高三の娘が進路を決めるのに困っていた。どの大学を選択するかを迷っていた。
この迷路は誰でもが経験することだ。私もそうだったからだ。そこで、親の私がアドバイスしたことはこうだ。
「自分のやりたいことをいくら探しても、仕事は見つからないよ。人がやってほしいことの中から、自分しかできないことを探せばきっと見つかるよ」
青春の日々でもっとも悩ましいのは「自分が何をしていいのかわからない」「自分が本当に求めていることが何かがわからない」ということである。それをさらに考えるといつしか「何のために勉強するの? 何のために生きるの? 何のために働くの?」という根本命題にはまりこんでしまう。
いわば、生きる意味を問い出すのである。これが生きる迷路の入り口である。「生きるべきか? 死ぬべきか?」とまさに、生命の崖淵に立たされる。
この迷路を造っているのは「生きているという事実」を疑ってしまう心が生み出すものである。生きているという事実は疑うこともできなければ、信じる必要もないものだ。「自分はここに生きている」というのは、事実であり、その事実をそのまま受け入れる道しか人にはないからだ。ありのままに生きる、自分のそのままでいい、という自然の生き方になってくる。
ただ、この「自分はここに生きている」という事実には2つの欲求が同時に隠されている。それは自力本願と他力本願の両方である。「自分はここから生きる」と「自分はここに生かされている」という双方向の欲求である。
大学を選ぶというのは、将来どんな仕事に就くかどうかで決められ。その仕事のために知識や技術を学ぶだからだ。もし、自分が何の仕事をしたいかわからないのは、その仕事の経験も知識もないから、決めようがないためである。そのため、ほとんど知識も経験もない想いから、選ぼうとするから、絵に描いた餅のようなもので、はっきりと、決められない。それがしいては、自分が何をしたいかわからないというような迷路にはまりこんでしまうのである。
そもその「仕事とは何か?」である。仕事のいう文字は「仕える事」と書く。「仕えるとは
1.目上の人のそばにいて、その用をする、奉仕する。2.官などの、公的な地位について、その職に奉仕する」である。
そして、「働くとは1.自分の体と精神を動かす2.他人のために努力する、役に立つ」ということである。
つまり、仕事も労働も、他人のために自分の身体と心を動かし努めるという意味である。その意味はもし自分のために生きるとしたら、それは単なる欲望であって、仕事でも労働でもないのだ。
これをお金に例えるならば、「自分のしたいことをするには金を出さなくてはならないが、他人のしたいことをするとお金が入る」という意味なのである。
また、生きているという状態からいうなら、「自分が生きるのは欲望であるが、自分が他に生かされるのは仕事であり、労働である」という意味になる。
人の好きな言葉に「愛」があるが、これは自分が他人に対する行為になるので多分に欲望である、一方「感謝」という言葉は、他人に自分が生かされる行為になるので、多分に仕事や労働の意味になる。そのため、愛することにはいくらでも金も力をつぎこむが、感謝するところからいくらでも、金や力が湧いてくるのである。
仕事をすると、「ありがとう」というけれど、「愛してる」とは言わないのはそのためだ。
もし、自分の仕事や勉強の方向を決めるには愛する(好きな)事を探さず、感謝する(生かされている)事を探すことである。
僕が言うのもなんですが、おっしゃる通りだと思います。わがままばかりとおして生きてきましたが、その意味が身にしみます。
絵描きのせんこうじさんが納得してくれたなんてびっくりです。好きな道で仕事になるのは本当に理想的な生き方ですが、それが至難の技であり、天才的な生き方にように見えます。でも、どんな嫌な仕事でも、あとで好きになるから、好き嫌いの順番の差かもしれません。