4月初めに麦間に陸稲の蕎麦の種を播き、
7月に麦を収穫せずに、
陸稲と蕎麦が芽を出し、
雑草のように自然交代することを理想として試みた。
だが、麦間には雑草だけが生えたので、それを一度は抜き、
陸稲と蕎麦の芽が出ることを期待したが・・
3週間後は麦間の雑草は1mにもなっていた。
その雑草を抜き立った後に、200坪の麦畑に播いた20キロの陸稲のうち3粒の種が芽を出していた。
100万分の1の確率で理想論が実現していたことになる。
だが、その奇跡的な理想論も、1mの雑草を抜き取り、水揚げし、また生える雑草を抜きとらない限り、消えゆく運命である。
50坪の畑に4月初めに蕎麦と陸稲の種を播いたものは、
6月には陸稲は光が入る部分には10センチほど伸びたが、8月初めにはその陸稲の芽は蕎麦が実りきらずに、ほとんど消え去っていった。わずか一万分の1の確率で、陸稲の芽が生きているのを発見した。
その蕎麦下の陸稲の芽も消え去る日は近いだろう。
もし、生き残らせるには周りの蕎麦と雑草を刈り、毎日水やりをすればなんとか生き残れるだろうが・・それだけの手間と犠牲をするだけの価値がそこにあるだろうか?
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多くの理想論がそうだが・・・
あのマルクスの資本主義を修正しようとした共産思想にもいえるだろうが・・・
およそ人が論理的に考えられることはあり得るが、それが実現できる確率は奇跡的な一兆分の1にすぎないことが多いのではないだろうか。
その奇跡的な確率で、突然変異した理想論の稲をなんとか実現させようと必死になっているのが、品種改良であり、遺伝子組み換えであり、ゲノム編集であろう。
共産主義から生まれた国も資本主義の容認する品種改良しながら共産党理想を残しているのもそうだろう。
また、
そうした理想論を必死で追いかけることは
生まれる前にダウン症などの病気が解った時点で流産させるという行為にもつながってくる。
それは二年前に起きた障碍者殺傷事件は意志の疎通ができない障碍者は殺した方が良いという考え方にもつながってくる理想論である。
こうした理想論の根拠になっているのは
その人類の、その人間の、その社会の、その個人の・・エゴからくるものではないかを
問い直してみる必要がある。
その理想を実現するために、
理想的な稲の芽を伸ばすために、多くの蕎麦と雑草の命を、人の労力と金と情熱を犠牲にしていいのか?
また、多くの今の障害者の命を犠牲にしてまで、障害者のいない社会を築こうとしていいのか?
共産主義革命で、どれだけの多くの人が犠牲になったか? そんな犠牲にしてまで共産革命に意味があるのか?
あのオーム真理教もそうだが、理想の国家を築こうと、誰構わず大量に殺していいのか?
歴史的にみても
理想論は人類の、国も、社会の、個人のエゴから実現させようとしていることが多い、
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理想とか夢とか追い求める前に
その欲望らが、
生物多様性の自然において・・自然の倫理に合っているか?
自然と欲望を照らし合わせて・・
その理想という欲望をよくよく吟味して
それがエゴなら「諦めが肝心」であり、
けして、「ネバーギブアップ」するなである。
だが、その理想・欲望・夢が自然に合致するなら、
「Never give up」であろうし、「夢は必ず叶う」し、
それに対して努力しても、しなくても、
自然が味方するのだから、その理想は実現するといえるだろう。
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いろいろな考え方がある
それらは考えられる限りあり得るだろう。
「火がないところには煙が立たぬ」
という一面だってあることだから。
しかし、
我々の思考は宇宙の果てでも、何億年前でも後でも飛ばすことができるように
それが実現するということは一瞬で一部ありえるだろうか・・そう永く実現できるものでもない。
縄文時代のように、
その生活がより自然にあっていれば一万年も持続可能であろうし、
その生活が不自然であれば、現代生活は数百年で終わりを告げるだろうと思える。
余談・・
二日後
蕎麦を押しのけるように生えた引っ付き虫(コモセンダン草)が繁茂していたのを根っ子ごと引き抜いたら、そこに線播きした陸稲が7センチほど芽を出していた。
この場所は雑草地で、石ころだらけで、耕耘していない荒地である。
だが、畑よりはるかに雑草地の方が稲が芽を出したとはびっくりした。
しかも、蕎麦下よりも、引っ付き虫の下の方がよく芽を伸ばしていたのである。
それから推測すると
日当たりがよい場所なので、稲は水分よりも太陽の光を必要とする。
また、蕎麦よりも、引っ付き虫の種類の方が稲との相性がいいのだろう。
もちろん、
引っ付き虫を抜き取らねば、稲は消え去る運命ではあるが・・・