幸せのちから

 昨夜、金曜ロードショーで「幸せのちから」を観た。二度目だったが、その印象はまったく違ったものになった。

 「お金とは何か?」を知ってくると、お金を求めて、それを手にする成功や幸せは馬鹿馬鹿しいと感じられたからだ。

 一方、震災の処理のお金はどうするというNHKの視聴者の発言があったのも、可笑しなものに思えた。

 生活のためのお金が、お金のための生活になっている現実社会の盲信が感じられたからだ。あと、数十年か数百年か先の未来人はこうした現代の「お金のための生活」をせせら笑ってしまうだろうことを、まるで原始人の占いを信じて行動した姿に移し替えて見えた。

 主演のウイルスミスが、ホームレスから、株のブローカーの一流企業の社員になる成功物語だが、その企業は株の売買のアドバイザーであり、その手数料を儲けるものがだ、それは「金で金を儲ける」という金融商品の販売会社である。いわば投資銀行・証券会社にあたる。

 金を生産することと、衣食住の生活必需品を生産することとは違うはずだが、それが同じに扱われるだけでなく、金が生活必需品よりも大事になっている、本末転倒の姿がいわば投資会社である。

 「お金とは何か?」

 現代のお金とは「国が特別な中央銀行にのみ独占的に発行させたもの」である。つまり、お金が生産できるのは唯一中央銀行だけであり、その他の会社も個人も国も発行生産できないという法律に基づいた数字が書かれた紙切れにすぎないのである。

 投資会社であれ、どんな国民であれ、どんな国であれ、金を稼ぐこと、生産すること、発行すること、増やすこと、みなできないのである。

 これが、できると思いこまされ、金をいかに多く稼ぐことが成功者になるという金の原始宗教政府による洗脳の結果である。

 金が仏教の悟りや、キリスト教の神の愛に当たっており、その金と悟りと神の愛という最高の幸せのちからを求めて、修行努力する姿が、この映画と現代社会の成功物語である。

 仏教の悟りのような全知全能は不可能であり、神の愛といっても、神そのものが不可知であるから、それらを手にすることはありえない。もしあるとしたら、単なる「悟ったという思いこみ」であり、「神に愛された特別な人という思いこみ」にすぎない。

 金だって、すべてのお金の所有者は中央銀行だけであり、それ以外の国民や会社や国がすべて所有することは不可能である。

 現在の金は仏教の悟りや神の存在のような「信心から生まれた空想の姿」にすぎない。

 もし、あなたが仏陀のようにすべて悟った人であり、キリストのような世界中の人類すべてへの愛に満ち、そして、世界の創造主のような神として、世界中の人々が幸せになれるようなお金を発行しようとしたら、まず何を考えるだろうか?

 たぶん、ずべての人々が協力して生活できるためのお金を発行するだろう。協力は「困った人を助ける」ことから生まれる。そのように、お金は困った人を助けるために発行生産されることになるだろう。

 つまり、主演のウイルスミスが息子との衣食住に困った時に、お金が発行生産され、彼の家族に贈られることから始めるだろう。しかし、映画では困った家族の金を国が税金として、資産家が家賃として、奪いさることから始まっている。そして一流企業に就職して、金を得ることが神の愛を受けることが成功者の条件になっている。

 これは金が神のような絶対君主のような姿になった自由も愛もない世界である。金は困った人を助けるための道具であり心である。そのため、困った人がいなかったら、お金の発行は必要がなくなるのである。

 もし、あなたが中央銀行の総裁だったら、生活困窮者のためのお金だけを発行し贈与することから始めることがもっとも神様に近い存在になる。

 次に問題になるのが、「どう人々は協力しあうか?」である。

 もし、「あなたが困った人を助けたならば、次にあなたが困った場合は誰かに助けられる」という保証(信心)が協力を持続させる力になるだろう。

 それは地域通貨を発行しようとしたときの、心理と同じである。ボランティアでは無償の愛として、「与えた愛を返してもらわなくてもいい」という行為が持続できないため、せめて、「自分が与えた分の愛」を、与えた人からでなく、他の誰かからでも、「恩返し」してもらう方法が地域通貨の原点であるからだ。

 中央銀行券のような法貨も同じようになることが必要である。しかし、多くの金の悪業を起こす原因となるのが、お金の無制限な通用数・通用期限である。

 人々が「自由と愛」の元に、協力しあうための条件は「人々の平等」である。「人の上に人を造っても、人の下に人を造ってもいけない」

 そのためには、「自分が困った人を助けた分だけ、自分が困った時に助けられる恩返しをされる」ことが条件になる。自分が助けた分また、助けられた分以上も以下も必要がないのである。

 例えば、あなたがお腹が空いていた人に100円のリンゴをあげたとしたら、あなたがお腹が空いたときに誰かに100円のリンゴをもらえればいいのである。100円のリンゴをあげたら、1000円分のリンゴ10個をもらう必要も、また、1円のリンゴに代わってもらう必要もない。

 そのため、お金は最低2回だけ使えればいいことになる。

 例えば、お腹が空いたAさんに、お腹が空かないBさんが100円(りんご)をあげたならば、今度は、お腹が空いたBさんに、お腹が空かないAさんが100円(りんご)をあげて、そのお金の一生は終了すればいいことになる。

 また、10人の間でお金が回ったとすると、100円のお金は→B→C→D→E→F→G→H→I→J→ 10回通用してその生涯を終えることが必要になる。

 しかし、実際問題、その回数をはかるのは難しいので、お金の通用期限を設けることで、お金を回すことができることになる。

 ところが、現在のお金は無期限通貨であり、しかも、利息が付いてくるので、お金は世界中を回ることはなくなり、停滞、渋滞することになる。それが所得格差拡大であり、金による世界征服と隷従世界になってしまっている。

 しかも、中央銀行は商業銀行に金を貸し出すだけで、生活困窮者に直接金を贈与することはないため、金持ちはさらに金持ちで豊かと幸せになり、貧乏人はさらに貧乏に、不幸になってしまう構造になるのである。

 しかも、国民の代表である国家が金持ちから借金して隷従する政治をせざるをえなくなる。それが、この「幸せのちから」の映画の姿であり、金と生活の本末転倒な原始宗教の信徒成功物語になっている。

 金が人々の協力の神具になるか、独裁者の権力の道具になるかは、金がどこから発行されるか、金の通用期間が制限されるかどうかにかかっているのである。

 

カテゴリー: お金って何だ, 未分類 パーマリンク