自然との会話

 最近、田舎に引っ越したせいか、人と会話する機会がほとんどなくなった。テレビやツイッターなどの人の情報を受けるだけである。
 そのためか、植物相手に会話することが多くなったようだ。会話といっても、言葉で話すのではなく、行為で表現しあうものだ。

 例えば、「今年の秋にはうちの畑にたくさん稲が実れるようにしたい」と、稲の種や雑草に話しをする。そして、稲の種を蒔くと、昨年は雑草から、「そうはさせないよ。ここは雑草の支配地だからね」と断られた。

 こうした自然の会話は科学における、推論・実験・検証のようなものである。

 植物とのこうした会話は相手が動物や人間のように感情を多く伴わないので、心の葛藤が少なくてすむ。動物の生死はとくに喜怒哀楽をともなうので葛藤が大きい。また、人の生死は一度しかないので、それを試すことはできないし、また試してもいけないものである。

 そのためか、人の会話は推論で止まってしまう。人が空想や幻想などのドラマや映画を楽しむことができるのは他の動物とは違う人間らしい生活なのであろう。

 私は還暦を過ぎて、生死の空想を楽しむことが多くなるので、植物に対して実験し、検証までしたくなるのだろう。

 雑草といっても、雑草という草の名はないように、人間の食べ物である作物にはならない草の種類の総称を雑草という。つまり、人間が食べる食べないという区別をとりのぞくと、作物と雑草の区別はなくなるのである。

 実際、うちの春の畑はほとんど麦になり、食べられない雑草はわずかになった。昨年の秋はほとんど雑草で、食べられる作物は少しの大豆だけだった。

 作物も雑草も植物種でいえばそう変わりがない。雑草がはえるのであれば、そこに作物はかならずはえることができるが、もちろん、その土地にあった雑草や作物種だけである。

 私の家のまわりは果樹園であるが、その下のたくさんはえる雑草を年がら年中、草刈りしたり、除草剤で枯らしている。そんな必要があるのだろうか? もし、果樹の下に多くの作物がなったら、まさに一石二鳥の栽培ではないか!

 そこで、人の果樹園では試すことができないので、自分の畑に果樹を植えて、その下で作物が育つかを実験したくなった。

 こうした果樹や作物や雑草の生死を思うように実験できるのが、自然との会話である。もし、それができたら、さらに多くの空想ができてもっと楽しくなるのである。

 

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