生き物になる。人間だって、受精卵から大きく育って、みな違う姿になる。

 それは驚きの奇跡に思える。人は肉体と心を持っているが、卵だったころは、肉体と心が一緒になっている状態に思える。心は見えないけれど、肉体は見える。

  この卵は今の携帯のマイクロSDカードのように、そこに莫大な情報が隠されている。その情報の一つ一つがいわば心の一つ一つのように思えてくる。

 肉体の変化とは比べられないほどの心の情報は大きく変化し、他の肉体に影響をもたらす。この心の元になったのが卵や種であるが、その卵や種を作るのが、男女の心の種である。それが実るのが愛で、実らないのが怒りのように思える。

 ニンジンが密集した姿をみると、そこに愛と怒りがからみあって生長しているように思える。そこに平和をもたらすのが、自身による自然淘汰か、人の間引きである。

 人のニンジンがともに生存するためには、ニンジンを全部収穫しないことである。間引いたニンジンを食べることがもっとも平和的行為であるように思える。というのは、残ったニンジンは越冬し、春になるとさらに大きくなって、夏には花を咲かせ、秋には種を実らせる。

 その種はもっとも強く、人にはおいしい品種になることができる。冬に間引いて食べるのは、強いニンジンではなく、弱いニンジンにすることが大事であるように思える。

 森を守ることも同じではないだろうか? 間引いた木だけを木材にし、間引いたところに強い苗を植樹する。それが大きく育ったら、今度は逆に老齢になった木を間引くという繰り返しをすれば、森と人が平和的に共存するように思える。

 間引くという行為は人間社会でともに生きるための規則を作るようなものであろう。間引かないと森は自滅する。間引かれないと、自身で自然淘汰して、強く生き残ろうとする。

 自然淘汰が生き物の自然法であり、間引きが人の法律であろう。人類全体が自滅しないように、環境保全や平和維持のための国際法や経済システムが作られ、また作っていくように思えてくる。

  

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