永いこと信じていた神仏を捨て去ってから、もう10年以上たつ。時々、神仏に替わる何かに甘えたくなるときがある。もちろん、神仏を捨てれば自然だけがそこに在る。自然は甘えられる存在ではなく、無心とか、無我とか、自然との一体感を楽しめるものである。
甘えられるものは人間であり、それが生きていようと、死んでいようと関係なしに心をゆだねることができる。ただ、生きている人間に甘えようとすると、相手に迷惑がかかることがあり、逆に無視されることもあるので、いつでも甘えられる存在ではない。
では死んでいる人間に甘えられるかというと、自分の想像する姿でしか、甘えられないので、自分の想像力が乏しい場合は空しくなる。つまらないドラマを見ているようなもので、すぐ飽きてくるし、よけい自分をひ弱にしてしまう。
そこで、唯一甘えられる存在は自分自身だけであると発見できる。甘える自分と甘えられる自分と二種類存在しないとそれはできない。はたして、自分という存在は一人だけであろうか? 体の細胞は1ヶ月もすれば全部新陳代謝することを知れば、自分自身は1ヶ月ごとに生まれ変わっている存在であり、1ヶ月前の自分と今の自分、そして、1ヶ月後の自分は似てはいるが生死の差ほど違っているといえるではないか。
すると、今甘えることができる自分は1ヶ月後の自分自身ということになる。この1ヶ月後の自分が今の理想の自分であることを信じることが、自信を持つということである。この1ヶ月後の自信こそ、神仏よりも、偉人よりも、先祖よりも、家族よりも、友人よりも、もっと確かな甘えられる存在である。
自己実現の技術は理想的な自分をまず思い浮かべることである。その理想的な自分を信じて、毎日鍛錬するのがスポーツ、ダイエット、学問。芸術、仕事に通じてもいえることであろう。