死んでいる年月は寿命の半分だ

 かって、李御寧(イー・オリョン)が、「縮み」志向の日本人という本を書き話題となり、私は韓国人二世の芸人であったマルセ太郎から紹介された。

 マルセさんはその影響だろうか、自分の芸風に「能面型の縮み志向」である「動きを止める美」をよく表現した。彼の写真集はみなストップモーションの一こまである。

 彼は私に、「いいか、芸で大切なのは動きを止めた時の形が美しいかどうかだ」といって、さらに縮み志向を発展させていたのを覚えている。

 こうした日本人が得意な縮み志向を、私は物事を考える際に、世界を縮めて描いたものを、さらに元の世界に拡大して、想像する思考をする。

 それが可能なのは、マクロの宇宙と、ミクロの原子の姿が似ているからである。

 最近、「一日一生」という諺のような縮み志向で生まれた人生観がある。これは時を切るハサミ文化として紹介された「一期一会」にも通じるものだ。

 この「一日一生」をさらに、切ってみると、「一日」は「寝ている8時間」とすると、「起きている時間は2倍の16時間」である。

 一日が一生ならば、毎日は生まれ変わる自分の姿になる。その生まれ変わる年月もまた計算できることになる。

 起きている時間は生きている16時間、寝ている時間は死んでいる8時間であるから、
その一日を一生の生まれ変わりの年月に拡大すると、一生の寿命が100年生きた人は、その半分の50年死んでいる年月になるので、死んでから50年後には生まれ変わることになる。

 もし、若くして、その寿命が10歳だったら、その半分の5年後には生まれ変わると想像できる。

 毎日細胞は生まれ変わり、似たような姿になっているのだから、人間もまた似たような姿になって生まれ変わるのだろう。

 それに、自分とは何かというならば、永遠に固定化しかものではなく、顔や手相の違い、DNAの組み合わせの違いが微妙にあるだけで、それらはやはり、時を切り取った一瞬の姿であり、その姿は、人間が一匹のテントウ虫の姿と他テントウ虫の姿が見分けにくいほどである。

 「ほんの微妙の差、されどその差がすべて」それが「自分」であり、「日本人が最も好む繊細さであり、美である。

 「縮み志向の日本人」の感想文を書いた松岡正剛さんは、日本のグローバリズムの危険性を指摘する。今でいえば、TPP参加である。大国のものをそのまま鵜呑みにするようなグローバリズムや経済大国を目指すことは、その国をダメにしてしまう。大事なのは編集して、受け入れる事であると警告をならしている。

 日本人はGDPよりも幸福度を、大きな援助よりも小さな親切を尊ぶ国民性を大切にしたいものである。

 

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