数十年前に、川喜多二郎が問題解決学を発案したことがある。それは彼の頭文字をとってKJ法として知られた。それは個人が問題を解決する方法をそのままシステム化したものであり、1R:問題の核心は何か 2R現状はどうなっているのか 3Rどうしたらその問題を解決できるかアイデアを 4R計画と実行 5R検証 6R何が問題として残るのか? と、文章ではなく、一つ一つの案のラベルを組み合わせながら発想する方法である。
現在、そのKJ法は技術的に無理があり、ほとんど使われることはなくなった。
だが、こうした問題解決法をもっとシンプルにしたら、誰でもが使えるのではないだろうか?
あらゆる問題の核心を突き止めていくと、それは人間の我欲である。それは個人であれ、集団であれ、その我欲が他に対して問題を起こすことがわかる。
例えば、戦争はお互いの我欲のぶつかりあいで、殺し合う。原発依存の問題もやはり関係者の我欲でぶつかりあいで起こる。
もし、その問題の我欲を無くしたら、必ずその問題を解決できることになる。いわば、シャカの悟りが無我の境地であったと言われるようなものである。
しかし、個人で無我を実行したら、それは自己が生きることを否定することで、自殺行為になり、死を意味する。上記の戦争や原発問題を個人で解決するには自殺しか道がなくなる。自殺すれば、その個人にとってはそれらの問題は解決するが、その関係者である社会問題は解決されないので、個人の自殺する道は解決策にはなりえないし、またそれは逆に自己満足的な我欲行為にすぎないため、問題を大きくするだけである。
では他に無我になる方法はないだろうか?
任侠映画でヤクザとヤクザの抗争があったとき、その両者に信任の厚い人物が
「この場は俺にまかせて、ひとます、刀をおさめてくれないか」と両者にお願いして、解決する。
一般的には裁判に持ち込み、信任された第三者の多数決の判断が解決策になる。これはいわばキリスト教における神託のようなものである。「神の御心のままに」と問題の解決を神にすべてゆだねることだ。
相争う両者がキリストの信奉者であれば、キリストの判断に従おうとするからだ。
このように、神託とか第三者まかせや法による裁判による方法が、無我への問題解決になる。
この場合の無我とは双方で信任された第三者の判断のことである。そのため、その第三者が双方で信任されていない場合や、第三者でない場合は問題解決にはいたらない。
各国の争いごとが、国際司法裁判所にゆだねられることがないし、国連の安保理の決議が通用しないのはのはそのためである。
そのため、信任できる第三者がいない場合の無我による解決策を探すしか道がなくなる。
また、社会という固定した存在もないため、基本は個人の発想から無我への道を自殺以外の生きられる道を開く必要がある。
その方法はより広く、より深く、より永く世界全体をみることから始めることだ。主観的にみないで、客観的に、自国的でなく国際的に、人間的ではなくより生命全体的に、短期的ではなく、より長期的にみることである。
そうして視点を大きくして、発想された解決法に対して、今自分ができることをすることが、具体的解決策である。それはもちろん個人の段階であるので、全面的解決は先になるが、個人的には問題解決されることになる。
例えば、今の原発問題を長期的に国際的な大きな視野でみると、一つの解決策が浮かぶ。
原発のゴミを捨てるところがないことが問題の核心であるから、原発は即停止し、廃炉にし、ウランの輸入をやめる。
ウランを輸入したところに返却し、また、ついでに、使用済み燃料も引き取られるように交渉する。もし、それができないならば、今の原発の場所に地中100m以上掘って、、そこに10万年以上にわたり、放射能性物質が他に流れ込まないように管理しつづける。
廃炉にして残ったタービンなどを使って、ゴミ発電したり、自然エネルギーを使った、風力、太陽熱、潮力発電に切り替えていく。
津波被害にあったところは、大地に瓦礫をしき、山を切り崩して、高台にした町に建設する。津波や原発事故の被災者の土地や家屋はすべて国が買い取る。その資金は復興電子マネーを発行して、自動的に数十年で回収できるようにすれば、ハイパーインフレはおきない。
というアイデアが出たら、それを実行するにあたって自分がなにができるかを考える。すると、ツイッターやブログなんかで、その考えを述べることならできる。また、似たような運動をする人を応援することはできるので、それを実行する。
こうしていくことで、少なくとも個人的にはその原発問題は解決するのである。
つまり、あらゆる問題解決法というのは、より大きな視野でその問題をみて、解決策を発想し、その実現に自分ができることをしていくことであるといえるだろう。
シンプルにいえば、こうなる。
「より大きな視野から問題解決しよう!」
個我とは小我ともいわれ、神仏や世界は大我とも言われる。つまり、無我とは大我の意識のことであり、物事を広く大きく観る視野のことである。