今僕は50年前の自分と50年後の自分とそして今の自分の三者が一同に会して話し合っている。
そんな不思議な世界にはまり込んだのは・・
今回のモンゴルの旅における出逢い、そして50年前のオランダにの国際ワーキンぐキャンプ、
今生で、最高の面白さがあり、友情も、恋愛も、理解も、 大きな喜怒哀楽を通じて、これほどの幸せを感じることがあるのか!
そして、50年後の再生しても、やはり同じ体験があるだろうことを十分信じられる出来事であった。
モンゴルの旅では、老若男女、国人種宗教を超えて 理解と友愛が実現できたことで、
天国のような空想と幻想のような世界より、はるかに この現実がキラキラの輝き、最高の幸せを感じられる世界をあることを 実際に嫌と思わせるくらいの充実感、幸福感、感動を与えてくれている。一か月半も続き、今もなお持続している。このまま50年間、そんな幸せ感が続くのではないかというぐらいの 桜咲く春のようなポカポカ気分なのである。
どうして、こんな奇跡的な出来事が次々連続して起こり、そして、幸せ感が持続できるのか、分析してみたくなった。
その原点は 約50年前の オランダの国際ワーキングキャンプの二週間にある。
国際ワーキング・キャンプは
CCIVS (Coordnating Committee for International Voluntary Service)
起源
国際ボランティアサービス(IVS)運動は1920年に生まれました。
最初のプロジェクトはフランスのヴェルダン近くで開催され、ヨーロッパのボランティアのグループが荒廃した村の再建を手伝っていました。
第二次世界大戦後、戦後復興とボランティア組織の増加に直面して、ボランティア活動の調整と奨励方法についてユネスコで議論が行われました。
1948年4月、国際ワークキャンプ組織会議が開催され、パリのユネスコ本部に設置され、国際キャンプのための調整委員会が設立されました。
1950年代から、ボランティア組織の数は、軍縮から健康と人権に至るまで、脱植民地主義から平和へと異なるテーマに触れ、世界中で増加しました。
1960年代初頭、CCIVSは当時の東欧の社会主義諸国の若者団体との接触を開始し、1970年代と1980年代には東西のボランティア青年交流を組織化する重要な中立基盤となった。1971年、CCIVSは国連ボランティアの創設にも関連していました。
1980年代、「鉄のカーテン」を横切る東西プロジェクトの数が増加した。
1987年、CCIVSはペレス・デ・クエラーの国連事務総長より「平和のメッセンジャー」という称号を授与されました。
1990年代初めには、南北関係とアジア・ヨーロッパ関係がますます重要になった。
それ以来、CCIVSは、国際的なボランタリーサービスの動きの発展に関する議論や交流のための品質基準の改善の場として知られていました。
CCIVSメンバーは、国際ボランタリー・サービスに関連するインパクト、認知、政策に関する動きを反映して、異文化間対話、持続可能な発展、世界遺産、健康と紛争の5つの主要トピックについて今日働いています。」
最近は
World Heritage Volunteers Initiative 世界遺産ボランティア活動に力を入れている。
日本のNGO団体のNICEが CCIVSと
NVDA(アジア・ボランティア発展ネットワーク)と
ALLIANCE(欧州ボランティア活動団体同盟)とも合わせて活動している。
私が24歳のとき、オランダの田舎の一軒家(知足庵のような)に 24人、13か国が集まり、日本人は私一人で、とくに、この時期、ベルリンの壁があったため、東欧に若者が半数近くいて、英語が話せない人も多く、まだドイツ人によるユダヤ人虐殺の痛手があった時代である。
そして、常時近くの茂みに隠れ、オランダ警察パトカーがきて、時々パスポートを東欧の者だけチェックしていた。
トレーラに全員のり、オランダのサイクリングロードを作っていく土方の仕事である。オランダでは車道自転車道歩道が緑でしっかりと分けられ、それを作ったのは 国際ボランティア集団も一躍担っているのである。
お世話役はオランダ人の若者がやり、食事を作るのは各国持ち回りである。
私はカレーライスを作ったが、英語がよくわからなかったため、ベジタリアンが3名いたので、えらく「岡部は友達じゃあない」とえらく恨まれた。肉をとっただけではだめなので、やむなくサラダだけ三人に与えた。
寝床は床に 男女の差をつけることなく、入り混じって寝ていた。大体男女隣りあわせになることが多い。
さりとて、なんの問題もおきなく、また、アムステルダムのゲストハウスも同じような感じで、いわば日本の山小屋風というようなものである。そのゲストハウスの寝床手続きは簡単で、腕にインクでスタンプをつけるだけだった。私は牛の焼き印を思い出し、逃げようとしたら、マリリーンが腹を抱えて笑ったのをよく覚えている。
ボランティアよりも、一緒に遊ぶことを重視していて、ボール遊び、離島の旅、ヒッチハイクの旅、ダンスなど、それぞれが今日は何をして遊ぶか アイデアをだし、翌日には実行される。
そして 別れがやってくると みな燃焼しつくして感動した。
私は最後に、パリで買った38cc原付自転車で 去った。
夢のような青春の思い出として その後50年たっても、彼らに会いたいと思うくらい燃え尽きた日々であった。
いかに、国際間の友愛が感動と幸せを与えるか、それを知った50年前である、
それがまたモンゴルの旅で、それは国際間だけの友愛だけでなく、老若男女を超えた友愛もまた大きな感動と幸せをうむかも味わわせていただいた。
遠く、離れて、理解が難しい同士が、互いに向き合い、そして、理解 友愛する それはどれほど、世界の理解と平和がこの世で なによりもの宝物であるかを教えてもらう。
戦争の悲惨さ、残酷さの 逆だと想像すれば、平和と理解がいかに大切なものであるか、この体験でしっかりと心身に刻むことができたと思える。