宗教について

 教祖であるサイババの死後、そこのアシュラムはどうなっているのかをネットで調べてみた。生前と変わらぬくらいの信者が集まり、その活動は衰えていないことを知った。

 あの殺人集団だったオーム真理教も、教祖が死刑宣告を受け監獄に入っていても、その信者は解散していないのも驚くべきことだ。

 サイババと麻原との差は、サイババはボランティアが中心で、社会的に有意義なことをするが、麻原は殺人テロをして社会を自分の思いどおりにしようとして、まったく逆の行為である。しかし、両者はともに新興宗教であることは変わりがない。

 世界の三大宗教として、キリスト教、イスラム教、仏教があり、それは数千年も信仰されており、それらを中心にしていろいろな新興宗教が生まれてきては廃れていく。サイババがヒンズー教から、オーム真理教はチベット仏教?を元にして派生したものだろう。

 こうした宗教には非科学的な奇跡的話が多く、その奇跡を信じることで、信者になっていく。人間であるイエスが再生することも、アラーの神がマホメットに記述させることも、釈迦がすべてを知ることができ、悟れたことも、みな人としてはありえないことであり、それを信じることはこの現実や起こる事実を信じないことである。

 信じるという言葉は人偏に言葉が合わさっており、人の言葉を信じることである。けして事実を信じるとはいわない、事実は人が信じようと信じまいと、そこに存在し、すべての人が了解できるものである。

 「信じれば救われる」ということから宗教は始まるが、実際、それは占いを信じるかどうかと同じで、信じて救われる人もいれば、信じて地獄に落とされる人もいる。占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦というように、当たる確率は五分五分である。それは言葉の返答にはYESとNOしかないからだ。それ以外はyesでもnoでもなく、疑問符である。それはその宗教や占いを信じた人にとっては天国と地獄に入る確率は五分五分ではあるが、それらを信じない人にとっては、どうてもいいことであり、疑問符であるだけだ。

 「触らぬ神に祟りなし」とは、宗教を信じなければ、天国にも地獄にも縁がないという意味である。

 サイババを信じることで天国になる場合と地獄になる場合の例をとってみよう。

サイババはこう言った。
「宗教は一つ、それは愛の宗教、人種は一つそれは人間という種」

 このサイババの言葉は宗教戦争や人種戦争をやめさせる力になるので、世界平和と愛の姿を想像させ、まさに天国への導きになる。

 しかし、世界の宗教はけして一つではないし、また一つにはなりえないことを過去の歴史も、今の現実も示している。人種だって、一つにはなりえないことだ。それをサイババの言葉通りに、信じて行えば、どうなるだろうか?

 宗教は一つ、それはサイババ宗教のみ、人種は一つ、それはサイババ信者のみになってしまい、社会から遊離した特殊信仰団体になり、他の宗教や他の信者をサイババ以下にしてしまう。信者はサイババの言葉と現実の違いで苦しみ、地獄へ突き落とされることになる。

 また、信じたサイババが物質化できるような神であると信じれば天国になるが、サイババがトリックして信者をダマしていると知ったら地獄に突き落とされる。

 こうした行為や言葉によって、人は天国にも地獄にもいかされる。しかし、物事の事実や現象は天国や地獄とは関係なしに、動いている。

 とはいえ、人はその行為もその言葉も、自然そのままではなくついてくるものである。そのため、何かを信じ、何かを疑い、何かを行うことで、天国と地獄を味わいながら生きている。

 そこで安全な生き方というのは、なるべく確率の高い自然な現象を信じ、確率の低い奇跡的なことを信じないのがいいだろう。

 もし、確率の低いことがやってきたら、大いに天国と地獄を味わってみたらいいのだ。そして、自然な日常にもどればいいように思う。

 宗教はものは考えようでどうにも受け取れるものである。いわば、空想をすることで楽しめばいい。インド人は宗教心が高く、それが日常化している。それは神を信じているというより、その信じた空想劇を楽しむことで、人々のコミュニケーションをもっているように思える。

 つまり、花より団子なのだ。神や仏がなんであれ、その儀式やイベントが楽しければいいし、そこに参加することで、おいしい団子が食べられればいいだけである。

 日本の仏教が葬式仏教になったのは、悟ることはどうでもいいことで、葬式をすることで、食べて行ければいいだけなのである。

 神道だって、正月の初詣を楽しめればいい。 キリスト教も、教会で結婚式があげられればその価値をもつのである。

 あえて、宗教的に生きるとするなら、自分の好きな言葉を信じて行動することがそれにあたることだろう。それは自分が信じる内容がその人の行動をうながし、その責任も他人のせいにはせず、自分でとることができるからである。

 

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