多数決という集団暴力

多数決で決められないことがある。

それは命に関することである。

人の命を人が決めることはできない。

その人が自己であれ、他人であれ、

人が創った国であれ、国連であれ、

法であれ、神であれ、人の命を決められない。

命の問題を唯一決められるのは

自然だけである。

 

自然は神ではない。

人間の求める宗教の神や悟りではない。

人間の命は自然に創られた存在であるからだ。

創られた命が同じ創られた命を決定し、

その人の生死の判断を決定していいのだろうか?

それができるのは人の命が創りまた壊すことができる自然だけであろう。

それを創られた者同士がその命を創り壊そうとすることは

単なるエゴのオゴリによる妄想であり、不自然なことをしようとするから迷う

迷って、止む無く多数決で決めようとする。

それは単なる多数の暴力でしかない。

 

民主主義は国民が主人であるのに、国という多数決集団が主人である国民を支配し、その命を決定しようとするのは似非民主主義であろう。

一個の国民も、一個の国も同じ命の重さをもった存在であるというのが民主主義である。

それを多数の国民が、少数の国民の命を支配し、その生死を決定していいのだろうか?

それは集団暴力となんら変わりがない。

 

そうした自然から作られた人の命として判断すると

戦争による殺人、死刑も 人間のオゴリであり、

それは殺人、自殺、自爆テロと変わりない行為であろう。

自分が創造主のような神や悟った仏になったような教祖や信徒や政治家が

その人を救うという名目で、殺しを正当化する事件は後を絶たない。

 

もし、創られた人が多数決でも人の命を決定してはならないという自然法が

世界で承認され、一人1人の意識に働きかけたなら、世界はもっと平和になり、

自然にあった生活ができるように思える。

 

この地球自然を人類だけが支配し、他の生物の命を決定することさえも、

人類のオゴリであり、不自然である。

人類の命も生物の多様性の一歯車にすぎないことを自然は証明している。

 

弱肉強食という一様にみるのではなく生物共存と多様にみるのが自然

 

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