弁証法に対する小説法

 1ヶ月後の自分に、名前を付けて 対話しようと思ったら、ふと気が付いた。

 これは小説の設定と同じだと。話したい人物をモデルとして、その想像上の名前を付ける。モデルが仏陀でも、キリストでも、アッラーでもかまわない。実際と神仏ではないから、自分が想像する神仏として名前を付けて、話させるのである。

 また、実際の友人や知人や著名人をモデルにしても、名前を付けて、いろいろと登場させて、何かし、何かを話すようにする。

 そして、登場人物に語らせ、行動させて 問題解決する。会話だけでなく、世界のどこでもいけるし、その登場人物は人間だけでなく、動物でも植物でもかまわない。

 これを弁証法(対話法)に対して、小説法ということにしよう。

 寅さんは実際にはいないが、まるで、柴又に生きていたかのような伝説をつくるようなものである。こうした寅さんの映画のような思索法は難しい理論よりも、楽しくその問題を受け止められるようになる。

 小説や映画はそうした意味でも、問題解決法を示唆するように思える。

 というように想像すると、

 未来の自分の名は ありがたや権兵衛 過去の自分の名は さち みつる 
と、過去使っていたニックネームに決定した。

 その他は、登場人物の設定で いろいろな名前をつけたいと思う。主人公はもちろん 未来の自分なので ありがたや権兵衛 である。未来といっても、今の自分より年寄りではなく、理想な年齢に設定する。寅さんのようにけして歳とらないようにしてもかまわない、とにかく自由に生きさせるのである。

 未来の自分がモデルだとしても、そういう自分にならねばならないという努力は必要ない、ただ夢みるだけでいい。とてもなれない自分でいいのだ。また、その人物は超能力があっても、なくても、ダメ人間でもいい。

 おもしろい映画をみているような気分になればいいだけだ。それが問題解決にもならなくてもいい。ただ理想を自由に想像するだけで十分なのだ。どんな文学も問題提起をするが、答えはでないが、現実の自分になにかしらの示唆をさせればいいであろう。

 

  

 

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