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モンゴルの接待文化 Монголын зугаа цэнгэлийн соёл

月曜日, 3月 12th, 2018

徳島大の大橋教授は 日本の大学生(交換留学生)を歓待する時の様子を特別な言葉

「モンゴルの接待文化」と呼んだ。

日本の学生・社会人を招待されたのは

1.テレルジ国立公園 TERELJ NATIONAL PARK において、

ジンギスカーン廟 寺院 亀山 のめぐる、ゲルで 盛大な手作り夕食パーティ そして 馬乗り、雪ぞり

など、みな一度は日本へ短期留学生としてきた学生がガイド、料理、手配、そして、預かったお金で すべてまかない、余ったお金は返却してくれた。(通常ツアーでは1万円だが、その半額) しかも、盛大なともに食べ、踊り、酒を酌み交わすという 通常のツアーではけして楽しめない、モンゴルと日本の交流が実現している。

そこに モンゴル大学の シールド教授の親子が流ちょうな日本語で対応してくれ、特別ゲストとして遊びにきた。

当初、学生だけが シールド先生が招待するゲル生活体験であったが、大橋教授はその予定を断った。その理由はよくわからない。

学生も社会人・教授も、自分たちが好む 一般ツアー、個人ツアーを企画し、三つのグループ個人に分かれた。

教授と男子学生は アルタイ山へ、Sさんは友人のシールド先生のところへ、その他の学生と社会人(私も)はゲストハウスが主催するテレルジ ツアーを 他のゲストハウスの泊り客とともに相談していた。

その話をモンゴル留学生が聞くと、自分たちが そのツアーをガイドするということになり、6人の学生社会人に足して、10人の留学生とその友人が 自分の車三台で案内し、その食材やら、昼食のハンバーグやらを全部手配してくれた。

当初は学生が3人だけなので、シールド先生の持つ郊外のゲルに 泊まり 歓待される予定だったのだろう。そして、付き添いの大人だれか一人というので、(ひょっとして俺か? むしろ教授が適任だと思うのだが?)

私はどうしても モンゴルの雪原を馬で行きたかったので、それがあるかどうかわからないので、その役目を辞退した。一般のモンゴルツアーを自分たちで探して、同じ泊り客のフランス人にもその旅行会社を紹介してもらっていた。

なぜか、女子学生は馬が乗りたかったらしく、社会人の一般ツアーに入ることになり、シールド先生の招待を結果的に断ることになったが、たった一人のSさんだけがシールド先生のところに遊びにいくことになったようだ。

大橋教授は モンゴルの日本人学生の接待にずいぶん気を使っていた。相手に迷惑をかけたり、失礼がないように 相当気を使っていたのだ。

学生は日本のカレールーを シールド先生への接待の返礼として 日本から持ってきたようだ。だが、結果的には、シールド先生親子を 私たち学生社会人が招待したことになり、その返礼は必要がなくなったはずであるが、なぜか、スタディーツアー最終日に、そのカレールーを 教授はなぜか私に届けさせたがっていた。(たぶん、大橋教授は 留学生が主導したテルンジ ツアーを シールド先生が企画招待したと勘違いしていたと思える)

それだけ、モンゴルの接待文化としての気遣いと、マナー 特に返礼のお土産を大切にしていたといえる。

 

2.スケートに招待される

スケートに行けるかどうかで 三回ももめている。

このスケートの招待に、大橋教授は異様なほどこだわり、行きたがっていた。

A 学生の知り合いの留学生グループが二つあり、女子学生との留学生グループはスケートと招待していた鍋レストランをいくコースと、男子学生の留学生グループは鍋レストランだけということで、最終的に合流することになった。

問題はスケートリンクがどこにあるか?(ゲストハウスが紹介するスケートリンクは近くにもいくつかあったので、それを選びたかったが、どうやら、昨年教授が行った遠い空港近くのスケートリンクしかないとしか思えなかった)

さらに予約していた鍋レストランが閉まっていたので、さらに混乱してしまった。

留学生は押し寄せてくると、スケートにいくにも、レストランいくにも どうにも収まりがつかないまま、ゲストハウスは暗く夜は更けていった。

そういうときは、いつも私の出番である。

まず、時間的に、スケートをいくことをあきらめさせて、レストランだけいくことに絞らさせた。

近くに住む留学生が The BOOMというレストランが開いているというので、そこにみなゾロゾロ歩いていくことにした。そして、その場所が判明したら、後からやってくる男子学生の留学生を呼びに 誰か(大橋教授?)走った。

そして、シャブシャブレストランのThe BOOM の 空いていた部屋は14人しか入れないので、学生と大橋教授と栗原医師と、留学生がちょうど満杯になり、社会人(私も)の4人は別の一般席で、勝手に注文して食べた。

その食事代は社会人がいくらか多く出して、日本人学生教授社会人が割り勘した。

先に、社会人4人はゲストハウスに帰ってのんびりしていた。

それから1時間もして、夜の10時も更けて、大挙、招待した留学生がゲストハウスにやってきた。

栗原医師が 栗原医師と親しい、私と真弓さんの三人を翌日どこかに招待してくれるということになり、それがまとまらないので、私が起こされた。

ゲストハウスの人にはもう10時過ぎなので、静かにするよう指示されるが、おさまりがつくようすがない。

こういう混乱を収めるのも私の出番である。

明日早く、小学校へのスカイプ実験が予定されていた。これは今回のスタディーツアーではメインの企画である。

そのことを、栗原医師はまったく知らなかった。

大橋教授と目があうと、首をすくめて お好きなように というように 私に暗黙に委任された。

「さあ、留学生のみなさん、もうお帰りください。栗原先生はまったく明日のスケジュールを知りません。非常に大事な朝早くからあるので、どうぞ ここで解散してください」

不満そうな栗原医師は、親友の私だけはその横暴な処置をゆるしてくれた。

そして、翌日、栗原医師と真弓さんは疲れて寝込むことになり、それ以外は早朝に小学校へと出発した。

B MUUGIIと ERKA が 空港近くのショッピングセンター内のスケートリンクにバスで連れていってもらった。

女子学生と私の三人だけのスケートだ。夕方5時半についた。

スケートする前に、私はトイレに入ったとき、そこに大橋教授が入ってきたからびっくり仰天だった。

一緒にスケートをしたくて バスで、追いかけてきたことは間違いがない。

だが、その日は日曜日で、混雑し、夜の8時半まで待たないと 入れてもらえないことが解った。

やむなく、日本のレストランで一緒に食事をして、大橋教授だけを先に帰らせ、私たちはブラブラショッピングとアイスを頬張った。

帰りはMUUGIのクラスメイトが車でゲストハウスまで送ってもらった。

もし、大橋教授もいたら、乗れなかっただろう。

C 最終日 スケート50分できた

今度は別な留学生グループだ。リーダーは車をもっている MANDHYAI だ。

それが学生の友達かどうかもよくわからない。知っているのは大橋教授だけであろう。

The BOOM で、招待した返礼のようで、栗原医師を案内したかったのではなかろうか? と想像する。

しかし、栗原医師はすでに日本に帰国していた。

どうも、スケートがしたくても、みな失敗に終わっているので、3グループがまさに競演して、レストラン招待の返礼をしようとしていたらしい。

問題はゲストハウスで起こった。

大橋教授が 作った餃子を食べないと、一緒にスケートに行かないと言い出した。

食べなくても、料理した後片づけをしないと行かないというので、学生と留学生一同はそのかたづけを手伝った。

でも、最終のスケート時間の夜8時半には間に合わない。夜8時をすぎていた。

大橋教授は大丈夫と連呼するが、私はあきらめていたが、あとは運をまかせた。

スケートリンクに着いたのが、最終の8時半を回り、8時40分 9時半までの50分だけということで ようやくスケートができたのである。

留学生も 大橋教授も、最終のスケート時間を知らなかった。

私はショッピングセンターは夜10時に閉まるので、前回の最終時刻が8時半であることは確実にわかっていた。

それを知らずに、モンゴル留学生はスケートに招待する。

夜9時半になり、学生たちは ナイトクラブに招待されていた。私も呼ばれたが、なぜか、大橋教授と一緒に MANDNYAI の車に乗り、ゲストハウスに到着し、なんと、そこで、大橋教授の餃子作りを無理やり手伝わされた。もう11時をまわり、深夜で 翌朝5時のタクシーで空港にいく。

そういえば、夕飯を食べていなかった。

すると、すぐに、学生たちがタクシーで帰ってきた。ナイトクラブはやってなかったというのだ。

それも、留学生は知らなかったということになる。それが妙に変である。あまりに行き当たりばったりの招待であり、その場その場の思い付きで行動しているようとしか思えなかった。

大橋教授の餃子を我々に食べさせるという執念はすざましく、なんと、あまった餃子を モンゴルから北京の機内で、機内食事の上に、その大餃子を二つ食べさせられた。

それは

私たち学生や社会人が このスタディツアーに招待した大橋教授への お返しが必要だったとも反省させられる。

接待文化は モンゴルと日本の間だけでなく、 大橋教授と 学生社会人の間にも あったといえるのではないだろうか?

3.返礼品

小学校の授業の返礼として、チーズと子供たちの絵の入った額を全員いただいた。

大学の授業の返礼として 学生には 風貌付きスエット上着 社会人には ボールペン 名刺入れ キーホルダーをくれた。

日本人がモンゴルの学生や教師、校長、事務に招待したのは

A しゃぶしゃぶレストラン

B 肉料理のバイキングレストラン

C 大学で 日本式カレールーで カレーライス

で、ほとんど食事に招待している。

 

この招待とその返礼をどうするかというのが、いわば 悩みどころであり、

相手に失礼がないようにするというのが モンゴルの接待文化といっていいだろう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だが、

本当にそんなモンゴルの接待文化があるのか??

むしろ、それは 日本の接待文化で、

お中元にお歳暮、誕生日プレゼント 年賀はがき

のような返礼をしないと失礼に当たるものの慣習ではないか!

 

モンゴルにはそんな接待文化はない!

読めば納得!モンゴル人横綱の「尖った」言動
「建前なし」「容赦なし」には理由があった

――日本とモンゴルの根本的な違いは、遊牧民族と農耕民族というところでしょうか?

そうです。お互いの国を理解しようとするときには、歴史から始めるべきだと思います。お互いの国の歴史を勉強して、文化がどこからでてきたかを知らないと、物事の背景を理解できません。

モンゴルは遊牧民族で、その生活では家畜のために広い面積が必要です。遊牧民同士があまり近寄ると家畜のえさとなる草がなくなるので、他人と接触する機会が少ないのです。

お互いの空間を尊重し、人のことにはあまり入り込みません。また遊牧の生活ではさまざまな決断を自分でしなければいけないので、完全な個人主義です。みんな違って個性があるのが当たり前。だからモンゴルではいじめはなく、逆に言えば他人に対して淡白とも言えますね。

しかし、家族は別です。何よりも大切なのが家族です。ゲルを構えた10キロ範囲は自分と家族、そしてその周りは衝突を避けるために兄弟、親族で固めます。家族や親族など血のつながりを大切にするので、その親族が住んでいる地元意識が強いのですよ。会ったら「あなたの地元は?」と聞きます。

謝らない、恨まない、そのワケ

――地元意識、ですか。遊牧民族に地元があるのですか。

遊牧といっても大体の地域があり、それを聞けば近い関係かどうかがわかります。地元の人同士は親近感があるので、信用してもいいか判断するときにはふるさとの話をします。モンゴル人には家族は裏切らないけど、ビジネス関係では他人には容赦がない、弱肉強食的な感覚があります。

それでも、自分たちの間合いと言える住んでいる空間に、お客さんや見知らない誰かが入ってきた場合には、全力で助けます。広大な自然の中ではそれは生死の問題ですから。

しかし、助けても見返りを求めず、恩を売りません。遊牧民の生活では今日会った人は、もう明日は会わない人。今日行ったことは今日限りです。助けられたほうも感謝はやたらとせず、恩を返さなければとは思いません。やって当たり前なのに感謝をしたら逆に失礼で、怒られることもあります。

それに、謝ることも恨むことも、さほどしません。謝っても延々と謝りません。相手も間違いなどは大目に見ます。モンゴル出身の横綱が問題を起こしたと言われることがありますが、彼らにとってはおそらくそれほど大きな問題を起こしたとは思っていないのです。

 

――それをわかっていないと「あいつは失礼だ」と言われてしまいますね。

これは広大な土地に家族のみで住む遊牧民と、地域に根差して仲間意識が高く、社会性を持ってみんなで力を会わせて作業をする農耕民族との大きな違いです。「建前」も遊牧民族にはわかりません。今日会って、明日会わないモンゴルでは、取り繕う必要はありません。物事はまず率直に、正直に言うことです。

それとモンゴルには「言霊」文化があります。歴史をさかのぼるとモンゴルはシャーマニズムです。「天」と「地」を大切にし、その間に神々がいます。悪いことを言葉にすると、それを神様が聞いて実現しないようにすると考えられています。

思っていても口に出しません。たとえばビジネスで「うまくいかないだろう」と言ってしまうと、それば本当にうまくいかなくなると考えられる。建前で適当なことを言うのもよくないけれど、ネガティブなことばかり言うのもダメです。その意味ではモンゴルの国民は、とても前向きで楽天的な国民ですね。

日本人は時間管理を重視しますよね。でも、モンゴルでは「何時までに必ず着きましょう」とか言うのはタブーで、神様が怒って途中で邪魔すると考えられていたりします。

――「また来ます」というような社交辞令も、本気でないなら言わないほうがいいと聞きます。

言ったことは本気でとらえるのです。「また来ます」と言うと「いつ来るの?」「来ると言ったじゃないか」となります。日本ではよく「検討します」や「またやりましょう」など建前で言いますが、そのとおりに受け取るので、そこははっきりと言わないといけません。

――日本でも「八百万の神」と、自然の中の神様が信じられていたので似ていますね。

そうなのです、そこが私は日本とモンゴルが似ているところだと思います。日本はもともと神道で、自然の中に神を感じていました。それは言ってみればシャーマニズムです。その後、仏教や儒教が入ってきて、それらが入り交じったものが今の日本です。モンゴルもそれに近いのです。

シャーマニズムから始まり、12世紀のジンギスカン時代からラマ教、キリスト教、イスラム教が入ってきました。20世紀の初めに共産主義になり、その後、70年間、ロシアの社会主義下で無宗教になりました。さまざまな宗教が交ざっている点で、宗教に関しては日本人と近い考え方を持っています。亡くなった方を敬い、また亡くなった方が神となるという気持ちも同じです。元寇のときに日本に向かって亡くなった人を、壱岐で祭ってくださっているのを知って、モンゴル人は感動するのです。

ーー遊牧民の住居「ゲル」の中でのマナーにも、「自然の神」を敬う心が根付いていますよね。

はい。ゲルの中央には柱が2本あり、その間に火がたかれています。その柱と柱の間は神様の空間です。そこに火の神や天窓を通って入ってきたさまざまな神がいて、その家庭を守っています。その間に人が入って空間を壊すのはとんでもなく失礼なことなのです。神だけでなく、その家庭を壊すことを意味します。

ですから、モンゴルではお茶を渡すときは、その柱の外から回ってお茶を渡します。そのマナーを知らない人が柱の間を通して手を差し出すことがありますが、それはタブーです。

また、座る場所も若い人は柱の奥までは進めません。若いのに柱の奥に座ろうとすると「お前何なんだ」と言われてしまいます。若い人は入り口のほうに座ります。そして女性は入って右、男性は左です。

帽子は入るときはそのままで、座ってから取りますが、必ず下に向けて置いてください。上に向けておいたら大変です。モンゴルでは上を向いたものは上を向いたまま、下を向いたものは下を向いたまま、と考えられています。下に向いたものを上に向けて置くと、そこにその家の中の善が入ってしまい、帽子の持ち主がそれを持ち帰ることになってしまいます。また逆に、持って入った悪いものを広げてしまうとも考えられています。

「強さ」の背景にある、モンゴル人であることへの誇り

お酒の飲み方にもマナーがあります。お酒を飲むときは薬指にお酒をつけてそれを上に向けて親指で3回弾きます。最初は天の神に、2回目は地の神に、3回目は地元にあるいちばん高い山に向けて、さまざまな神にお酒を捧げているのです。それをせずに自分が神よりも先に飲んでしまうと、周りにいる神が怒ってしまいます。感謝の気持ちを込めて行うのです。

地の神と言えば、モンゴル人は環境をとても大切にし、土を汚さないようにしています。屠殺するときは地面に皮を敷いて、土を血で一滴も汚さないようにするほどです。また、水もとても大切ですので、泉を通るときなどは拝んで水の神様を怒らせないようにし、水を汚すこともしません。

ーーこの遊牧民のマナーは、現代のビジネスマナーにも残っているのでしょうか?

これらのマナーは伝統的なマナーです。今はグローバル化の時代ですから、グローバルマナーでも大丈夫です。とは言え、モンゴルはまだ社会主義から変わって成長過程ですし、遊牧民のときからの他人よりも自分という意識が残っており、道徳などは関係なしに、自分が利益を得られればよいという考えもあります。もともと「強い」文化なので、市場は奪い合いと思っています。

――生活スタイルが近代化する中で、どのようにして「強さ」を保っているのですか?

モンゴル人であることに誇りを持っていることが挙げられます。しつけの中でもヒューマニティを植え付けていますし、遊牧民としてのマナーも、親族の中の誰かが遊牧民であることも多いので、地方に行ったときなどに接する機会は多いです。その際にマナーを厳しく言われたり、知恵を教えてもらったりします。首都だけに住むのは窮屈ですし、お客さんが来たときには首都だけがモンゴルではないことを見せるために、地方に連れて行ったりします。

実際、ビジネスマナーの点からはモンゴルはまだまだ発展途上です。成長すればビジネスマナーもよくなってくると思います。

2015年5月の段階で、日本からモンゴルに556社が投資しています。しかし、モンゴルへの海外資本はまだ圧倒的に中国が多く、日本からの投資は全体の1.6%です。輸出全体としても8割が中国なので、中国経済の変動がモンゴルに直接影響を及ぼしてしまいます。

そこで「鉱物資源に頼らない競争力のある産業を育てていくこと」が、モンゴルの今の課題です。日本とは戦略的パートナーとしてインフラ分野での協力も深まり、EPAも締結され、人材育成も行われています。日本はモンゴルが最初にEPAを結んだ国なのです。

能力・知識に関しては、日本はモンゴルの「兄貴」

そこで、ぜひビジネスにおいては、日本はもっと遠慮せずにモンゴル人の間合いに進んで入り込んで、「兄貴」としてマナーや技術を教えてほしいのです。お話したとおり、モンゴルは「家族」をいちばん大切にします。

ですから下手に遠慮をして距離を保つと、「他人」として扱われ自分の間合いに入れてもらえず、よい関係が築けません。それよりも「俺が兄貴だ、一緒にやろうぜ!」という態度で、家族として中に入ってきてほしいのです。

――ジンギスカンのころにあれだけ広大な領土を統治し、長い歴史と文化に誇りを持っている国の人に対して、「兄貴」として上からの立場で接して大丈夫なのでしょうか?

ビジネスで大切なのは3つ、能力・知識・人間力。その中の能力と知識は日本が上の場合が多いのです。モンゴルは産業をみてもこれからの国ですので、日本は兄貴であっていいのです。ただ、いちばん大切な人間力。そこは対等です。

――技術などの指導に関しては上の立場からですが、人としてはモンゴルのマナーなどを尊重して対等に接することが大切なのですね。

はい。モンゴル人はプライドが高いので、そこは気をつけたほうがいいです。日本の強さは「うそはつかない」「モノ作りの質の高さ」「おもてなし」など日本独特のものです。そこが世界で尊敬されているので、それをなくして欧米企業のようになったら尊敬はされません。モンゴルと共通する価値観や、日本独特のよさを前面に出しつつ、技術指導や規則などは遠慮しない強い姿勢をとっていけば、「家族」として中に入っていけます。

モンゴル人はIQが高いですし、順応能力があり、言語能力もあります。素地はよいのでそこに教え込んでください。最初に悪いところがあっても発展途上と理解して、腰を据えて教えてほしい。でもすきをみせたら甘く見られますので、そこは凛とした態度で接する。また最初から規約などはしっかりと作っておいて、罰するときには規約を基に罰せるようにしてください。

最初からすべてを理解して進めることは大変です。ですからモンゴルと日本のビジネス文化を知っている私のような、日本に留学経験がある人が橋渡しになれます。そういう人をパートナーに選ぶと、長期的にうまく行くと思います。モンゴルとのビジネスにおいて何かあれば相談してください。

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つまり、

モンゴルは どんなに助けても けしてその見返りを求めない

招待されても、その返礼を求めない また返礼をしない

日本は助けられると

ありがとう

と感謝する。そういわないと、態度でいわないと 礼儀に反する。

 

だが、助けて当たり前の文化はありがとうという言葉さえない。

 

それはイスラム文化とインド文化にもみられ、

富んだ者が貧しき者を助けて当たり前であるため、

あえて、ありがとう と 返事をしない。

むしろ、インドでは そういうお布施の機会を与えたというので、

感謝するのは、お金やモノを与えた富んだ者がするもので、貧者ではない。

 

こうした、

ありがとう 返礼文化は 日本独特の文化というもので、世界ではむしろ少数派である。

 

日本では

何かプレゼントして、ありがとうも言わないと怒り出す。

そこから いじめさえ起きてくる。やっかいなおせっかいな文化でもある。

 

モンゴルではいじめはない

日本ではいじめがある

その理由は みんな違って みんないいが

当たり前である。

やたら、人のおせっかいをしないのだ。

むしと、おせっかいを要求しているのは日本の方で、それで、自分で自分のそのモンゴルの接待文化として特別して、自己矛盾に陥り、ストレスをかかえることになる。

 

日本の接待文化をむしろ見直すことで、

いじめ はモンゴルのように一切なくなるだろう。

 

参考:モンゴルは泣いている

馬頭琴の三伝説

月曜日, 3月 12th, 2018

フフー・ナムジルのものがたり

むかし、フフー・ナムジルというとってもハンサムな男[おとこ]が、モンゴルの西[にし]の辺境[へんきょう]で兵隊[へいたい]の仕事[しごと]についていた。フフーには、翼[つばさ]のあるジョノン・ハルという馬[うま]がいて、それに乗[の]って婚約者[こんやくしゃ]のところにかよっていた。

その婚約者[こんやくしゃ]とはべつに、フフー・ナムジルを好[す]きになった女[おんな]がいた。

その女[おんな]は、フフー・ナムジルの婚約者[こんやくしゃ]がねたましくて、彼女[かのじょ]に「フフー・ナムジルにはほかに好[す]きな女[ひと]がいるわよ」と、うそを言[い]った。

あるとき、フフーが馬[うま]のむれを追[お]って家[いえ]にもどり、翼[つばさ]のある馬[うま]を休[やす]ませていると、あのわるい女[おんな]が馬[うま]のところにやってきた。

ジョノン・ハルはご主人[しゅじん]がきたとおもって、よろこんでふたつの翼[つばさ]をひろげた。

すると、女[おんな]はその翼[つばさ]をはさみで切[き]り、馬[うま]はすぐに死[し]んでしまった。

フフー・ナムジルは、息[いき]たえたジョノン・ハルを見[み]て悲[かな]しみにくれ、この馬[うま]を忘[わす]れないために、ジョノンの頭[あたま]の形[かたち]を木[き]に彫[ほ]り、

それにながい柄[え]をつけて、根元[ねもと]に箱[はこ]をつけ、ジョノンの皮[かわ]でおおい、

しっぽの毛[け]を張[は]り、松脂[まつやに]をそれにぬって音[おと]を出[だ]し、

ジョノン・ハルのいななく声[こえ]や、歩[ある]いたり走[はし]ったりするすがたを音楽[おんがく]にした。

こうしてモリンホールは生[う]まれた。
(「フフー・ナムジル」はモンゴル国[こく]で有名[ゆうめい]なおはなしです。)

 

バトルと黄色[きいろ]い馬[うま] むかしむかしモンゴルの草原[そうげん]に、バトルという正直[しょうじき]で勇敢[ゆうかん]な男[おとこ]の子[こ]がいた。黄色[きいろ]い小[ちい]さな馬[うま]がいちばんの仲間[なかま]。一人[ひとり]と一匹[いっぴき]は、ナーダムの競馬[けいば]では9回[かい]も優勝[ゆうしょう]したんだ。

ある秋[あき]、バトルがくらす国[くに]の領主[りょうしゅ]が、となりの国[くに]の領主[りょうしゅ]たちと、ナーダムの大会[たいかい]をひらく相談[そうだん]をしたついでに、こんな賭[か]けをした。

「あの黄色[きいろ]い馬[うま]が勝[か]ったら、君[きみ]たちから30平方[へいほう]キロメートルずつ牧草地[ぼくそうち]をもらおう。負[ま]けたら、君[きみ]たち一人[ひとり]ずつに、30平方[へいほう]キロメートルの牧草地[ぼくそうち]と、美人[びじん]を2人[ふたり]ずつプレゼントしよう。」

うわさはあっという間[ま]に広[ひろ]がって、バトルは心配[しんぱい]で恐[おそ]ろしくてたまらなくなった。

[うま]は年寄[としよ]りだから負[ま]けるかも知[し]れないし、負[ま]けたら、国[くに]の人[ひと]たちに、すごく迷惑[めいわく]がかかってしまう。ああ、負[ま]けたらどうしよう!

試合[しあい]の日[ひ]、草原[そうげん]には見物人[けんぶつにん]がおしよせた。

試合[しあい]に出[で]る何百匹[なんびゃっぴき]もの馬[うま]もやる気[き]まんまんだ。王様[おうさま]たちが席[せき]におつきになると、いよいよ試合[しあい]開始[かいし]。コースはなんと30キロもある。バトルと黄色[きいろ]い馬[うま]は、ゴールの直前[ちょくぜん]で必死[ひっし]にラストスパートをかけて優勝[ゆうしょう]した。

「やったあっ!」見物人[けんぶつにん]も大[おお]よろこびだ。

でもね、バトルの馬[うま]はゴールしたとたんに倒[たお]れて、二度[にど]と立[た]ち上[あ]がれなかった。

あの馬[うま]が死[し]ぬなんて。。。悲[かな]しくて、馬[うま]のそばを離[はな]れられないバトル。

夜中[よなか]、ぼんやりしていると声[こえ]が聞[き]こえてきた。

「ねえバトル、ぼくたちほんとに長[なが]い間[あいだ]いっしょだったね、別[わか]れたくないよ。

もし二人[ふたり]の思[おも]い出[で]を残[のこ]したければ、ぼくの体[からだ]で楽器[がっき]をつくって、ずっと君[きみ]のそばに置[お]いてね。」

バトルは言[い]われたとおりに、馬[うま]の骨[ほね]で楽器[がっき]の棹[さお]を、しっぽで弓毛[ゆみげ]と弦[げん]を、皮[かわ]を共鳴胴[きょうめいどう]にはり、最後[さいご]に頭[あたま]を棹[さお]のてっぺんにのせて、モンゴル草原[そうげん]ではじめてのモリンホールを作[つく]った。

それからというもの、モリンホールはモンゴル人[じん]といつも一緒[いっしょ]だ。
お年寄[としよ]りの話[はなし]では、ラクダもモリンホールを聞[き]くと涙[なみだ]を流[なが]すらしい。お乳[ちち]の出[で]ない母[かあ]さんラクダにモリンホールを聞[き]かせたら、お乳[ちち]が出[で]たって。

そんな言[い]い伝[つた]えもあるよ。モリンホールの音[おと]は、人間[にんげん]だけじゃなくて動物[どうぶつ]の心[こころ]にもとどくんだね。

スーホの白[しろ]い馬[うま]

[ちい]さな羊飼[ひつじか]いの男[おとこ]の子[こ]、スーホは、ある日[ひ]、草原[そうげん]で怪我[けが]をした白[しろ]い子馬[こうま]を助[たす]け、家[いえ]に連[つ]れて帰[かえ]った。

何年[なんねん]かすると、子馬[みっ]は速[みっ]さでは誰[だれ]にも負[ま]けないほどのりっぱな馬[うま]に育[そだ]った。

そのころ、スーホは競馬[けいば]に出[で]ないかと誘[さそ]われたんだ。

優勝[ゆうしょう]すると、領主[りょうしゅ]の娘[むすめ]と結婚[けっこん]できる。そしてスーホは白[しろ]い馬[うま]に乗[の]って優勝[ゆうしょう]した。でも、領主[りょうしゅ]はスーホがまずしい羊飼[ひつじか]いだとわかると、約束[やくそく]をやぶって、娘[むすめ]をスーホのお嫁[よめ]さんにしなかった。それだけじゃない。

自分[じぶん]の兵隊[へいたい]に、スーホをいためつけて白[しろ]い馬[うま]を盗[ぬす]むよう命令[めいれい]したのだ。
ひとりで家[いえ]にやっとたどりついたスーホが傷[きず]の手当[てあ]てをしていたころ、白[しろ]い馬[うま]は領主[りょうしゅ]のところから逃[に]げ出[だ]した。

残酷[ざんこく]な領主[りょうしゅ]は兵隊[へいたい]にこう命令[めいれい]したんだ、

“お前[まえ]たち、何[なに]が何[なん]でも白[しろ]い馬[うま]をつかまえろ!つかまえられなければ殺[ころ]してしまえ!”。

[しろ]い馬[うま]はスーホのところに必死[ひっし]でたどりついた。

けれども傷[きず]が深[ふか]くて、とうとう死[し]んでしまった。スーホは悲[かな]しくて気[き]が狂[くる]いそう。

その晩[ばん]、スーホの夢[ゆめ]にあらわれた白[しろ]い馬[うま]が、こう話[はな]しかけた。

“ぼくのこと忘[わす]れないで。君[きみ]とずっと一緒[いっしょ]にいられるように、ぼくの体[からだ]で楽器[がっき]を作[つく]って”。 これがモリンホールができた理由[りゆう]だよ。

(「スーホの白[しろ]い馬[うま]」は中国[ちゅうごく][うち]モンゴル自治区[じちく]で有名[みっ]なおはなしです。)

 

スーホんが助けた白いハルハが矢に打たれ悲しむ曲

アニメと馬頭琴のメロディを合わせたもの・・白い馬ハルハが打たれたまで・・・だが

 

スーホーとハルハが、競争に勝つときの、軽快なテンポが魅力である。

万馬の轟

モンゴル小学生は絵が抜群にうまい

モンゴルは牧畜文化である。

馬羊牛駱駝それらの糞までもけして無駄にしない。

楽器も、馬の毛皮や尻尾で作られ、その柄は馬の形で掘られる。

馬と人の心が一体となったメロディとリズムと そのものの生活がある。

こうした動物と一体となった人の生活から生まれ出た文化様式、考え方、

それは日本の農耕文化とはまったく違った理解が必要だ。

モンゴルを理解するには、その自然、その歴史、その生活を思い浮かべながら ハートでとらえなくてはなるまい。